番外編第五十九章 根本的に蒼く空を染めていく
玄の父親の追手から逃れるため、綾花達は通路を駆け抜け、階段を降りていく。
1年C組の担任が、警備員に扮しておこなった事前調査では、地下駐車場まではあと少しだ。
綾花達は階段を降りた後、広い通路を進んでいき、目的地である地下駐車場へと急いだ。
しかし、長い通路を駆け抜け、いくつもの角を曲がった先に、新たなセキュリティシステムが施された扉が、綾花達の前に立ち塞がった。
「地下駐車場に行くには、ここを通る必要があるな」
「…‥…‥せ、先生」
思わず、身構えてしまった1年C組の担任に、それまで誘導に従っていた綾花がおずおずと声をかけてきた。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
そう言う綾花は浮かない顔をしていた。
所在なさげに、1年C組の担任から受け取った、麻白の部屋にかけていた自身のポーチをいじっている。
「ーー本当にごめん」
周囲を窺った後、驚いて振り返った1年C組の担任を見遣ると、口振りを変えた綾花は俯き、一度、言葉を切った。
だけど、すぐに顔を上げると、綾花は苦々しい顔で吐き捨てるように言う。
「先生、あの時、止めてくれてありがとうな」
「気にするな、瀬生。それだけ、黒峯さんが施した魔法陣の影響が強かったのだろう。私の方こそ、黒峯さん達に遭遇した時に、すぐに気がついてやれなくてすまない」
綾花の言葉に、1年C組の担任はあくまでも真剣な表情で頷いた。
そして、魔法陣が施された広間に行く前に、玄の父親が綾花に対して、麻白の記憶を完全に取り戻すと言っていたことを、不意に1年C組の担任は思い出す。
「先生、ありがとうな」
1年C組の担任の言葉に、綾花が輝くような笑顔を浮かべる。
「だけど、本当にすごい扉だな」
そのいかにも硬そうなセキュリティの施された扉を見て、綾花はすぐ隣の1年C組の担任を窺い見た。
「心配するな、瀬生。今回の作戦の前に、布施が舞波に頼んで創り出してもらった魔術道具がある」
「魔術道具?」
綾花の言葉に、1年C組の担任は険しい表情のまま、人差し指を立てて言った。
「どんな扉や壁でも、破壊するという魔術道具だ。本来、布施は舞波に、扉などに施された『セキュリティシステム』を解除する魔術道具を頼んでいたようだが、舞波が『セキュリティシステム』というものが分からなかったため、このような魔術道具になってしまったらしい」
「そ、そうなんだな」
驚きの表情を浮かべる綾花の様子に、1年C組の担任は額に手を当ててため息をつくと朗らかにこう続ける。
「何でも、井上達を救出する際にも、舞波は壁を破壊するために、この魔術道具を何度も使用していたようだ」
「…‥…‥昂らしいな」
綾花が困り果てたようにため息をつこうとしたところで、通路の奥から誰かの声がした。
「いたぞ!」
「ーーっ」
警備員のかけ声に合わせて、さらに数名の警備員達が、綾花達の後ろから駆け込んでくる。
警備員達の追手に対して、1年C組の担任がとった行動は早かった。
「せんーーうわっ!」
動きの鈍い綾花を抱きかかえ、1年C組の担任は通路の床を蹴った。
そして一度、前に出て、魔術道具で強固な扉を破壊した後、後ろに引いて加速。
その見え透いた挙動に、警備員達は完全に反応が遅れた。
「ーーま、待て!」
それでも、綾花に手を伸ばそうとした警備員の一人は、次の瞬間、綾花を片手で抱きかかえ直した1年C組の担任に、その場で縦に一回転させられた。
「…‥…‥なっ」
あまりに自然すぎて回転させられた警備員も、他の警備員達も何が起きたのか分かっていない。
「行くぞ、宮迫」
「ああ」
呆然とする警備員達を尻目に、1年C組の担任は綾花を抱えたまま、地下駐車場へと向かったのだった。
拓也達は、玄の父親の策略によって、ボーカルスクールの事務所から連れさらわれた綾花を救うため、玄のマンションへと向かっていた。
拓也はワゴン車の窓から、玄のマンションがある方向に一旦、視線を向けると、顔を曇らせて言った。
「元樹、綾花は大丈夫なのか?」
「…‥…‥分からない。先程、綾から連絡があったが、どうやら、綾は黒峯玄の父親の手によって、麻白の記憶を完全に施されてしまったらしいからな」
「そうか」
元樹の言葉に、拓也は複雑な表情を浮かべると戸惑うように言う。
「…‥…‥はあ。黒峯玄の父親の目的の一つは、達成させられてしまったみたいだな」
「おのれ~、黒峯蓮馬!せっかく、綾花ちゃんが、麻白ちゃんとして、オンラインバトルゲーム『チェイン・リンケージ4』の主題歌を歌ってくれるというのに、その好意を棒に振るとは!」
元樹が呆れたように嘆息すると、昂は不愉快そうに顔を歪めた。
「我は許せぬ!今後一切、綾花ちゃんのーー麻白ちゃんの歌は、我が独り占めするのだ!」
「…‥…‥それをしたら、綾はーー麻白は、オンラインバトルゲーム『チェイン・リンケージ4』の主題歌を歌えなくなるんじゃないのか?」
「そんなことはどうでもよい。我のテリトリーの中で、綾花ちゃんを泣かせたというだけでも万死に値する。我は、黒峯蓮馬から綾花ちゃんを護らねばならなかったというのに、護りきれなかったのだ!」
元樹があっけらかんとした口調で言ってのけると、憤懣やる方ないといった様子で昂がそう吐き捨てる。
