第三章 根本的に彼と進路相談③
「待って下さい!」
あまりにも想定外なことが起こると人は唖然としてしまうものだが、1年C組の担任はまさに自分の目を疑った。
自分の教え子が今、退学の危機に直面しているだけではなく、不当な取引を持ちかけられている。
1年C組の担任は思わず、唇を噛みしめると、やり場のない苛立ちを少しでも発散させるために拳を強く握りしめた。
「舞波の進路は、舞波自身が決めることです」
1年C組の担任の言葉は、昂に向けられたものだった。
1年C組の担任が必死に言い繕うのを見て、我に返った昂は追随するように首を縦に振った。
「う、うむ。我はその手には乗らないのだ!」
「では、どうしますか?」
「我は、通信制の高校に転校するのだ!」
核心に迫りそうな美里の疑問に、憤懣やる方ないといった様子で昂は吐き捨てた。
「転校…‥…‥ですか?」
「何故なら、この24単位というものを取得すれば卒業できる上に、週に一回だけ、通信制の高校に登校すればいいと聞いたからだ。それに先生が放課後、この生徒指導室で、我の家庭教師として勉強を教えてくれるらしいから、綾花ちゃんにも毎日、会うことができるという寸法だ!」
「なっーー」
自宅学習ではなく、この湖潤高校の生徒指導室で学習するという意外な発想に、美里は明確に表情を波立たせた。
昨日、昂の家で通信制の高校の説明をした際に、1年C組の担任は前もって、湖潤高校の生徒指導室で勉学を教えることを伝えていたのだった。
美里の驚愕に応えるように、1年C組の担任は淡々と続ける。
「舞波は私の生徒です。たとえ、通信制の高校に転校することになっても、それは変わりません」
「おおっ…‥…‥。さすが、我の先生なのだ!」
きっぱりと告げられた言葉に、昂は嬉しくなってぱあっと顔を輝かせた。
「分かりました」
美里はそう告げると、表情を消して昂を見る。
「舞波くん」
「むっ?」
「後悔しないで下さい」
ぽつりぽつりと続けられた言葉は、またしても昂達の理解を超えていた。
後悔…‥…‥?
どういう意味だろうか。
1年C組の担任の脳裏に、あらゆる不測の事態が駆け巡る。
「我が、後悔などするはずがなかろう!」
しかし、昂が拳を突き上げながら地団駄を踏んでわめき散らしている間に、朝のホームルームを告げるチャイムはいつの間にか鳴り響いていた。
今朝の美里の台詞はどういう意味なのか。
1年C組の担任がいくら訊いても、美里は一切反応しなかった。
唯一、麻白の話をした時にだけ表情を動かしたが、結果は同じだ。
美里は今度、行われる企業説明について校長と話をした後、そのまま湖潤高校を去っていった。
お昼休みに屋上に立ち寄り、綾花達、そして1年C組の担任の全員で話し合っても答えは出なかった。
とにかく、相手の出方を見るよりほかにない。
そういう結論に至った放課後。
校内放送で職員室に呼ばれた昂は、美里が最後に口にした言葉の意味を理解した。
「おのれ…‥…‥、黒峯蓮馬め」
1年C組の教室に戻った昂は一人、自分の席で悔しそうにうなっていた。
今朝、昂と1年C組の担任が意図したとおりに、昂が通信制の高校に転校することで、玄の父親の策略から難を逃れることに成功した。
その点では、昂達の目論見はほぼ成功したと言えるかもしれない。
しかし、である。
ひとつだけ、昂達が見誤っていたことがあった。
それは、昂が玄の父親の誘いを断った場合に起こりうる、最も最悪な出来事を想定していなかった、ということだった。
放課後、昂は学校の電話越しに、戸惑いの表情を浮かべる昂の母親からその衝撃的な出来事を説明されたのだった。
何故、我の家族が、このような目に遭わねばならぬのだ。
しみじみと感慨深く昂が物思いに耽っていると、二年の教室から拓也達とともに慌ててやって来た綾花が、不安そうな顔で声をかけてきた。
