第五章 根本的に天体に手を伸ばして
綾花と元樹とともに昇降口に辿り着いた拓也は、綾花に振り返ると一呼吸置いて言った。
「綾花、舞波の件、先生に協力してもらえることになって良かったな」
「うん、たっくんと元樹くん、そして、先生のおかげだよ」
穏やかな表情で胸を撫で下ろす綾花を見て、拓也も胸に滲みるように安堵の表情を浮かべる。
すると両手を広げ、生き生きとした表情で綾花はさらにこう言う。
「たっくん、元樹くん、ありがとう!」
「ああ」
拓也が頷くと、綾花は嬉しそうに顔を輝かせた。
その不意打ちのような日だまりの笑顔に、元樹は思わず見入ってしまい、慌てて目をそらす。
「あ、ああ」
「元樹、いい方法を考えてくれてありがとうな」
ごまかすように人差し指で頬を撫でる元樹に、拓也も続けてそう言った。
少し間を置いた後、綾花は人差し指を立てるときょとんとした表情で首を傾げてみせる。
「ねえ、たっくん、元樹くん。今度、行われる企業説明会に黒峯くんのお父さんも来るのかな?」
「恐らくな。黒峯玄の父親達ーーいや、黒峯蓮馬さん達は、俺達の情報を知っているからな。今回の企業説明会を通して、綾に麻白として生きるように仕向けさせようとしている。または、利用しようとしているのかもしれないな」
探りを入れるような元樹の言葉に、拓也の顔が強張った。
「利用しようとしている?」
「麻白の歌のお披露目会で、黒峯蓮馬さん達に俺達のことを知られてしまったからな。玄と大輝に真相を話すとは思えないけど、偽りの混じった一部始終を告げるかもしれない」
そのとらえどころのない玄の父親の行動の不可解さに、元樹は思考を走らせる。
「まあ、俺は、玄達が何か言ってきても、麻白との交際をやめるつもりなんてないけどな」
「ううっ…‥…‥」
元樹の意味深な言葉に、綾花は照れくさそうに視線をうつむかせると指先をごにょごにょと重ね合わせてほのかに頬を赤らめてみせる。
拓也は不服そうに顔をしかめてみせると、陸上部の合宿で告げた言葉を再度、口にした。
「元樹、あくまでも交際を認めたのは、『麻白の姿をした綾花の分身体』であって、『綾花自身』は俺の彼女だからな」
「ああ。ありがとうな、拓也」
苦虫を噛み潰したような顔でしぶしぶ応じる拓也に、元樹は屈託なく笑った。
ふと拓也の脳裏に、赤みのかかった髪の少女ーー麻白の姿をした綾花がよぎる。
綾花が四人分生きるということーー。
それは、綾花が四人分の人生を生きるということにも繋がる。
そして、元樹と麻白の姿をした綾花の分身体が交際していることになっているように、いずれ綾花が、俺とは違う別の誰かとも結ばれてしまう可能性を示していた。
少なくとも、雅山、そして麻白の二人は、俺とは違う相手を選ぶことになるだろう。
正直言って、綾花が俺以外の相手と結ばれてしまうことは嫌だった。
だが、俺がどんなにそう願っても、雅山の、そして麻白の想いを無視することはできないだろう。
拓也は頭を抱えると、もはや全てを諦めたように息をつく。
「…‥…‥な、なあ、綾花。そろそろ時間も遅いし、帰らないか?」
「…‥…‥う、うん」
あわてふためいたように拓也の元に歩み寄った綾花の頭を、拓也は穏やかな表情で優しく撫でてやった。
そんな仲睦ましげな二人の様子を見て、元樹は少し名残惜しそうにーーそして羨ましそうな表情をして言う。
「はあ~。俺は、これから部活だからな…‥…‥」
腕を頭の後ろに組んで昇降口の壁にもたれかかっていた元樹の瞳が、拓也の隣で嬉しそうにはにかんでいる綾花へと向けられた。
「なあ、綾。もし、玄達と会うことになったら、麻白の姿になって一緒にデートしてくれよな」
「…‥…‥えっ?」
思わぬ言葉を聞いた綾花は、元樹の顔を見つめたまま、瞬きをした。
「ちょ、ちょっと待て!なんで、そうなるんだ?」
綾花以上に動揺したのは拓也だ。
何気ない口調で言う元樹の言葉に、拓也は頭を抱えたくなった。
「おーい、元樹!部長が早く戻ってこいってさ!」
とその時、陸上部の生徒の一人が手を振って元樹に呼びかけた。
「ああ!それじゃあ、また、明日な!」
拓也が何かを言う前に、元樹は陸上部の仲間のもとに駆け寄るとそのまま部室へと向かっていく。その姿からは、先程の言葉などないがしろにされているようだった。
無意識に表情を険しくした拓也に、綾花は幾分、真剣な表情で声をかけた。
