第十六章 根本的に未来には様々な可能性がある
「ねえねえ、綾花、亜夢。あのね、私、ついに布施先輩と付き合うことになったの」
茉莉にそう打ち明けられたのは、期末試験の前の勉強会を茉莉の家でおこなっていた時だった。
茉莉が晴れやかな声で告げるのを聞いて、綾花と亜夢は不思議そうに首を傾げてみせる。
「えっ? 布施くんのお兄さんと」
と、綾花は意外そうな声で訊いた。
実際、意外だったし、全く予期していないことだった。
どれだけ女子生徒達の注目を浴び、ひっきしなしに告白されても、布施先輩は軽く受け流し、特定の彼女を作らないことで有名だった。
噂では、何でもゲームが好きな女の子がいいという話だ。
布施先輩にアタックする度に、茉莉は何度も意気消沈して落ち込んで帰ってきていたのを覚えている。
綾花はその度に茉莉にゲームのことを教えようとして、拓也から呼び止められていた。
その布施先輩が特定の彼女をーーしかも、茉莉と付き合うことになったということに、綾花達は驚きを隠せずにいた。
「そう。布施くんの協力もあってね。ついに念願叶って、布施先輩の彼女になりました」
明るく弾む声で、茉莉はくすりと笑ってみせた。
あれから元樹にいろいろとゲームに関して相談に乗ってもらったり、協力してもらったりして、ようやく茉莉は布施先輩から交際の了承を得ることができたのだ。
そんな茉莉を見て、綾花が勇気づけるように言った。
「そうなんだ。茉莉、頑張っていたものね」
「うん、茉莉、頑張ってた~」
「ありがとう、綾花、亜夢」
綾花と亜夢に励まされて、茉莉は嬉しそうに両拳を握りしめてみせた。そしてうっとりと布施先輩を思い出しながら、ほうっと夢見心地でつぶやく。
「それにしても、本当に布施先輩と付き合うことができるなんて、まるで夢のよう。…‥…‥よし!」
茉莉はそう言って気合いを入れると、胸元で指を組み合わせて祈るように目を閉じる。
明日からは毎日、布施先輩に会いに行って、先輩が好きなゲームについて話を聞こうーー。
目を伏せた茉莉はそう思って、頬をそっと桜色に染めたのだった。
「うおおおおおおっ!」
昂は一冊のアルバムをめくりながら、ひたすら絶叫していた。
昼休みの休み時間の合間に、自分の席の机に置いたアルバムを吟味し続ける。
「なんということだ! 我としたことが、このような重大な黙示録を今まで見落としていたとは!」
そう語りながら、昂は隅々までアルバムを凝視する。
そこには、幼き日の綾花の写真がずらりと貼られていた。
少し拗ねた表情でランドセルを背負う姿。
無邪気に笑いながら、ペンギンのぬいぐるみを掲げて喜んでいる姿。
心細そうに、隣を歩く拓也に抱きついている姿。
昂の知らない幼い頃の綾花の写真が、そこにはいっぱい詰まっていた。
まさに、昂にとって宝物と言っても過言ではないものだ。
だが、昂はそれと同時に思い知らされることになる。
拓也は彼女の幼なじみだというだけで、そんな綾花の過去を知っているということを。
そして、当然のことながら、自分よりも綾花と過ごした時間が明らかに長いということを。
「許せぬ! 許せぬぞ!!」
昂は激怒した。
激怒しすぎて、他のクラスメイト達から思いっきり冷めた眼差しを向けられ、避けられていたことにも気づかずに昂は叫んだ。
「おのれ、井上拓也! 綾花ちゃんの幼なじみだというだけで、綾花ちゃんに抱きつかれすぎなのだ! 一体、何なのだ、この写真は? 綾花ちゃんから抱きつかれているとは、なんと羨ましい!」
憤慨に任せて、昂はひとしきり拓也のことを罵った。ひたすら考えつく限りの罵詈雑言を口にしまくった。
「へえー、瀬生の小さい頃ってこんなんだったんだな」
「むっ!」
しかし、すぐ隣から声がして、昂は弾かれたように顔を上げた。そこには、昂が想像していたとおりの人物が立っていた。