「舞波くん、先生から話を聞いたんだけど、私のせいで、舞波くんの家族に迷惑をかけてごめんなさい」
「あ、綾花ちゃん」
あくまでも進らしい綾花の謝罪の言葉に、昂は先程までの怒りなど忘れたように、突っ伏していた机から勢いよく顔を上げるとぱあっと顔を輝かせた。
「心配するな、綾花ちゃん。黒峯蓮馬に我の父上が解雇させられたとしても、既に我の家族は黒峯蓮馬とは縁を切っているのだ」
「…‥…‥まさか、本当に縁を切ることになるなんてな」
「そんなことはどうでもよい。我のテリトリーの中で、綾花ちゃんを何度も泣かせたというだけでも万死に値する」
元樹があっけらかんとした口調で言ってのけると、憤懣やる方ないといった様子で昂がそう吐き捨て、目の色を変えて綾花のもとに近づこうとする。
拓也は綾花を守るようにして昂の前に立ち塞がると、不服そうに訊いた。
「だけど、おまえ、これからどうするんだ?通信制の高校に行く状況じゃなくなっただろう」
「…‥…‥むっ。それらは全て、我の魔術を使えばどうとでもなる。黒峯蓮馬がいくら、我の進路妨害をしようとも、我の魔術でならーー」
「なら、決まりだな。舞波の進路と舞波のおじさんの再就職先は、先生に任せよう」
言い淀む昂の台詞を遮って、元樹が先回りするようにさらりとした口調で言った。
その、まるで当たり前のように飛び出した意外な言葉に、さしもの昂も微かに目を見開き、ぐっと言葉に詰まらせた。
だが、次の思いもよらない元樹の言葉によって、昂とーーそして綾花と拓也はさらに不意を打たれ、驚きで目を瞬くことになる。
あっけらかんとした表情を浮かべていた綾花達に対して、元樹は至って真面目にこう言ってのけたのだ。
「先生の話では、舞波が転校する予定だった通信制の高校は、先生の奥さんが理事長らしい。先生に交渉して、何とか舞波の進路、そして、舞波のおじさんを雇ってもらえるように相談してみよう。まあ、舞波のおじさんは教員免許を持っていないから、通信制の高校の先生とかは無理だけどな」
「なるほどな。先生の奥さんが理事長なら、黒峯玄の父親達も迂闊には手を出してこないな」
「うむ。先生はやはり、我の救世主なのだ!」
その意味深な元樹の言葉に、拓也が目を見開き、昂は納得したように頷いてみせる。
「ただ、問題は、舞波が転入時の審査で落ちないかだな」
「そうだな」
元樹の思考を読み取ったように、拓也は静かに続けた。
通信制の高校に転校する際の転入審査には、書類選考、作文、面接がある。
そして、舞波が湖潤高校に在籍している間に起こした数々の問題は、先生の奥さんが理事長だとはいえ、転入時の審査に大きく影響してしまうだろう。
「それについては問題ないのだ!この高校に入学した時と同じように、魔術を使うからな!」
「舞波くん、魔術はダメだよ」
昂の勝ち誇った哄笑に、綾花は切羽詰まった表情で言い募った。
「ああ。『生徒手帳』のようなものを使って、不正をしたりしてもすぐにバレるからな」
「先生の奥さんが理事長だしな」
緊迫した空気の中、拓也が牽制するように昂を睨むと、元樹もまた鋭く切り出す。
「ひいっ、そ、そうだったのだ!」
拓也と元樹のその厳しい言葉を聞いて、昂は恐怖のあまり、総毛立った。ふるふると恐ろしげに首を振る。
魔術を使って不正に入学しようとしたことが、昂の両親、そして1年C組の担任にバレてしまう可能性がある。
恐らくそれが、これから魔術を使うことによって、最も起こり得る絶望的な状況だろう。
もし1年C組の担任に事の次第がバレてしまったら、きっと自分は不合格にされてしまって、綾花に会うことにすらもままならなくなるかもしれない。
まさしくそれは、彼にとって避けねばならない最悪の事態であった。
「大変なことになってしまったのだーー!!」
綾花達の指摘によって、ようやくその事に気づいた昂は、ひたすら頭を抱えて絶叫するしかなかったのだった。




