第十五章 根本的に彼が不機嫌な理由
「あっ! これ、まだ買っていなかったよな! あと、これも…‥…‥」
綾花は思うがままに、ショッピングモール内を散策していた。謎の義務感に急かされるように、玩具フロアのゲームコーナーに置かれてあるゲームを吟味し続ける。
すると、昂がさもありなんといった表情を浮かべて言った。
「さすが、進だ! 早くも、その話題沸騰のゲームに目をつけるとは! だが、そのゲームはもう既に我は購入済だ!」
「…‥…‥くっ。昂はもう、手に入れたんだな」
ほんの少しの焦燥感を抱えたまま、綾花は苦し紛れに悪態をつく。
そんな彼らの様子を釈然としないまま、拓也はじっと眺めていた。
舞波の家に行った後、拓也はいくつかのいろいろな種類のゲームを綾花とともにやったのだが、そのいずれでも綾花はずば抜けたゲームの才能を見せつけた。卓越された動きと神業に近いそのテクニックは、素人目に見ても圧巻だった。
上岡が憑依するまではゲームに全くといっていいほど興味がなく触ったことすらなかった綾花は、今では高度で巧みなプレイを披露し、昂と一緒にゲーム談義をしながら楽しそうに笑っている。
その様子に、拓也はあらためて綾花に上岡が憑依していることを思い知らされて頭を押さえた。
「おっ? 『チェイン・リンケージ』の続編、出たんだな」
その声に意表を突かれて、拓也は思わず最新作のゲームソフトを持っている元樹に視線を向けた。
確か『チェイン・リンケージ』というゲームは、舞波の家で綾花と舞波が何度もプレイしていたゲームだったはずだ。
頭を悩ませながらも、拓也はとっさに浮かんだ疑問を口にする。
「知っているのか?」
「ああ、有名なオンラインバトルゲームだからな。確か、今もこの最新作のゲームのCMがテレビに流れていたと思う」
やや驚いたように振り向いた拓也に、ゲームソフトを置いて腕を頭の後ろに組んだ元樹が平たく解説する。
あっさりとゲームの説明をしてみせた元樹にどうにも腑に落ちない拓也が口を開こうとしたところで、進の母親が声をかけてきた。
「皆さん、そろそろお昼にしない?」
拓也が慌てて携帯で時間を確認すると、午後一時少し前だった。そろそろ、お昼時である。
「さあ、行くわよ、進」
「ええっ!? もう、行くのかよ?」
進の母親はまだ名残惜しそうにゲームコーナーを眺めている綾花の手を取ると、拓也達とともに足早でレストランフロアへと向かったのだった。
進の母親に連れられて入ったのは、屋上庭園の近くにあるダイニングレストランだった。
祝日の昼過ぎともあって、かなり人が入っており、席は満席である。
順番待ちのリストに進の母親が書き込んで数分後、店員に呼ばれて綾花達は空いた席に腰をおろす。
六人がけのテーブル席で、拓也は隣で堂々とした態度でメニューを手に取り、通りがかった店員を呼び止めていち早く注文をし始める昂と、隣の席に座る進の母親ととりとめのない会話を交わしている綾花をなんともなしに交互に見つめた。
「とりあえず、俺達も頼むか」
という隣窓側の元樹の気の利いた台詞も聞こえてくる。
つられて、拓也もメニューを見て注文しようとした矢先、進の母親が穏やかな声で綾花に話しかけてきた。
「進、あとで、屋上の展望室に行ってみない?」
「展望室に?」
綾花がそうつぶやくのを訊いて、元樹は軽い口調で言った。
「へえ、展望室があるんだな」
「そうだな」
だが、どこか上の空な拓也はあくまで無感情に流しにかかっている。
だが、若干早口になっているあたり、怒りを我慢しているようだった。
「それにしても、瀬生が上岡として振る舞うとこんな感じなんだな」
問いにもならないような元樹の言葉に、不意に拓也は視線をそらして言う。
「ああ。…‥…‥だけど、綾花がこんなにも長い間、上岡として振る舞っているのは初めてだ」
「…‥…‥そうなんだな。まあ、俺も拓也と同じで、いつもの瀬生の方が好きだけどな」
顔を俯かせて表情を曇らせる拓也に、元樹は屈託なく笑った。
瀬生に上岡が憑依してから生まれて育っていった恋は、瀬生に上岡が憑依していると知ってからも消えなかった。それどころか、ますます大きく根を張ってしまった。
