第十三章 根本的に間違いは誰にでもある
「ねえ、舞波くん」
綾花は廊下の正面の壁際に緊張して立っていた。きゅっと唇を結んで、瞳をほんの少しだけ心配そうに曇らせて、昂を見上げている。
「…‥…‥今日の三時間目、調理実習だったの」
恥ずかしそうに顔を赤らめてもごもごとそうつぶやくと、綾花は持っていた紙袋を昂に差し出してきた。
「これ、クッキー。舞波くんにもらってほしいの」
綾花はじっと見上げて、昂の言葉を待っている。
昂は不遜な態度で腕を組むと、きっぱりと言い放った。
「もちろんだ。綾花ちゃんのクッキーを、我が受け取らないわけがないではないか!」
その言葉を聞いて、綾花はぱあっと顔を輝かせた。ほんわかな笑みを浮かべて、嬉しそうにはにかんでみせる。
「…‥…‥むにゃむにゃ、綾花ちゃん。…‥…‥我も幸せだ」
「あの、先生…‥…‥。舞波が、さっきから変な寝言を言っています」
机に突っ伏したまま、至福の表情でうわごとのように何やらぶつぶつと漏らす昂に、近くの席の男子生徒がうんざりとした顔をして手を挙げると冷めた視線を昂に向けたのだった。
「亜夢のクッキーがない!」
それは、亜夢のそんな言葉から始まった。
三時間目の調理実習が終わり、綾花達が教室に戻ろうとしていた矢先にそのハプニングは巻き起こった。
さすがに茉莉も、驚きを隠せずに言った。
「ええっ!?亜夢のクッキー、なくなったの?」
「…‥…‥うん、そうみたい」
茉莉の疑問にかぶせるように、問われた綾花は躊躇うように不安げな顔で頷いてみせた。
「さっきまであったのに、突然、亜夢のクッキーがなくなったの」
と、綾花は強ばった顔でぼそぼそと言う。
「十中八九、舞波の仕業だな」
綾花達のやり取りをひそかに見守っていた拓也は、げんなりとした顔で肩を落とした。
拓也は既に、昂が亜夢のクッキーを奪ったことを確定事項としていた。
なにしろ、そう考えならざるを得ない出来事が、この短い時間に立て続けに起こっていたからだ。
翌朝、昂は何かにつけて綾花に絡んでくると同時に、拓也に宣戦布告をしてのけた。そして三時間目の調理実習の前には、綾花の作ったクッキーを戴くことをクラスメイト達がいる目の前で堂々と予告し、徹頭徹尾、拓也を挑発してみせたのだ。
何よりも決定的だったのが、誰にも気づかれずにクッキーを奪ったということだ。
そのような離れ業をやってのけるのは、恐らく舞波しかいないだろう。
「えっ?舞波くんが?」
きっぱりとそう言い切った拓也に、綾花は不思議そうに小首を傾げる。
「うーん、あり得るわね。みんなの前で綾花のクッキーを奪うみたいなことを言っていたのに、綾花のクッキーはこうして無事だったんだもの」
釈然としない茉莉の言葉に、綾花は持っていたクッキーの入った紙袋をぎゅっと掴み俯くと噛みしめるようにつぶやく。
「ううっ…‥…‥、私のせいでごめんね。亜夢」
「綾花…‥…‥」
「綾花のせいじゃない。悪いのは、舞波くん」
必死に涙をこぼすまいと堪える綾花を慰めようとした拓也の言葉を遮って、亜夢はがばっと顔を上げるとはっきりとそう告げた。
亜夢の唐突な行動に少し驚きつつも、拓也は頷くとこともなげに言う。
「ああ、そうだな」
「…‥…‥ありがとう」
二人からの励ましの言葉に、綾花はにこっと自然な様子で微笑んでみせた。
しかし、拓也には綾花が努めてそうしているかのように思えた。
微笑んでいるのに、どこか辛そうな表情。
懸命に浮かべられた笑み。
それに気がついた拓也が綾花に声をかけようと手を伸ばしかけて、
「気にするなよ、瀬生」