学校一変わり者である昂や、根が真面目な拓也よりも身長は高く、爽やかな顔立ちで何よりも性格が気さくな感じの明るい色の髪の少年ーー元樹を見て、昂は露骨に嫌そうな顔をする。
「何故、綾花ちゃんに口づけをしてのけた、不届き千万な貴様がここにいるのだ!」
「…‥…‥はあ、布施元樹だ。いい加減、覚えろよな」
元樹が呆れたように嘆息すると、昂は不愉快そうに顔を歪めた。
「そんなことはどうでもよい! 我は綾花ちゃんのアルバムを堪能しておったのだぞ! 邪魔をするな!」
「おまえこそ、勝手に瀬生のアルバムを奪うなよ! 勉強会の後、帰ったらアルバムがなくなっていたって、瀬生、困っていたぞ!」
傲岸不遜なまでに自信満々な台詞を昂が吐き出すのを聞いて、元樹は思わず、ムキになって昂を睨み付けた。しかし、その視線の先にあった一枚の写真に思わず目を奪われてしまう。
写真に写し出されていたのは、涙目の瞳でペンギンのぬいぐるみを抱えた幼き日の綾花の姿だった。
写真の中の幼い綾花と遊んでいる幼い自分の姿が、ふと、元樹の脳裏によぎる。
『大丈夫だからな』
『…‥…‥うん』
元樹はすとんと座り込むと、綾花の目をじっと覗き込んだ。そして、涙を浮かべている綾花の頭を優しく撫でてやる。
「はあ…‥…‥」
虚しくなるような想像に、元樹はげんなりとすると大きく息を吐いた。
改めて気づく。
この愛おしさの正体に。
どれだけ、俺が瀬生を想っているのかに。
どれだけ、拓也に嫉妬しているのかに。
俺は彼女に恋をした。
永遠に想いが届かない少女に、友人である拓也の彼女に、俺は恋をしてしまったんだ。
だから、こんなに苦しいんだ。
ずるいな、と元樹は思った。
確かに拓也はずるいよな、と元樹は思った。
この頃のーー写真の中の瀬生に拓也ではなく、俺が出会っていたら、俺と瀬生の関係は今とは違ったものになっていたんだろうか、とふと考えて、元樹はため息をつく。
「我は納得いかぬ!」
唐突に席から立ち上がると、昂は憤慨した。
「なにゆえ、綾花ちゃんの幼なじみが我ではないのだ!…‥…‥むっ、まてよ」
そこで、昂ははたとあることに気づく。
「我と進は中学からの付き合いとはいえ、幼なじみに近い存在と言える。ーーということは、我と綾花ちゃんは幼なじみということではないか!」
「…‥…‥すげえ、屁理屈だな」
「事実を言ったまでだ」
昂が至極真面目な表情でそう言ってのけると、元樹は思わず呆気に取られてしまう。
その時、やや冷めた声が背後から聞こえてきた。
「…‥…‥やっぱり、綾花のアルバムを奪ったのはおまえだったんだな」
「貴様、何の用だ。断っておくが、我は綾花ちゃんのアルバムなど知らぬぞ」
「…‥…‥おい」
拓也と綾花が教室に入ってくるなり、素知らぬ顔で自ら自白してきた昂に、拓也はげんなりとした顔で辟易する。
綾花は昂の顔を見るなり、切羽詰まった表情で言い募った。
「お願い、舞波くん!私のアルバムを返して!」
「すまぬ、綾花ちゃん。いくら綾花ちゃんのお願いでも、こればかりは返せぬのだ…‥…‥むっ!」
不適な笑みを浮かべて言い切った昂から、元樹はあっさりとアルバムを奪い返すとそれを綾花に手渡した。
「ほら!」
「…‥…‥あ、ありがとう」
そうつぶやいた綾花は一瞬、驚いた顔をした後、はにかむように微笑んでそっと俯いた。
その不意打ちのような笑顔に、元樹は思わず見入ってしまい、慌てて目をそらす。
「あ、ああ」
「元樹、綾花のアルバムを取り戻してくれてありがとうな」
拓也も続けてそう言ったが、ふと座りの悪さを覚え、眉を上げる。
何故なら、昂の机には綾花のアルバムとは別にもう一冊、アルバムのような本が置かれていたからだ。
綾花は顔を上げると、そのアルバムを見てきょとんとした顔で首を傾げる。
「あっ…‥…‥」
アルバムをじっと凝視していた綾花の声が震えた。
「未来型アルバム!」
「「はあ?」」