「…‥…‥ああ、許せないよな。だけど、黒峯玄の父親は、綾に麻白の記憶を完全に施したりと、このまま、綾のことを諦めるつもりはなさそうだ」
これ見よがしに昂が憮然とした態度で言うのを聞いて、元樹はまるで苛立つように意識して表情を険しくする。
「…‥…‥綾花」
元樹と昂の会話を複雑そうな気持ちで聞いていた拓也は、何故か、ほんわかと笑ういつも綾花を思い出した。
拓也の脳裏に、いつもの綾花と麻白の姿をした綾花の姿が重なり合う。
幼い頃からペンギンが大好きでーー、だけど、上岡が憑依した影響でゲームも好きになってしまった幼なじみの少女。
そして、麻白の心を宿したことで、玄の父親達に狙われるようになってしまった少女。
でも、拓也達にとっては、言い表せないくらいに大好きで、誰よりも大切な女の子だ。
拓也達が、玄の父親達から助けだそうとしている少女は、それ以外の何者でもなかった。
拓也は深々とため息をつくと、額に手を当てて困ったように肩をすくめてみせる。
「このマンションの地下駐車場に、綾花と先生がいるんだな」
「ああ」
次第に姿を現した玄のマンションに圧倒される拓也をよそに、元樹は携帯を取り出した。
「綾達は、地下駐車場にたどり着いたようだし、とにかく、今はここから綾達を救出しよう」
元樹は携帯を確認すると、隣の席の昂へと視線を向ける。
「むっ、仕方ない。『対象の相手の元に移動できる魔術』を使える距離としてはいささか遠いのだが、綾花ちゃんを助けるためだ」
元樹の声に応えるように、ワゴン車の窓からひょっこりと顔を出した昂は、魔術を使うために片手を掲げる。
「むっ!」
「ーーっ、昂!?」
「はあ…‥…‥。何とか、うまく逃れられたようだな」
そして、咄嗟に使われた昂の魔術によって、綾花と、地下駐車場で警備員達と渡り合っていた1年C組の担任は、一気に拓也達のいるワゴン車内へと瞬間移動させられた。
「…‥…‥そうか。『対象の相手の元に移動できる魔術』で、ここに移動したんだな」
辺りを見回した後、昂の魔術でワゴン車内に移動したことを察した綾花はほっとしたように安堵の表情を浮かべる。
そんな綾花を見て、拓也は意を決したように息を吐くと必死としか言えない眼差しを綾花に向けた。
「綾花」
「うん?」
声はちゃんと綾花に届いた。
綾花は、昂から拓也へと顔を動かした。
それを確認した後、拓也は肺に息を吸い込んだ。
ためらいも恐れも感じてしまう前に、拓也は声と一緒にそれを吐き出した。
「綾花、ごめんな。怖い目に合わせてしまってごめん。もう、大丈夫だからな」
「井上。メールで送ったことなんだけど、実はその、俺な」
拓也の率直な言葉に、綾花は言いにくそうに意図的に目をそらす。
しかし、このままでは話が先に進まないと思ったのだろう。
綾花は顔を上げると、意を決して話し始めた。
「麻白の記憶を完全にーー」
施されてしまったんだ。
綾花が、そこまで言う前にーー。
拓也は調度を蹴散らすようにして綾花のそばに駆け寄ると、小柄なその身体を思いきり抱きしめた。
「ーーっ、たっくん…‥…‥?」
先程までの平然な進の表情はどこへやら、いつもどおりの花咲くようなーーだけど、今にも泣き出してしまいそうな表情を浮かべる綾花に、戸惑いとほんの少しの安堵感を感じながら、拓也は言った。
「…‥…‥綾花が、無事でよかった」
ぽつりぽつりと紡がれる拓也の言葉に、綾花の顔が目に見えて強ばった。
拓也のその言葉を聞いた瞬間、綾花の瞳からは、涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。
「たっくん、たっくん。わ、私、私、本当の意味で、麻白として生きていくことになってしまったの」
「…‥…‥ああ、分かっている。分かっている。綾花、護れなくてごめんな」
泣きじゃくる綾花の頭を、拓也は穏やかな表情で優しく撫でてやった。
「綾、俺も護りきれなくてごめんな」
元樹は、そんな綾花のもとに歩み寄ると、そっと彼女を抱き寄せる。
「綾花ちゃん、すまぬ。我としたことが、黒峯蓮馬ごときの策略にはまってしまった」
そう言うと同時に、拓也達に被さるのも気にせず、 昂も綾花に抱きついてきた。
いつもと変わらない、他愛ないやり取りーー。
その、ひとつひとつが、拓也には妙に心地よく感じられた。
「みんな、ただいま」
拓也達に抱きつかれながらも、綾花が輝くような笑顔を浮かべるのを目撃して、拓也は照れくさそうに、そして付け加えるように言った。
「お帰り、綾花」
「うん。ただいま、たっくん」
そわそわとツインテールを揺らして花咲くようににっこりと笑う綾花を見て、拓也も胸に滲みるように安堵の表情を浮かべてみせるのだった。
玄の父親は書斎に戻ると、机の上に置かれていたアルバムに視線を向ける。
そこには、昂によって奪われたアルバムの内容と寸分変わらない写真が貼られていた。
秘密の宝物を持ってきたかのような浮き立ち方で、玄の父親は新たな写真をアルバムに収めると、今度はそれを至福の笑みを浮かべながらじっと眺めた。
去年のーー中学校の文化祭の歌の発表会で、麻白が後ろ手を組んだまま、緊張した様子で立っている写真。
「麻白がいる世界がーー私達家族が望む未来だ」
家族だけのかけがえのない宝物を見つめながら、玄の父親は心の底からの幸せを噛みしめていたのだった。