と、聞き覚えのある意外な声に遮られた。
「元樹」
虚を突かれたように瞬くと、拓也は振り返ってそう言う。
拓也と同じく、綾花の強気を装った危うい表情に気づいた元樹は唇を強く噛みしめてこう告げた。
「どうせ、舞波の仕業だろう?なら、取り戻せばいいだけのことだ」
「…‥…‥うん」
「俺が取り戻してやる」
きっぱりと告げられた元樹のその言葉に、俯いていた綾花の顔が輪をかけて赤くなった。
「ーーなっ」
その様子を見ていた拓也は思わず絶句する。
そして視線を転じると、元樹に向かって声をかけた。
「おい、元樹!」
「亜夢のクッキー、戻ってくるのー」
複雑な心境を抱く拓也とは裏腹に、亜夢は両手を掲げると日だまりのような笑みを浮かべて言った。
「こうして見ていると、まるで亜夢のために布施くん達が頑張っているように見えるわね」
「亜夢のため!亜夢のため!」
茉莉が顎に手を当ててさもありなんといった表情で言うと、亜夢はつぼみが綻ぶようにぱあっと笑顔になったのだった。
「あの、布施くん、受け取って下さい」
綾花達が昂のクラスに行くまでの間、もう一悶着あった。
同じクラスの女子生徒達が、元樹に調理実習のお菓子のおすそわけを渡そうとひっきりなしに押しかけてきたのだ。
元樹の周りに、たちまち女子生徒達の輪ができる。
楽しそうな女子生徒達の会話をよそに、茉莉は周囲を窺うようにしてから拓也に訊いた。
「ねえ、井上くん」
「どうしたんだ?星原」
言い募る茉莉に、拓也は不思議そうに首を傾げてみせる。
茉莉はいたずらっぽく笑うと、意味深な表情で続けた。
「井上くんは、綾花以外の女の子から告白とかされたことってないの?」
「ーーなっ!?」
思いもかけない言葉を投げかけられて、拓也は唖然とした。
さも心外だ、といわんばかりに、拓也は額に手を当てて肩をすくめてみせる。
「あるわけないだろう!俺は、綾花一筋だ!」
茉莉が発した言葉に、拓也は微かに苛立ちを混じらせて答えた。
そしてそのリアクションが、拓也の言動が嘘ではないことをはっきりと裏付けることになる。
茉莉は呆れたように肩をすくめると、弱りきった表情で口を開いた。
「そこは、自慢することじゃないと思うんだけど…‥…‥」
そうこうしているうちに、拓也達は昂の教室の前までたどり着いた。
かってのクラスメイト達の声に恐縮しながらも、綾花は教室の中をそっと窺い見る。
「貴様ら、何の用だ。断っておくが、我はクッキーなど知らぬぞ」
「…‥…‥おい」
拓也達が教室に入ってくるなり、進んで席を立ち、自ら自白してきた昂に、拓也はげんなりとした顔で辟易する。
綾花は昂の顔を見るなり、切羽詰まった表情で言い募った。
「お願い、舞波くん!亜夢のクッキーを返してあげて!」
「すまぬ、綾花ちゃん。いくら綾花ちゃんのお願いでも、こればかり返せぬのだ。何故なら…‥…‥ぬっ?」
不適な笑みを浮かべた昂は全てを言い切ろうとしてから、ようやく綾花の台詞の不可思議な部分に気がついた。
昂は目を丸くして、綾花をまじまじと見つめる。
「ど、どういうことなのだ?綾花ちゃん」
「おまえが奪ったクッキーは、綾花のものではないんだ」
昂の視線を受けた綾花の代わりに、拓也は綾花の戸惑いを代弁するように言った。
「さあ、霧城のクッキーを返してもらおうか?」
追い打ちをかけるように言う拓也に、何故か昂は期待に満ちた視線を向けた。
「…‥…‥あ、あれは、綾花ちゃんのクッキーではなかったのだな」
「ああ」
念を押すように重ねて訊ねてくる昂を訝しげに思いながらも、拓也は朗らかに言った。
