番外編第六十六章 根本的に記憶の中に閉ざされた笑顔②
「ううっ…‥…‥」
レッスン初日、自分の部屋に戻った綾花は、そのまま、ベットにぶっ倒れてしまった。
あの後、どれだけの時間、歌い続けていたのか、綾花にはよく分からない。
頭を悩ませるように、綾花はベットに寝転ぶと枕元に置いているペンギンのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめる。
「ペンギンさん、きっと大丈夫だよね」
独り言のようにぽつりとつぶやくと、綾花は起き上がり、ペンギンのぬいぐるみを抱きかかえたまま、どこか切なげな表情で窓の外を眺めていた。
そうしてようやく、何度目かの躊躇いの後、綾花はペンギンのぬいぐるみをベットの上に置くと、姿見の前で大きく深呼吸する。そして、ゲーム会社から送られてきた、オンラインバトルゲーム『チェイン・リンケージ4』の主題歌の歌詞を見ながら再度、復唱した。
「あなたに降り注ぐ光の先には~!遠く果てない未来がいくつも交差している~!…‥…‥ううっ、やっぱり、上手く歌えない」
小さな呟きは、誰にも聞こえない。
ほんの少しの焦燥感を抱えたまま、綾花は遠い目をする。
あと、たった三週間で、オンラインバトルゲーム『チェイン・リンケージ4』の主題歌CDのレコーディングに入ると聞かされて、綾花は若干、緊張感をみなぎらせていた。
綾花のレッスン初日、早速、麻白の講師を担当してくれたスタッフの人から厳しいチェックがしきりに飛んだ。
『発声』。
『音程』。
『リズム感』。
スタッフの指示のもとに、麻白として頑張って歌ってみたのだが、どうもしっくりこない。
オンラインバトルゲーム『チェイン・リンケージ4』のオープニングを歌うことになった人が、今、話題の有名な歌手の人であるとはいえ、麻白が歌うエンディングがこれでは、CDを購入してくれた人はすごくがっかりしてしまうだろう。
そう思い至ってーーだがすぐに、綾花は幾分、真剣な表情で、さも重要そうにこう言い足した。
「そうだ。進としてなら、上手く歌えるかもしれない。絶対に私ーーいや、俺はやり遂げてみせる」
両拳を握りしめて口振りを変えた綾花は俯き、一度、言葉を切った。
だけど、すぐに顔を上げると、綾花は歌詞を見ながら苦々しい顔で吐き捨てるように言う。
「あ、あなたに降り注ぐ、ひ、光の先にはーーって、ああっ!…‥…‥もう、どうしたら上手く歌えるようになるんだよ!」
勢いよくそう叫ぶと、綾花は乱れた髪を整えながら不服そうに唇を噛みしめる。
結局、綾花でも進でも上手く歌うことが出来ず、綾花は困ったように頭を悩ませる。
あと、たった三週間で、オンラインバトルゲーム『チェイン・リンケージ4』の主題歌CDのレコーディングに挑まないといけないのに、どうしても上手くいかない。
このままの状態で、オンラインバトルゲーム『チェイン・リンケージ4』の主題歌CDの収録に間に合うのだろうか?
オンラインバトルゲーム『チェイン・リンケージ4』の主題歌CDの収録までに、麻白として、オンラインバトルゲーム『チェイン・リンケージ4』の主題歌を歌う。
そう決めた今でも、それは綾花のーーそして進の心にしこりとして残っていた。
頑張りたいーーだが、上手く歌えない。
二律背反にさいなまれ、綾花が困ったようにため息を吐いた時、ちょうどノックの音が響いた。
「綾花、まだ起きているの?」
しばらくして部屋のドアが開けられると、綾花の母親が穏やかな声で綾花に話しかけてきた。
「ああ」
「…‥…‥綾花、まだ、歌の練習をしていたの?」
進として振る舞った状態で、綾花がそう答えるのを見つめていた綾花の母親のその声は、驚いたような嬉しいような、でもどこか受け入れられないような、複雑な感情が入り交じっていた。
そのことに気がついた綾花は、顔を俯かせると辛そうな顔をして言った。
「…‥…‥ごめん、お母さん。驚かせてしまって…‥…‥」
切羽詰まったような綾花の態度に感じるものがあったのだろう。
思い詰めた表情をして言う綾花に、綾花の母親は決まり悪そうに顔を俯かせると、ぽつりぽつりと語り始めた。
「…‥…‥ううん。綾花と上岡くんが、黒峯麻白さんのために頑張っているのは分かっているから」
「あ、ああ」
綾花の母親の言葉に、綾花は気まずそうに意図的に目をそらす。
そんな綾花に対して、綾花の母親は躊躇うように不安げな顔で言葉を続けた。
「あのね、綾花。ゲームの主題歌のレッスンのことで、相談したいことがあるのだけど」
「…‥…‥それは」
「もう少し、自然な感じで歌ってみたらどうかしら?」
戸惑いの声を上げる綾花の台詞を遮って、綾花の母親はきっぱりと告げた。
「それに、上岡さん達とも相談したのだけど、今の状態で行き詰まるのなら、発想を少し変えて、綾花と上岡くん、そして、黒峯麻白さん、みんなで歌う感じにしてみたらどうかなと思うの」
「…‥…‥三人で歌うか」
綾花の母親の即座の切り返しに、綾花は思わず、目を丸くし、驚きの表情を浮かべてしまう。
