第十九章 根本的に異なる想い
「うーん。本来なら、瀬生綾花さんと呼んだ方がいいのかもしれないけれど、やっぱり麻白は麻白だから、いつものように麻白って呼ぶね」
「…‥…‥くっ、まずいな」
陽向が感情のこもった声でそう断言すると、周囲を見渡していた元樹は悔やむように唇を噛みしめる。
恐らく、舞波が過剰な行動を取っていたのは、陽向くんの魔術の影響だったのだろう。
陽向くんは、俺達が警察に捕まった舞波を助けるために警察署に赴くことを見越して先回りしていた。
そして案の定、警察署に訪れた俺達の前に姿を現したのだろう。
綾花は陽向の顔を見るなり、切羽詰まった表情で言い募った。
「お願い、陽向くん!舞波くんを元に戻して!」
「うん、いいよ」
綾花のその反応に、陽向は満足そうに頷くと淡々と言う。
「えっ?」
「ただし、麻白が戻ってきたらね」
「ううっ…‥…‥」
戻る、その単語が出た瞬間、綾花の表情があからさまに強ばった。
「今の麻白が瀬生綾花さんであり、上岡進くんでもあることは知っている。でも、それでも僕は、叔父さんと同じように麻白に戻ってきてほしいんだ」
「陽向くん…‥…‥」
ぽつりぽつりと紡がれる陽向の意味深な言葉に、綾花は思わず、目を見開いた。
子供のように無邪気に笑いかける陽向に、拓也は露骨に眉をひそめる。
「陽向くん。麻白の心が宿っているとはいえ、綾花は綾花であり、上岡なんだ」
「陽向くん、頼む。麻白達が自由に生きることを許してくれないか?」
「自由に?」
拓也と元樹の訴えに、陽向は挑戦的な笑みを浮かべた。
その反応に、拓也は身構えそうになって、自分で自分の手を掴むことで抑え込む。
痛いような沈黙。
綾花達を真剣に見つめる陽向は、不意に表情をやわらげた。
「やっぱり、今の麻白は面白いね。叔父さんが言ったとおり、四人分生きているっていうのは本当なんだ」
「陽向くん」
くすくすと笑う陽向を見て、綾花は強い懐かしさを覚える。
玄達とともに、いつも交わしていた陽向とのやり取り。
そこで、陽向は今と同じように嬉しそうに笑っていた。
「ねえ、麻白。僕は無理強いはしないけど、麻白自身が帰りたいと思うように働きかけはするつもりだから」
「働きかけ?」
陽向は軽く息を吐くと、気まずそうに小首を傾げている綾花の前に立った。
「うん。麻白が帰りたいって願うように、働きかけをしようと思うんだ」
最後の言葉をことさら強調した陽向に、綾花はーーそして、拓也達は明確に表情を波立たせる。
どうしようもなく不安を煽る陽向の言葉に、綾花達は焦りと焦燥感を抑えることができずにいた。
陽向はそれだけを告げると、その場から姿を消したのだった。
「我は綾花ちゃんに会いたいのだ!そして、今すぐ我の魔術書を返すべきだ!」
「手に負えないですね」
「ご両親がもうすぐ来られるそうですが」
綾花達が陽向と遭遇した後ーー。
昂はいまだに、警察署内で地団駄を踏んでわめき散らしていた。
対応に困った警察官達が辟易する。
「我の魔術書を取り戻した暁には、一目散に綾花ちゃんのところに行かなくてはならぬのだ!このような問答を繰り返している場合ではないのだ!我は今すぐ、綾花ちゃんに会いに行かねばならぬ!」
「…‥…‥ほう、それで」
昂が不服そうに機嫌を損ねていると、警察署から連絡を受けた昂の母親が大した問題ではないように至って真面目にそう言ってのける。
あくまでも淡々としたその声に、昂はおそるおそる声がした方を振り返った。
「…‥…‥は、母上」
「…‥…‥昂、どうして、瀬生さんのマンションで迷惑行為を行ったんだい。警察の人達から手に負えないから何とかしてほしいと連絡をもらったけれど、警察署内で暴れたりしていたとは言わないだろうね」
全身から怒気を放ちながら、昂の母親は昂を睨みすえる。その声はいっそ優しく響いた。
「ひいっ!は、母上、話を聞いてほしいのだ!ただ、何故か、綾花ちゃんと一緒に警察署に乗り込まなくてはいけないと思ったまでだ!我は、その、魔術書を取り戻し、そして綾花ちゃんに会う必要があると衝動的に感じたから仕方なくーー」
昂は恐怖のあまり、総毛立った。ふるふると恐ろしげに首を振る。
「高校も退学が決定したことだし、しばらく警察署で反省するんだよ!」
「母上、あんまりではないか~!」
昂の母親が確定事項として淡々と告げると、昂が悲愴な表情で訴えかけるように昂の母親を見る。
そのタイミングで、綾花達が慌てて昂のいる部屋へと入ってきた。
「舞波くん!」
「おおっ…‥…‥、綾花ちゃん」
その声を聞いた瞬間、昂が溢れそうな涙を必死に堪え、綾花の顔を見つめる。
昂の母親は意を決したように綾花の方を振り向くと、神妙な面持ちで謝罪した。
「瀬生さん、今回は本当に、昂が迷惑をかけてごめんね」
「ふわわっ、舞波くんのお母さん、違うんです。舞波くんは陽向くんの魔術の影響で、迷惑行為をしていたみたいなんです」
「魔術の影響で?」
