第十二章 根本的に変わらない想いと変わりゆく関係
小柄な少女の姿を、夢に見た。
一見、どこにでもいるような普通の少女だ。サイドで高めに結んだ長い黒髪はゆるやかに巻かれていた。その少女はこちらを見て嬉しそうに笑っている。それは見ている方も自然と笑顔になってしまうような可憐な顔立ちだった。開き始めたつぼみのようにほんわかとした可愛らしさがある。
それは彼がいつまでも見ていたいと望んでしまうような、美しい幻想だった。
そして夢は、彼がーー少年が嘆き悲しんでいる光景に変わった。
段々と小さくなっていく少女の後ろ姿に、少年が必死の表情で何かを叫んでいる。
その声が聞こえたのか、ようやく少女は少年の方を振り向いたが、やはり彼女としての反応はなく、そのまま無言で少年を見つめている。
少年は声を限りに叫んだ。
どうして、こうなったんだ。
どうして?
どうして?
目を見開いて正面の少女に訴え続ける少年に対して、少女は表情を一切変えなかった。
そのまま、表情を変えずに素っ気ない口調で少女は、
「俺、綾花じゃないから」
と、ただ一言だけつぶやいた。
「綾花ちゃん、今日から我は学校に復帰することになった。そして、綾花ちゃんと再び登下校できるようになったのだ。これは復帰祝いのゲームだ」
「ありがとう、舞波くん」
今朝、拓也と綾花がいつもの駅で待ち合わせていると、昂がご機嫌な様子でやって来て、持っていたゲームソフトを綾花に手渡してきた。
自分が復帰したのに綾花にゲームを手渡してくるという、何かにつけて綾花に絡んでくる昂の様子を見た拓也がむっと顔を曇らせる。
しかし、昂は何食わぬ顔で立て続けにこう言ってのけた。
「ペンギンが出てくるゲームの中で、我が進にと厳選に厳選を重ねて選び抜いた一品だ。間違いなく、満足の域に達する一品だろう」
「そうなんだ」
傲岸不遜な昂の言葉に、綾花は口元に手を当ててにっこりと花咲くような笑みを浮かべた。
そんな綾花と昂のやり取りを見遣ると、拓也は警戒心をあらわにして訊いた。
「何を企んでいる?」
「何も企んでおらん。何もな」
訝しげな拓也の問いかけにも、昂はなんでもないことのようにさらりと答えてみせた。
「そんなことより、今日の三時間目は綾花ちゃんのクラスは調理実習だったな?綾花ちゃんが作ったものなら、当然、我がもらうべきだ!」
意気揚々と昂が意気込みを語ってみせると、拓也は軽く肩をすくめてきっぱりと言った。
「勝手に決めるな!」
「勝手ではない。すでにこれは、我によって定められた確定事項だ」
慣れた小言を聞き流す体で、昂は拓也に人差し指を突きつけると勝ち誇ったように言い切った。
だがすぐに、昂はふと気づいたように意味深な表情を浮かべると非難じみた眼差しを向けてくる拓也を見遣る。
「そういえば貴様、何故、今日は我が綾花ちゃんに話しかけていると、いつもより不機嫌極まりない態度なのだ?」
そのもっともな昂の疑問に、拓也はむっ、と唸るとなんとも言い難い渋い顔をした。
「まあ、我にはどうでもよい。さあ、綾花ちゃん、今日も楽しく登校しようではないか!」
「…‥…‥おい」
「…‥…‥えっ?」
昂はそう言い放つと、拓也と綾花の返事も待たずにとっとと歩き始めた。
その様子をしばらくぼっと見つめていた綾花だったが、拓也の方を振り向くと不意に声のトーンを落として訊いた。
「たっくん、どうかしたの?」
「何でもない」
人差し指を立てて心配そうに首を傾げる綾花に、拓也は冷静を装って大丈夫だと告げる。
それでも綾花は所在なさげな顔で、おずおずと拓也を見つめていた。
「はあ…‥…‥」
拓也は軽く嘆息すると、綾花だけに聞こえるように、拓也は彼女の耳元で本音をささやいた。
「少し、夢見が悪かっただけだ」
「…‥…‥夢?」
「あの時ーー舞波が憑依の儀式を行った時、綾花が完全に上岡になってしまった場合の夢だ」