垂直思考ではなく、水平思考への転換。
それは、麻白として歌うのではなく、綾花と進と麻白、トリプルボーカルで歌うかたちにする。
綾花の母親のその妙案に、綾花は思わず、頬を緩ませてしまう。
この方法を使えば、無理せずとも綾花達なりの歌は歌えるかもしれない。
「…‥…‥思考方法そのものの転換か」
綾花が静かにそう告げて、顎に手を当てて真剣な表情で思案し始めると、綾花の母親は言いづらそうにおずおずと言葉を続けた。
「綾花、あまり無理はしないでね」
「ありがとうな」
綾花の母親の何気ない励ましの言葉に、綾花は嬉しそうに笑ってみせたのだった。
翌日、綾花達はラジオ放送局のレッスン場で、麻白が歌うことになる主題歌の曲を聞かされていた。
いつものオンラインバトルゲーム『チェイン・リンケージ』の曲とは違い、胸が締め付けられるような切ない曲だった。
イントロから始まり、サビで終わるところが、昨日、麻白として歌った歌詞とリンクしていて、綾花の心に強く残った。
曲が流れ終わった後、スタッフは綾花達に訊いた。
「どうかな?」
「すごく良かったです」
「ああ」
「すげえ、いい曲だったな」
そんな綾花と拓也、そして、元樹の答えは予想済みだったらしく、スタッフは意味ありげに続けた。
「この曲で、オンラインバトルゲーム『チェイン・リンケージ4』のエンディングを歌ってもらうことになるから」
「そうなんですね」
スタッフの言葉に、綾花が嬉しそうに心を踊らせる。
「とにかく、まずは音程を合わせるためにも、曲のリズムをとれるようにしていこうか?」
「は、はい」
スタッフの指示に、綾花は追随するようにこくりと首を縦に振った。
「なあ、麻白、ちょっといいか?」
「えっ?」
拓也が手招きして呼びかけると、スタッフと話していた綾花は、麻白のサポート役として様子を伺っていた拓也達のもとへと駆けていく。
警戒するように辺りを見渡した後、拓也は深呼吸をするように深く大きなため息を吐くと、綾花に小声でつぶやいた。
「今朝、舞波のおばさんから聞いた話なんだが、オンラインバトルゲーム『チェイン・リンケージ4』の主題歌CDの収録が終わった一週間後に、舞波のおじさんが勤めている会社で麻白の歌のお披露目会をするらしい」
「あ、あたしの歌のお披露目会?」
目を丸くし、驚きの表情を浮かべた綾花を見て、拓也はばつが悪そうな表情で続ける。
「ああ。しかも、テレビで生放送されるみたいだ」
「ふわわっ!」
思わぬ言葉を聞いた綾花は、拓也の顔を見つめたまま、瞬きをした。
元樹は腕を頭の後ろに組んでレッスン場の壁にもたれかかると、不満そうに肩をすくめて言う。
「麻白の偽の誘拐をニュースに取り上げたり、麻白の歌を生放送にしてまでテレビで放送する。黒峯玄の父親は、やけにメディアにこだわっているよな」
「ああ。どういうつもりなんだろう」
前回のニュース速報を想起させるような状況に、拓也は苦々しい顔で眉をひそめる。
一見、同じような行動を繰り返す、玄の父親の真意がいまだに見えてこない。
「麻白ちゃん~!」
このままでは、また、黒峯玄の父親に出し抜かれてしまうのではないか、と思案に暮れる拓也と元樹の耳に勘の障る声が遠くから聞こえてきた。
突如、聞こえてきたその声に苦虫を噛み潰したような顔をして、拓也と元樹は声がした方向を振り向く。
案の定、綾花を探して、レッスン場内に入ってくる昂の姿があった。
躊躇なく思いきり綾花に抱きつこうとしていた昂に、拓也と元樹は綾花を守るようにして昂の前に立ち塞がった。
綾花に抱きつくのを阻止されて、昂は一瞬、顔を歪ませる。
だがすぐに、昂はそれらのことを全く気にせずに話をひたすら捲し立てまくった。
「麻白ちゃん、我の父上から重大な話を聞いたのだ!」
「…‥…‥」
拓也と元樹の嫌悪の眼差しに、昂は訝しげに大仰に肩をすくめてみせた。
「な、なんだ?不満そうな顔をしおって。貴様達にとっても重大なことではないか!」
昂が力強くそう力説すると、拓也と元樹は訝しげに眉根を寄せる。
「俺達にとっても、重大なこと?」
「どういうことだよ?」
「うむ。実は、父上の会社でおこなわれる麻白ちゃんの歌のお披露目会で、黒峯蓮馬は、麻白ちゃんの記憶が完全に戻ったことをテレビというものを通して伝えるようだ。そして、麻白ちゃんが歌う、オンラインバトルゲーム『チェイン・リンケージ4』のエンディングのタイトルを『黄昏の中へと消えていく』というものにするらしい」
「「ーーっ」」
記憶が完全に戻ったことを伝えるというフレーズに、拓也と元樹は明確に表情を波立たせた。
だが、綾花は、拓也達とは違って、別の内容で驚愕する。
「…‥…‥『黄昏の中へと消えていく』。それって、あたしが考えた歌のタイトル」
麻白の想いに誘われるように、綾花は顔を俯かせて涙を潤ませる。
その瞬間、それまで綾花の心の中で、ぼこぼこと泡立っていた麻白の記憶の炭酸が、咳を切ったように溢れ出したような気がした。




