第三十一章 根本的に心の浸食
「ううっ……」
その日、綾花は困り果てたように、校門前を歩いていた。
今朝の謎の頭痛の現象。
そして、昂が告げていた綾花を完全に麻白にすることができる魔術書の存在。
綾花達にとって、不可解な出来事が立て続けに起こっていた。
「何故、我の魔術を持ってしても解明できぬのだ!」
その後ろで、昂が不満そうに地団駄を踏んでわめき散らしている。
綾花にかけられた魔術の効果は、昂の魔術によって何とか押さえることができたのだが、肝心のかけられた魔術そのものについては、昂の魔術を持ってしても判明することができなかった。
「おのれ~、黒峯蓮馬、そして黒峯陽向!綾花ちゃんに怪しげな魔術をかけるとは許せないのだ!」
「……はあ。陽向くんの働きかけは、黒峯蓮馬さんと同じように強引みたいだな」
元樹が呆れたように嘆息すると、昂は不愉快そうに顔を歪めた。
「もはや、我は手段を選ばぬ!今すぐ、黒峯蓮馬のマンションに乗り込んで、綾花ちゃんと魔術書を賭けた天下分け目の戦いに挑むべきだ!!」」
「……それをしたら、おまえはまた、警察に捕まるんじゃないのか?」
「そんなことはどうでもよい。我のテリトリーの中で、綾花ちゃんを泣かせたというだけでも万死に値する。我は、黒峯蓮馬と黒峯陽向から綾花ちゃんを護らねばならなかったというのに、護りきれなかったのだ!」
元樹があっけらかんとした口調で言ってのけると、憤懣やる方ないといった様子で昂がそう吐き捨て、目の色を変えて綾花のもとに近づこうとする。
「……ああ、許せないよな。だけど、綾の話だと、陽向くんは家族や親戚以外の人とは面会謝絶だから、直接、会うのは厳しいな。『対象の相手の元に移動できる』魔術を使えば、会いに行くこともできるかもしれないが、何かしらの罠が仕掛けられている可能性も否めないな」
これ見よがしに昂が憮然とした態度で言うのを聞いて、元樹はまるで苛立つように意識して表情を険しくするとまじまじと綾花を見た。
「ううっ……」
綾花は、拓也に支えられながらも、頭を押さえながら思いつめた表情でしょんぼりとうなだれている。
「綾花、大丈夫か?」
「たっくん」
拓也が話しかけると、綾花は顔を上げて驚きの表情を浮かべたが、すぐにみるみる眉を下げて哀しそうな顔になった。
元樹は乾いた声で、もう一度、拓也と同じ質問をする。
「綾、大丈夫なのか?」
「…‥…‥わ、私、帰りたいの」
言葉に詰まった綾花は顔を真っ赤に染め、もういっそ泣き出しそうだった。
そんな綾花の反応に、元樹は表情をさらに険しくして軽く肩をすくめてみせる。
「帰りたい?」
「私、玄と大輝、そして父さんと母さんのところに帰りたいの」
拓也達は一瞬、綾花が何を言っているのか分からなかった。
複雑な表情を浮かべた拓也が、戸惑うように言う。
「綾花、どういうことだ?」
「私はーーううん、あたしは玄と大輝、そして父さんと母さんのところに帰りたい。……帰りたいよ」
そうして口にされたのは、思いもよらない言葉だった。
これには拓也だけではなく、元樹と昂も唖然とした。
「なっーー」
「あ、綾花ちゃん、何を言っているのだ?」
「……綾、もしかして麻白の記憶と心が、今も混雑しているのか?」
状況がいまいち呑み込めない拓也と昂と不思議そうに問い返してくる元樹が、綾花をまじまじと見た。
「あっ……」
拓也達の姿を視界に捉えると、追いつめられた表情を浮かべていたはずの綾花の表情は急速に萎えていく。
「……私、また、変なこと、言っていた」
綾花は咄嗟に頭を押さえると、不安そうに顔を俯かせる。
その様子を見ていた元樹は悔やむように言う。
「魔術で押さえても、押さえきれない状態なのかもしれないな」
「元樹、これからどうするつもりだ?」
「そのことなんだが」
拓也の疑問を受けて、感情を抑えた声で、元樹は淡々と続ける。
「明日の土曜日、玄と大輝の協力を得た後で、陽向くんの病院に行こうと思っている」
「つまり、玄達に協力してもらってから、綾花にかけられた魔術を解こうっていうことなのか?」
呆気に取られた拓也にそう言われても、元樹は気にすることもなくあっさりとした表情で言葉を続けた。