綾花が焦ったように両手を横に振るのをじっと見て、顔を上げた昂の母親はわずかに眉を寄せる。
困惑する昂の母親に対して、元樹は唇を強く噛みしめると、立て続けに言葉を連ねた。
「はい。先程、陽向くんに会いました。どういった魔術を使ったのかは分かりませんでしたが、舞波の様子がおかしいのは陽向くんの魔術の影響です」
「なるほどね。昂の様子がいつもと違う感じがしたけれど、魔術の影響だったんだね」
今にも綾花に抱きつこうとしている昂を引き留めながら、昂の母親は納得したように頷いてみせる。
「だけど、どうしたら舞波は元に戻るんだろうな」
「ああ」
思案に暮れる拓也と元樹を尻目に、心配そうな表情を浮かべていた綾花が、不意に苦しそうに頭を押さえた。
「ーーっ。ううっ…‥…‥」
立っているのも辛い頭痛の痛みに、綾花は、進のあかりへの憑依が解けたことを悟る。
「綾花、大丈夫か!」
「綾!」
元樹とともに、立っているのも辛そうな綾花のもとに駆け寄ると、拓也は必死な表情で焦ったように言う。
その様子を見て、昂ともに慌てて駆け寄ってきた昂の母親が、不安そうに綾花に声をかけてきた。
「瀬生さん、大丈夫かい?」
「う、うん、大丈夫だよ」
ぎこちなくそう応じる綾花の様子に目を瞬き、少しだけ首を傾げながら、拓也は先を続ける。
「綾花。やっぱり、憑依が解けてから、ここに来た方が良かったんじゃないのか」
「…‥…‥う、うん。でも、舞波くんのことが心配だったから、少しでも早く行きたかったの」
指先をごにょごにょと重ね合わせ、たまらず視線をそらした綾花に、昂の母親は首を横に振ると申し訳なさそうな瞳を綾花に向けた。
「瀬生さん、昂のために無理をしてくれてありがとうね」
「…‥…‥うん」
昂の母親の謝罪に、綾花はにこっと自然な様子で微笑んでみせた。
しかし、拓也と元樹には、綾花が努めてそうしているかのように思えた。
微笑んでいるのに、どこか辛そうな表情。
懸命に浮かべられた笑み。
それに気がついた拓也と元樹が、綾花に声をかけようと手を伸ばしかけて、
「綾花ちゃん、すまぬ!」
と、聞き覚えのある意外な声に遮られた。
「舞波くん?」
虚を突かれたように瞬くと、綾花は振り返ってそう言う。
拓也達と同じく、綾花の強気を装った危うい表情に気づいた昂は手を合わせて謝罪した。
「綾花ちゃん、すまぬ!本当にすまぬのだ!我がどうかしていたのだ!婚約者である我が、綾花ちゃんに無理をさせるなどあってはならぬというのに!」
「ふわわっ、舞波くん、落ち着いて」
おずおずと気圧されている綾花を尻目に、拓也は意外な反応でも見たかのように瞬きを繰り返す。
「これって?」
「恐らく、舞波は、綾の頭痛を見て、今のままじゃいけないって本能的に思ったんだろうな」
拓也が不思議そうに首を傾げると、元樹は腕を組んで考え込む仕草をした。
「とりあえず、元に戻ったと言ってもいいのかもしれない。だけどーー」
「綾花ちゃん、今すぐ、我とデートしてほしいのだ!」
刹那、場の空気がシンと静まり返る。
土下座をして請うように頼む昂に、元樹は続けようとしていた言葉を失って唖然とした。
「先程までの我はどうかしていたのだ!今朝の迷惑行為のお詫びをさせてほしい!」
「ええっ!?」
「おい、舞波!どさくさに紛れて、綾花とデートしようとするな!」
「おまえ、勝手なことばかりするなよな!」
さらりと告げられた昂の衝撃発言に、綾花が輪をかけて動揺し、拓也と元樹は内心のため息とともに突き放すように言った。
そんな中、昂がざっくりと付け加えるように言う。
「うむ。我としては、今すぐデートしてほしかったが仕方ない。いつものように、我が綾花ちゃんに抱きつくのだ!」
「ふわっ、ちょ、ちょっと、舞波くん」
それだけ言い終えると、ついでのように昂が綾花に抱きついてきた。
「おい、舞波!綾花から離れろ!」
「おまえ、元に戻ったんじゃなかったのかよ?」
「我は大好きな綾花ちゃんから離れぬ!そして我は、綾花ちゃんに抱きつくためなら、尽力を惜しまない!」
ぎこちない態度で拓也と元樹と昂を交互に見つめる綾花を尻目に、拓也と元樹は綾花から昂を引き離そうと必死になる。だが、昂は綾花にぎゅっとしがみついて離れようとしない。
「みんな、ちょっと」
いつまで経っても埒が明かない拓也と元樹と昂の折り合いの中、唐突に昂の母親から言葉を投げかけられて、昂は拓也達から昂の母親へと視線を向ける。
「母上、どうかしたのか?」
「声」
昂の戸惑いとは裏腹に、昂の母親が人差し指を立ててつぶやく。
「舞波昂くん、今は取り調べの途中なんだがね」
「迷惑をかけた被害者に抱きついたり、警察署内で暴れたことといい、しばらく勾留する必要がありそうだ」
「な、何故だーー!何故、こんなことになったのだ!!」
警察官達の無慈悲な宣告に、魔術が解けた昂は、頭を抱えて虚を突かれたようにひたすら絶叫していたのだった。