心の底では、綾花には聞いてほしかったのかもしれない。
自分でも驚くほど素直に、拓也は促されるまま、今朝方見た悪夢の内容を打ち明けていた。
綾花は拓也の話を真剣な表情で聞いてくれた。そして、拓也の夢の話を聞き終えると、綾花は両手を伸ばして、その手で拓也の顔を優しく挟み込んできた。
「綾花?」
「大丈夫だよ、たっくん」
拓也が目を瞬かせていると、少しばつが悪そうな顔で綾花が告げた。
手のひらを通して、朝の光のようなぬくもりが頬に伝わってくる。
綾花は少し困ったような表情を浮かべると、ぽつりとこう言った。
「私は確かに進だけど、ちゃんと綾花でもあるよ。だから、たっくんを置いてどこかに消えたりなんてしない」
「…‥…‥ああ、そうだな」
綾花はすうっと拓也の顔を解放し、拓也に微笑みかけた。
その綾花につられて、拓也も笑顔を返す。
綾花の両手が離れても、拓也の頬には彼女のぬくもりが残った。そのぬくもりが拓也の不安や恐怖を溶かし崩してしまったのかもしれない。気がつくと、拓也の心から嘘のようにそれらの存在は取り除かれていた。
「綾花、ありがとうな」
「…‥…‥うん」
拓也が胸に滲みるような穏やかな笑みを浮かべているのを見て、綾花はほっとしたように安堵の胸を撫で下ろす。
「うむ、綾花ちゃんの言うとおりだ。もはや、綾花ちゃんと進は一心同体故に、どちらかが消えてしまうことなど絶対にあり得ないのだ」
いつのまにか、さっさと立ち去ったはずの昂が戻ってきて興奮した口調で言い放った。
きっぱりと断言した昂を見据えて、拓也は強く声を返す。
「何故、ここにいる?おまえは先に行ったんじゃなかったのか?」
「何を言う?我は綾花ちゃんと登校するために来たのだ。先に行っては、本末転倒ではないか」
そんな拓也に、昂は人差し指を突き出すとさらに笑みを深めて言い切った。
「そんなことよりも貴様、先程、実に興味深そうな話をしていたな?綾花ちゃんが進になった夢を見たと」
その言葉を聞いた途端、不愉快そうに眉根を寄せた拓也に、大仰に肩をすくめてみせると昂は容赦なく話を進めていく。
「我も、当初は綾花ちゃんを進にするつもりだった。だがしかし、今ではこうなって良かったと思っている」
意外な言葉に、拓也は虚を突かれたように目を丸くしてしまう。
動揺する拓也を尻目に、昂は自然な感じでさらにこう付け加えた。
「あの時、憑依融合のようなものが起きてくれたおかげで、綾花ちゃんであり、進でもある今の綾花ちゃんがいるのだ。我は感激極まりない」
「…‥…‥舞波くん」
予想外の昂の言葉に、綾花は嬉しそうに可憐な笑みを浮かべて昂を見ていた。
「それに、いまや綾花ちゃんは我の彼女なのだからな」
「おい」
昂は腰に手を当てて、得意げに胸を反り返らせる。
その言葉にだけ抗議の視線を送る拓也に対して、不意に昂はあることに気づき、訝しげに周囲を見渡し始めた。
「そういえば、昨日、綾花ちゃんに口づけをしてのけた、あの不届き千万な輩はどうしたのだ?」
「元樹なら、今日は朝練だ」
「なるほど」
得心したように頷きながら、昂は言った。
「我に恐れをなして、潔く身を引いたというわけだな」
得意絶頂で自分の妄想を語り続ける昂のその様子を、拓也は唖然とした表情のまま、じっと見つめていた。
陸上部の朝練と聞いただけで、身を引いたと結論づける昂のズレた思考回路に拓也は辟易してしまう。
「そんなわけないだろう」
突然の展開についていけず、拓也はなんとも言い難い渋い顔をした。
しかし、昂は拓也の声に耳を傾けようとはしなかった。
「綾花ちゃんは、やはり我と結ばれる運命だったのだ。ーーなにしろ、綾花ちゃんは、我の将来の結婚相手なのだからな」
「ええっ!?」
あれよあれよと進んでいく昂の話に、当事者である綾花は取り残されていた。
その後、学校にたどり着くまで、昂は延々と一方的に口を動かし続けたのだった。