「ああ。陽向くんには、俺達から頼むよりは、玄達から頼んでもらった方が話を聞いてくれるかもしれないからな」
元樹は拓也達の方へ視線だけ向けて、世間話でもするような口調で言った。
「だが、恐らく、黒峯蓮馬さん達はありとあらゆる手段を用いて、俺達が玄と大輝、そして陽向くんと接触することを妨害してくるだろう。まさに、俺達の思いもよらない方法でな」
「うむ、確かにな」
元樹の言葉に、昂は納得したように頷いてみせる。
呆気に取られている拓也に目配りしてみせると、元樹はさらに続けた。
「だからこそ、舞波。明日、俺達が玄達や陽向くんと交渉している間、黒峯蓮馬さん達の妨害に徹してほしい。黒峯蓮馬さん達は、今回も俺達が後手に回ると思っているはずだ。それを逆手に取って、思いっきり攻めてきてくれないか」
「なるほどな。ついに黒峯蓮馬との長きに渡る戦いの決着をつける時が来たというわけだな」
真剣な眼差しで視線を床に降ろしながら懇願してきた元樹に、昂は腕を組むとこの上なく不敵な笑みを浮かべながら答えた。
「よかろう!我が必ず、綾花ちゃんを黒峯蓮馬の魔の手から護ってみせるのだ!」
「ありがとうな、舞波。俺達も必ず、綾を元に戻してみせるな」
昂の自信に満ちた言葉に対して屈託なく笑う元樹に、拓也は訝しげに眉をひそめる。
「おい、元樹。どうする気だ?」
「これから俺達は、玄と大輝、そして陽向くんに会いに行かないといけない。だが、黒峯蓮馬さん達は間違いなく、俺達を妨害してくるはずだ」
「ああ、確かにな」
探りを入れるような元樹の言葉に、拓也の顔が強張った。
「それに、黒峯蓮馬さんが帰ってきてほしいと懇願すれば、麻白としての意識が強い今の綾はそれを受け入れてしまうかもしれない」
「……そういうことか」
元樹の指摘に、拓也は苦々しい表情で綾花の方を見遣る。
目下、一番重要になるのは、綾花を護ることだ。
綾花はーーそして上岡は、いつだって自分の運命に翻弄されながらも他人のことばかり考えている。
それはどこまでも危うく、とてつもなく優しいーー。
綾花と上岡と雅山、そして麻白。
近くて遠い、背中合わせの四人。
誰よりも近いのに、お互いが自分自身のため、触れ合うこともできなければ、言葉を交わすことも許されない。
だけどーー。
会えなくても、言葉を交わせなくても、四人は繋がっている。
心を通してなら、想いを伝えられるし、悲しみや苦しみも半分こにすることができる。
手を伸ばせなくても、お互いがお互いの涙を拭えると信じているのだろう。
しかし、今の綾花は、四人分生きているという自覚より、麻白として生きているという自覚の方が強くなっている。
麻白に戻ってきてほしいーー。
あの黒峯蓮馬さんの要求に、今の綾花なら迷いもなく、応えてしまうかもしれない。
そうなれば、綾花を護るどころではなくなるだろう。
「綾、ちょっといいか?」
頭を押さえている綾花の肩に手を置いた後、元樹はまるでごく当然のことのようにこう言った。
「右手を出してくれないか?」
「右手?」
綾花が訳が分からぬまま、右手を差し出すと、柔らかではあっても有無を言わせない手つきで、元樹は綾花の手を取るとその甲に口づけをした。
「ううっ……」
「なっ!?」
その突拍子のない行動に、綾花が輪をかけて動揺し、拓也は目を見開いて狼狽する。
だが、元樹は平然とした態度で綾花にこう続けた。
「あのさ、綾。綾の中に宿る麻白の心が強くなって苦しんでいるというのなら、俺は綾の負担を少しでも減らしたい。だから、これはその証だ」
「おい、元樹!」
「拓也。綾と上岡で自我を保っていくのは難しいかもしれないが、俺達で綾の負担を少しでも受け持てば、不可能も可能にできるだろう」
苛立たしそうに叫んだ拓也に、元樹ははっきりとそう告げる。
恥ずかしそうに赤らんだ頬にそっと指先を寄せる綾花の頭を、拓也はため息を吐きながらもいつものように優しく撫でてやった。
「……そうだな。俺達は、綾花の負担を少しでもなくしてみせる」
「何か困ったことがあったら、すぐに俺達が助けるからさ」
「……うん。ありがとう、たっくん、元樹くん」
拓也と元樹の強い言葉に、綾花は泣きそうに顔をゆがめて力なくうなだれたのだった。