だからだろうかーー。
拓也の瀬生が上岡として振る舞うのが嫌だという気持ちが、俺にも何となく分かるような気がした。
今の瀬生は根本的に瀬生の中にある上岡の心が出てきているだけであって、上岡は瀬生の心の一部に過ぎない。
理解はしている。
引っ込み思案な瀬生も、上岡が憑依した影響によって少し前向きになってきた。
そして、そんな瀬生に惹かれて、俺はいつのまにか瀬生のことを目で追うようになったんだよなーー。
だけど、やはり今ーー上岡として振る舞っている瀬生は、明らかにいつもの瀬生とはかけ離れている感じがした。
きっかけは上岡が憑依したことからかもしれないが、俺はやはりいつもの瀬上の方が瀬生らしいと思った。
食事を終え、屋上庭園の展望室に向かう途中、元樹は綾花に近づくと綾花の肩をぽんと叩いた。
「なあ、瀬生」
「うん?」
元樹のその問いかけに、綾花は不思議そうに小首を傾げながら振り返った。
「展望室に行ってからでいいからさ。いつもの瀬生に戻ってくれないか?」
有無を言わさず、にんまりとした笑みを浮かべてきた元樹の姿に、綾花は訝しげに眉を寄せる。
咄嗟に、拓也が焦ったように口を開いた。
「はあ? 元樹、なに言っているんだ?」
「拓也も戻ってほしいんだろう?」
問い返したはずなのに逆に問い返されて、拓也は唖然とした表情で元樹を見た。
「今の瀬生と話すのも結構、楽しいんだけどさ、やっぱ、なんかこう違うんだよな。いつもの瀬生とさ」
何のひねりもてらいもない。
そう思ったから口にしただけの言葉。
目を丸くし、驚きの表情を浮かべた綾花を見て、元樹は意味ありげに拓也に尋ねる。
「なあ、拓也もそう思うよな?」
元樹から重ねて問われて、拓也は意を決したように息を吐くと必死としか言えない眼差しを綾花に向けた。そして、目をぱちくりと瞬いている綾花の前に立つと、ぎりぎり聞こえるくらいの小さな声で呼びかけた。
「あのな、綾花」
「うん?」
声はちゃんと綾花に届いた。
綾花は元樹から拓也へと顔を動かした。
それを確認した後、拓也は肺に息を吸い込んだ。
ためらいも恐れも感じてしまう前に、拓也は声と一緒にそれを吐き出した。
「ごめんな!やっぱり、俺は綾花にはいつもの綾花のままでいてーー」
ほしい、そこまで言う前に。
突然、綾花は今にも泣き出してしまいそうな表情で、拓也に勢いよく抱きついてきた。
反射的に抱きとめた拓也は思わず目を白黒させる。
「綾花…‥…‥?」
先程までの平然な進の表情はどこへやら、いつもどおりのーーだけど少し不安そうな綾花の表情に戸惑いとほんの少しの安堵感を感じながら、拓也は訊いた。
いろんな意味で混乱する拓也の耳元で、綾花は躊躇うようにそっとささやいた。
「ううっ…‥…‥、たっくん、怒っていない?」
ぽつりぽつりと紡がれる綾花の言葉に、拓也の顔が目に見えて強ばった。綾花の瞳からは、涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。
読みようのない行動に、拓也はさらに困惑して自分の胸元で泣きじゃくる綾花の姿を見遣った。
「…‥…‥はあ? 怒る?」
「ははっ、やっぱ、気づいていなかったな。拓也、おまえ、ショッピングモールに着いてから、瀬生のことを思い詰めたような強ばった顔でずっと見ていたんだぞ」
これ見よがしに、元樹が笑いながら言う。
元樹に指摘されて、拓也ははっとしたようにまじまじと綾花を見た。
そう言えば、ショッピングモールに着いてからは一度も綾花に話しかけていなかった気がする。
今の綾花は綾花ではなく、上岡だという意識の方が強かったせいでもあった。
しかも、それが綾花を傷つけることにもなるのにも関わらず、拓也は自然と綾花との距離を取ってしまっていた。
自分は何をしていたんだろうとあまりの情けなさに、拓也は胸の奥が締めつけられるような気がした。
今の綾花は上岡であり、そして綾花なのだという当然のことを、ようやく拓也は思い出す。
綾花は綾花だ。
目の前で泣き続けている少女は、それ以外の何者でもなかった。
