第三十三章 根本的に花守りの丘 ☆
「今の麻白に、麻白としての自覚を持たせる?」
時は昨日、企業説明会を終えた後、玄の父親が病院に戻った陽向のお見舞いに訪れた頃に遡る。
身を乗り出した陽向の問いに、玄の父親は迷いのない足取りで陽向のもとまで歩いてくると、一冊の魔術書を手渡した。
「ああ。私はこれまで、この魔術書に書かれている手順どおりに事を進めてきた。麻白の人格断片をーー麻白の心と記憶を完全に受け継いだ瀬生綾花さんは、もはや麻白だ。だが、今のままでは、麻白として生きていることにはならない」
「叔父さん、どういうこと?」
陽向が先を促すと、玄の父親は大げさに肩をすくめてみせる。
「今の麻白は、瀬生綾花さんと上岡進くんだという自覚はあっても、麻白だという自覚はないに等しい」
「ーーっ」
その玄の父親の言葉を聞いた瞬間、陽向は息を呑んだ。
確かに、綾花の麻白としての自覚は、あまりないように感じられたからだ。
玄の父親は目を伏せると、静かにこう告げる。
「麻白としての自覚がないのなら、その自覚を植え付けてしまえばいい」
「この魔術は、麻白が本当の意味で麻白になる魔術なんだね」
「ああ」
陽向の打てば響くような返答に、玄の父親は確信に満ちた顔で笑みを深める。
「そうなんだ。この魔術書、意外と面白そうだね」
陽向は嬉しそうに、渡された魔術書のページをめくった。
「叔父さんに頼まれなくても、麻白は僕の数少ない友達の一人なんだから絶対に連れ戻すよ」
魔術書を読んでいた陽向は、昔を懐かしむように明るい笑顔で語る。
「そして、昔みたいに、みんなで一緒に遊ぶんだ」
「陽向くん、ありがとう」
どこまでも楽しそうな陽向を見て、玄の父親は穏やかに微笑んだのだった。
「うーん」
綾花は思い悩んでいた。
進の家の前で、腰に手を当てて悩ましげに首を傾げている。
「……なんか、変な感じだよな」
「そうね」
ほんの少しの焦燥感を抱えたまま、綾花は遠い目をする。
その隣には、綾花の母親が荷物をまとめながらも穏やかな表情で綾花を見つめていた。
拓也達と別れた後、綾花は綾花の母親とともに進の家を訪れていた。
マンションに帰宅した後、今朝から起きている不可解な出来事を綾花の母親に伝えた結果、今日はみんなで進の家に泊まりに行くことになったのだ。
リビングで綾花達が来るのを待っていた進の母親は、直後に鳴ったインターホンの音に意識を傾ける。
リビングのドアを開けて、インターホンがある部屋へと向かうと、進の母親は揺らぐことのない声で問いかけた。
「……はい、どなたですか?」
「母さん、ただいま」
インターホンから、綾花と思われる少女の声が聞こえてきた。
慌てて進の母親は玄関へと向かうと、ドアを開けて綾花達を出迎える。
「琴音、お帰りなさい」
「ああ」
綾花が顔を上げてそう意気込むと、進の母親は嬉しそうに微かに笑みを浮かべてみせる。
玄関に立った綾花の母親は、居住まいを正して真剣な表情で進の母親に頭を下げてきた。
「上岡さん。今日は突然、お邪魔してしまってすみません」
「いえ、こちらこそ、今日はよろしくお願い致します」
綾花の母親の言葉に、進の母親は決然とした表情で深々と頭を下げる。
「うん……?」
進の母親に招かれて、リビングにあるダイニングテーブルの椅子に座ると、綾花は真っ先に疑問に思ったことを口にした。
「今日は、ラビラビのウインナーがあるんだな」
エプロン姿の綾花の母親とともに、台所でラビラビのウインナーが入った皿をいそいそと並べている進の母親の姿を目の当たりにして、綾花は知らずそうつぶやいていた。
「ええ。前に、琴音が雅山さんの家で食べたことがあるって言っていたから思いきって買ってみたの」
「そうなんだな」
呆れた大胆さに嘆息する綾花をよそに、進の母親はラビラビのウインナーが並べられている皿をテーブルに置くと、誇らしげに笑みを浮かべてみせる。
テーブルには、所狭しと夕食の料理が置かれていった。
ラビラビのウインナーと肉じゃが。紅茶が入ったポットとコップ。そして、メインディッシュとして、ナポリタンが置かれてある。
ラビラビのウインナーは、人気ゲームのキャラをモチーフに、食品会社が新たに開発したものらしい。
「あの、瀬生さん。少しよろしいでしょうか?」
「はい?」
進の母親は綾花を横目に、綾花の母親にそっと耳打ちする。
綾花の母親がそれに了承すると、二人は互いに見つめ合って笑みを浮かべた。
綾花が不思議そうにしていると、綾花の母親と進の母親は予期していたように人差し指を立てる。
「ねえ、琴音。私達のわがままに、少しだけ付き合ってくれない?」
「うん?」
進の母親の意味深なその台詞に、綾花は不思議そうに首を傾げる。
綾花の母親と進の母親は申し合わせたように、調度を蹴散らすようにして綾花のそばに駆け寄ると、小柄なその身体を思いきり抱きしめた。
「……お母さん、母さん?」
「綾花……綾花……」
「進……進……」
綾花が率直に疑問を抱いて小首を傾げても、噛みしめるように綾花の母親と進の母親は何度も何度も同じ言葉を繰り返す。
居心地悪そうに綾花が顔を俯かせていると、進の母親は綾花を抱きしめたまま、こう続けた。
「進、また、いつでも帰ってきてね。私達はあなたの家族なのだから……。これからもずっと、あなたの家族なのだから……」
「母さん……」
進の母親のゆっくりと落ち着いた声が、綾花の耳元に心地よく届いた。
綾花の母親は深々とため息をつき、綾花を抱きしめながら告げる。
「ごめんね、綾花。お母さん、やっぱり不安なの。黒峯さんに想いを伝えたくても、上手く伝えられなくて」
「あ、ああ」
綾花の母親の言葉に、綾花が少し困ったようにそう言った。
すると、綾花の母親は言いづらそうに、おずおずと言葉を続ける。
「でも、綾花は綾花だものね。いつかきっと、黒峯さんにもこの想いが伝わると信じているの」
「……ありがとう、お母さん」
麻白の心を宿してから魔術による争奪戦、という極大まで広がった問題。
文字どおり、怒涛の日々を送っていた綾花は疲れたようにため息をつく。
しかし、穏やかな表情で胸を撫で下ろすいつもどおりの母親達の姿を見て、綾花は胸に滲みるように温かな表情を浮かべていたのだった。