始業のホームルームが始まるぎりぎりの時間帯に慌てて教室に入ってきた元樹を見て、茉莉は目を瞬かせた。
「あれ、布施くん、今日はいつもより遅いんだ?てっきり、今日はお休みなのかと思った」
茉莉が不思議そうに訊くと、元樹は目を細めて切り出す。
「違う、単なる朝練の延長。昨日、ミーティングに遅れたから、部長から今日の朝練を延長させられたんだよ…‥…‥」
「もしかして、昨日、綾花と何かあった?」
茉莉はわずかに目を見開いた後、神妙な表情で元樹に訊いた。
「告白した。まあ、でも、拓也と舞波に聞かれてしまったけどな」
「井上くんはともかく、舞波くんも…‥…‥?というか、舞波くん、あの場所にいたの?」
呆気にとられたような茉莉を見て、元樹もまた決まり悪そうに視線を落とす。
「それが何故か、いたみたいなんだよ」
まるで苛立つように意識して表情を険しくした元樹の姿に、茉莉は顎に手を当て思案し始める。
「綾花、あの舞波くんとも対等に話せるようになったみたいだけど、それって、もしかしたら舞波くんに何か弱みでも握られているからかもしれないわね」
「…‥…‥そうだな」
まさか、瀬生に上岡が憑依したからとは言えず、元樹は曖昧な返事を返した。
それをどう解釈したのか、茉莉は優しげな笑みを浮かべると思いがけないことを口にし始めた。
「ねえ、布施くん。いくら井上くんでも、あの神出鬼没な舞波くんをさすがに止められないと思うの。だから、もし綾花に何かあったら、ちゃんと守ってあげてよね」
「当たり前だ」
元樹がふてぶてしい態度できっぱりとそう答えると、茉莉は意味ありげな表情で元樹を見た。
「ーーなんだ?」
元樹が戸惑ったように訊くと、茉莉はにっこりと笑って言った。
「別に。ただ、布施くんのこと、これからも応援してあげようかなと思ってー」
「星原は、拓也と瀬生の仲を応援していたんじゃないのか?」
噛みしめるようにくすくすと笑う茉莉に、怪訝そうに元樹が訊ねる。
「まあー、布施くんには、布施先輩のことでいろいろと助けてもらっているからね」
「あっ!亜夢も、布施くんのこと、応援する~!」
茉莉の言葉にかぶせるように、ひょっこりと茉莉達の前に姿を現した亜夢が片手を掲げて陽気な声で言う。
「霧城!」
「亜夢!」
意外な声に、元樹と茉莉が振り返って相次いで呼んだ。
唐突かつ支離滅裂で無茶苦茶な物言いの亜夢に、元樹は試すように亜夢を見る。
「なあ、霧城は、何で俺と瀬生の仲を応援してくれるんだ?」
うーん、と少し考え込むようにうつむいた後、不意に亜夢は屈託なく笑ってみせた。
「綾花には、布施くんがいいと思った。それだけ」
「えっ?それだけって…‥…‥」
「ーーっ」
無邪気な笑顔を浮かべて淡々と告げた亜夢に、茉莉が驚きを隠せずに目を見開き、元樹は心底困惑したように狼狽する。
元樹は沸き上がる気持ちを抑え、さも呆れたそうに首を横に振り、ため息を吐いて言った。
「…‥…‥はははっ。霧城、おまえ、面白いな」
「むうっ、おかしいのは布施くんの方」
むくれたように視線を逸らした亜夢につられて、元樹は横目で拓也と他愛ない会話を交わしている綾花を窺い見る。
その視線に気づき、振り返った綾花は、そこで元樹と目が合ってしまう。
ほのかに頬を赤らめた綾花はうつむくと指先をごにょごにょと重ね合わせ、たまらずそのまま、視線をそらした。
身体を縮こませて気まずそうに視線を逸らすという、一昨日まではあり得なかった明らかに意識しているような綾花の態度に、元樹は思わずほくそ笑んでしまう。
二人の叱咤激励と声援。
なによりーー誰よりも愛しい少女に。
元樹は胸に灯った炎を大きく吹き上がらせた。
それでも、どうしても漏れてしまう笑みを我慢しながら、自嘲するでもなく、吹っ切るように元樹はがりがりと頭をかいて、
「いいな、それ」
と、一息に言った。