「ごめんな、綾花」
泣きじゃくる綾花の頭を、拓也は穏やかな表情で優しく撫でてやった。溢れる気持ちは言葉にはならずに熱となって喉元にせり上がる。
本当にごめんな、綾花ーー。
拓也は唇を噛みしめた。
震える小さな背中に回した手に、拓也はそっと力を込める。
綾花が泣きやむまで頭を撫で続けていた拓也は、その様子を見守っていた進の母親から声をかけられた。
「私のわがままに付き合わせてしまってごめんなさい」
拓也に抱きついている綾花を見て、進の母親が申し訳なさそうに言う。
その言葉に、拓也は額に手を当てて焦ったように言った。
「あっ、いえ」
「うむ、綾花ちゃん。我にも、抱きつくべきだ」
「ふわっ、ちょ、ちょっと舞波くん」
だが、そんな拓也には構わずに、唐突にそして、ついでのように昂が綾花の背中に抱きついてきた。
「おい、舞波! 綾花から離れろ!」
「我は綾花ちゃんから離れぬ!」
ぎこちない態度で拓也と昂を交互に見つめる綾花を尻目に、拓也は綾花から昂を引き離そうと必死になる。だが、昂は綾花にぎゅっとしがみついて離れようとしない。
「ふわわっ」
激しい剣幕で言い争う拓也と昂に対抗心を覚えたのか、気がつくと元樹は手を伸ばして綾花の頭を撫でていた。触れたその髪は柔らかく、流れるようにさらさらしていた。
「…‥…‥ふ、布施くん?」
頭を撫でられた綾花が、きょとんと顔を上げる。そして、撫でられたところに視線を遣ると、今度は恥ずかしそうに頬を赤らめた。
それにつられて、頭を撫でていた元樹も顔を真っ赤に染めて思わず視線を逸らしてしまう。
「おい、元樹!」
「負けないからな」
苛立たしそうに叫んだ拓也に、元樹ははっきりとそう告げると背後の進の母親へと向き直る 。
「すみません。せっかくの家族団欒を邪魔してしまって」
「気にしないで。こちらこそ、私のわがままに付き合わせてしまってごめんなさい」
元樹が謝ると、進の母親は穏やかな声でそう答えた。そして、綾花に向き直るときっぱりと告げる。
「たとえ、進として振る舞っていなくても、進は進ですから」
少し考えて、進の母親はさらに付け加えるようにつぶやく。
「…‥…‥あっ、でも、たまには進として振る舞ってほしいかな」
「ははっ」
付け加えられた一言に思わず苦笑しながらも、その強い言葉に拓也の胸の奥が瞬間、ざわめいた。
拓也の脳裏に、水族館での綾花の言葉が蘇る。
どちらも、綾花か‥…‥…。
そう思えればーーいやそう割りきれば、どんなにか幸せなことだろう。
いや、否応なしに、綾花は綾花なのだ。
意味はないのだと、強調するように繰り返し考えていた拓也の視界に 、不意に展望室の幻想的な光景が広がった。
「ーーなっ」
突然開けた視界の先に、吸い込まれそうなくらい青く高い空と街全域が一望できる大パノラマが展開されていた。
「これって…‥…‥」
「進」
拓也が呆気に取られたようにぽつりとつぶやくのをよそに、進の母親に手招かれた綾花は恐る恐る進の母親のもとに近づいていった。
抱き寄せられると愛おしげに頭を優しく撫でられて、綾花は居心地悪そうに顔を俯かせる。
「また、いつでも帰ってきてね。私達はあなたの家族なのだから。今度は、父さんも一緒に旅行にでも行きましょう」
進の母親のゆっくりと落ち着いた声が、綾花の耳元に心地よく届いた。
噛みしめるように、進の母親は何度も何度も同じ言葉を繰り返す。
綾花は溢れそうな涙を必死で堪え、進の母親の顔を見上げた。そして、きっぱりと宣言する。
「…‥…‥う、うん。今度は、父さんも一緒に行こうね」
「ええ」
そう意気込む綾花に、進の母親は微かに笑みを浮かべてみせた。
綾花が舞波に惚れられたことによって降って湧いた、綾花に上岡を憑依させられたという事実は、ひたすら重くて厄介なものでしかないような気がしていた。
でも、違う見方をすれば、それは絆なのだ。
自分と以前の綾花が繋がっているように、今の綾花と自分も繋がることができる。
そして、その絆はまた新たな絆を紡ぐことになるのだろう。
同じようでこれまでとは違う、確かな絆のカタチがあるように拓也には思えたーー。