「…‥…‥よかったのだ」
その言葉を聞いた途端、昂は安堵した顔でほっと胸を撫で下ろした。
そして、さらに嬉しそうに言葉を続ける。
「あの激辛クッキーを作ったのが綾花ちゃんだったら、どうするべきか悩んでいたところだ」
「…‥…‥おい!」
到底、聞き流せない言葉を耳にした拓也は焦ったように慌てて昂に詰め寄る。
かくして、昂は両手をぱんと合わせると謝罪の言葉を述べた。
「すまぬ、綾花ちゃん。我はもうクッキーを食べてしまったのだ」
「ええっ!?」
その衝撃的な台詞は、何の前触れもなく告げられた。
綾花は目を見開くと、みるみるうちに表情を曇らせていく。
内心、昂の性格上、もう食べてしまったかもしれないと進としては気づいていた。
綾花は進として体験してきたことで、そのことを身を持って知っていたのだ。
だが、それでも、まだ食べていないことを心のどこかで期待していた。
しかし、現実はどこまでも無情だった。
傷ついた表情を浮かべ、顔を伏せた綾花の様子を見かねた拓也が、抑揚のない口調で言った。
「戻るぞ、綾花」
「…‥…‥う、うん」
「…‥…‥むうっ、亜夢のクッキー、食べた~!」
不満を口にする亜夢を尻目に、拓也は戸惑う綾花の手を取って足早に教室に戻ったのだった。
「ごめんね、亜夢」
昼休みの教室内にて開口一番、小声で謝ってきた綾花に、亜夢はわずかに眉を寄せた。
「綾花?」
いつものように机を囲み、茉莉と亜夢の三人で昼食を取ろうとしていた最中、椅子に座り膝の上に置いた手を握りしめていた綾花が隣に座る亜夢に声をかけた。
「今日、私のせいで、亜夢のクッキーがなくなってごめんね」
「違う!綾花のせいじゃない!悪いのは、舞波くん!」
一点の曇りもなくぽつぽつとつぶやく綾花に、まるで叩きつけるかのように頬を膨らませて亜夢は言った。
「綾花、悪くない」
「亜夢…‥…‥」
綾花は躊躇うように不安げな顔で、亜夢を見遣る。
落ち込む綾花の肩に手を置くと、茉莉がふっと息を抜くように笑った。
「亜夢のいうとおりよ。だいたい、舞波くんが綾花のクッキーを奪おうとしなかったら、こんなことにならなかったんだもの。…‥…‥あっ!」
不意に思いついたように、茉莉は興味津々の様子で後ろ手を組むと、綾花の顔をそっと覗きこんだ。
「ねえねえ、綾花。私達も、綾花のクッキー食べたいな」
「えっ?」
話題を変えるように茉莉が明るい表情で言うと、綾花は目をぱちくりと瞬いた。
「いつも綾花の分は、井上くんにいっちゃうんだもの。たまにはさ、私達も食べたいって思うの」
茉莉のその言葉を聞いた途端、亜夢が両手を広げて嬉々として声を上げる。
「綾花のクッキー、亜夢、大好き~」
「ありがとう、茉莉、亜夢」
亜夢がのほほんといった調子で言うと、綾花はどこか晴れやかな表情を浮かべて笑った。
そんな綾花に、元樹が軽い調子で声をかけてきた。
「俺も瀬生のクッキー、食ってみたいな」
「あのな、元樹」
元樹に対してそうぼやきながらも、穏やかな表情で胸を撫で下ろす綾花を見て、拓也は胸に滲みるように安堵の表情を浮かべる。
すると両手を広げ、生き生きとした表情で綾花はさらにこう言った。
「なら、みんなで食べよう」
「…‥…‥あ、ああ」
拓也が少し不満そうに渋々といった様子で頷くと、綾花は嬉しそうに顔を輝かせた。
「…‥…‥綾花ちゃん、我が悪かった。だから、我にもクッキーを分けてほしいのだ」
そんな綾花達の様子を廊下の壁際からこそっと窺いながら、昂はしみじみと出ていくタイミングを計っていたのだった。