あまりに意外な綾花の一言に、拓也と元樹は同時に叫んでしまった。
「おい、綾花。未来型アルバムって…‥…‥?」
「あのね、たっくん。このアルバムは、舞波くんの魔術で産み出した魔法のアルバムなの。開いた人の一年後の未来の映像が見れるんだよ」
拓也にアルバムについて聞かれた綾花はにこりと笑って答えた。
だがすぐに髪の毛先を落ちつかなげにちょいちょいとすくと、綾花は不満そうな顔でおもむろに口を開く。
「うっ…‥…‥でも、どうして舞波くんがそのアルバムを持ってきているの」
「うむ。我とて、綾花ちゃんとの未来がどうなっているのか気になる時もあるのだ」
綾花が不服そうに機嫌を損ねていると、昂は大した問題ではないように至って真面目にそう言ってのける。
だが、昂はアルバムをめくると不満そうに眉をひそめてみせた。
「しかし、一度、使った者の未来は見れぬようだ。改良の余地があるな」
「そうなんだ」
「…‥…‥なんだ、それは」
神妙な表情でつぶやく綾花に対して、拓也は呆れたようにため息をつく。
綾花の持っているアルバムを見遣ると、昂は両拳を突き上げて言い募った。
「そんなことより、綾花ちゃんのアルバムを見せてほしいのだ!」
「うっ!だから、だめなの!」
「我は綾花ちゃんのアルバムを見たいのだ!」
首を横に振って断固拒否する綾花に、昂は自慢げにふんぞり返ると綾花の持っているアルバムを奪おうとする。
拓也によってそれは何とか防がれたようだが、当然のことながら、綾花は非常に嫌そうな顔をしていた。
「おい、舞波!綾花のアルバムを無理やり、奪おうとするな!」
拓也はそう言って昂を強く睨むと、綾花の腕を取ってそのまま教室から出て行こうとする。
そんな拓也に、昂は人差し指を突き出すとさらに笑みを深めて言い切った。
「綾花ちゃんはもう我の彼女になったのだから、綾花ちゃんのアルバムは我のものだ!」
追い打ちをかけるように言う昂に、拓也は不満そうに眉をひそめてみせる。
「綾花は俺の彼女だと言っているだろう!」
「我は認めておらぬ!」
「おまえに認めてもらう必要はない!」
いつまで経っても埒が明かない昂との折り合いの中、拓也は状況の苛烈さに参ってきた神経を奮い立たせるようにして口を開いた。
「…‥…‥行くぞ、綾花」
「う、うん」
「あっーー!!待て!!」
後から追ってきた昂を振り払うかのようにして、拓也は綾花の手を取って足早に教室を後にした。
一人取り残された元樹は、昂の机にぽつりと置かれたアルバムに視線を向けた。そして、先程、拓也と出て行った愛しい少女に想いを馳せる。
開いた人の一年後の未来の映像が見れるアルバムかーー。
俺と瀬生は、一年後にはどうなっているのだろうか?
付き合っているのだろうか?
それとも、瀬生は拓也と付き合ったままなのか?
大好きな彼女との未来を、あれやこれやと想像する。
想像は尽きない。
だけどその答えが、このアルバムをめくればすぐに分かるのだ。
躊躇いも迷いもこの際、全て脱ぎ捨てて、元樹は一息にアルバムを開いた。
アルバムの中に、ゆっくりと映像が映し出される。
昇降口の入口で、誰かを待っている様子の綾花の姿。
階段を降り、昇降口へと向かう元樹には気づかずに所在なさげに立っている。
少し強い風が吹いて、彼女の長いサイドテールの髪が大きく煽られた。
『よお、綾花』
『あっ…‥…‥元樹くん』
すれ違う瞬間、元樹に後ろから抱きしめられると、綾花は不意をつかれたような顔をし、そして穏やかに微笑んだ。
映像は、そこで不自然に途切れる。
「ーーっ」
不意打ちを食らった元樹はただうろたえるしかなくて、あまりにも唐突で想像だにしなかった映像に顔が赤くなるのを押さえることができなかった。
ーー永遠に想いが届かない?
いや、そんなことないよな。
その笑顔がーー。
絶対に忘れられない笑顔が、元樹の脳裏を強く強く、焦がし尽くしていた。