「ごめんね、たっくん」
「何がだ?」
昇降口で鞄を握りしめていた綾花が、隣に立つ拓也の言葉でさらに縮こまる。
綾花は躊躇うように不安げな顔で言葉を続けた。
「…‥…‥私のーーあたしのせいで、みんなを大変なことに巻き込んじゃってごめんね」
「…‥…‥綾花」
聞いた瞬間、思わず心臓が跳ねるのを拓也は感じた。知らず知らずのうちに、拳を強く握りしめてしまう。
沈痛な表情を浮かべて何かを我慢するように俯いている綾花に、拓也は一瞬、先程のことを忘れて思わず、ふっと息を抜くように笑う。
「気にするな。前に言っただろう。綾花が、綾花と上岡と雅山と麻白の四人分生きると決めたのなら、俺達は綾花の負担を少しでもなくしてみせる。それが、大好きな綾花のためにーー」
できることだからな、そこまで言う前に。
突然、綾花は今にも泣き出してしまいそうな表情で、拓也に勢いよく抱きついてきた。
反射的に抱きとめた拓也は、思わず目を白黒させる。
「…‥…‥綾花?」
いつもどおりの花咲くようなーーだけど、少し泣き出してしまいそうな笑みを浮かべる綾花に戸惑いとほんの少しの安堵感を感じながら、拓也は訊いた。
いろんな意味で混乱する拓也の耳元で、綾花は躊躇うようにそっとささやいた。
「ううっ…‥…‥、たっくん、ありがとう」
ぽつりぽつりと紡がれる綾花の言葉に、拓也の顔が目に見えて強ばった。綾花の瞳からは、涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。
「わ、私もね、たっくん、大好きだよ」
「…‥…‥ああ」
泣きじゃくる綾花の頭を、拓也は穏やかな表情で優しく撫でてやった。
綾花が泣きやむまで頭を撫で続けていた拓也は、不意に綾花から視線を外して自分に言い聞かせるような声で言う。
「絶対に黒峯蓮馬さん達から、綾花をーー麻白を護ってみせるからな」
「えっ?」
拓也の言葉に、綾花は顔を上げるときょとんとした顔で首を傾げた。
「なんでもない」
そう言い捨てると、震える小さな背中に回した手に、拓也はそっと力を込める。
「たっくん、ありがとう」
そうつぶやいた瞬間、麻白の想いが、綾花の脳内にぽつりと流れ込んできた。
『ずっと、終わらなければいいのに。あたし、これからもみんなのそばにいたいよ』
「…‥…‥うん。あたし、これからもみんなのそばにいたい」
いつもとは違う弱音のように吐かれた麻白の想いに誘われるように、綾花は悲しそうに顔を歪めて力なくうなだれたのだった。
「社長、例の件についてですが、後日、湖潤高校で企業説明会を行えることになりました」
玄の父親の秘書である、その美里の知らせが、社長室にいた玄の父親のもとに届いたのは、 綾花達が帰宅した頃だった。
「舞波はどうしている?」
「はい。他の社員に仕事の引き継ぎを任せたり、デスクの書類の整理を行っています。たとえ解雇されることになっても、息子の意思を尊重したいそうです」
美里からの知らせを聞いて首を傾げた玄の父親に、美里はこくりと頷いてみせた。
「息子の意思。やはり、昂くんは、それでも私達の条件を呑まないか」
玄の父親は顎に手を当てて、美里の言葉を反芻する。
あえて意味を図りかねて、近くで様子を伺っていた執事が玄の父親を見ると、玄の父親はなし崩し的に言葉を続けた。
「大輝くんがマンションに泊まりにくるのは、確か今日の夕方だったな」
「はい。その頃になるものと思われます」
問いにもならないような玄の父親の言葉に、執事はそう答えると丁重に一礼する。
社長室で執務をこなしていた玄の父親は、いまだに拓也達によって奪われたままの愛しい娘に想いを馳せた。
例の件が整えば、麻白が、私達のもとに戻ってくるーー。
彼らから麻白を取り戻せば、また前のように、家族四人で幸せに過ごせる日々が訪れるはずだーー。
そのためには、彼らから麻白を引き離さなければならない。
玄の父親は意を決したように美里の方を振り向くと、神妙な面持ちで話し始めた。
「私はこれからマンションに戻って、玄と大輝くんに、麻白と布施元樹くんの交際についてのことを話してくる。渡辺、湖潤高校での企業説明会には、私も出席する。高校卒業後、瀬生綾花さんが我が社に入社するように話を進めてほしい」
「かしこまりました」
玄の父親の指示に、美里は丁重に一礼すると、速やかに社長室を後にしたのだった。




