番外編第五十五章 根本的に走り出している未来
玄の父親の策略によって、ボーカルスクールの事務所から、綾花が連れさらわれた後、拓也と元樹は事務所のスタッフ達によって、事務所内にある個室に閉じ込められていた。
個室には、鍵がかかっており、窓もない。
その際、食べ損ねてしまった昼食は、事務所のスタッフ達が、拓也達を個室に閉じ込める前に料理を準備してくれた。
だが、この個室内では、携帯の電波が繋がらないようにされているのか、昂の母親達、そして、肝心の綾花とは連絡を取ることは出来なかった。
拓也は元樹に視線を向けると、顔を曇らせて言った。
「元樹、これからどうする?」
「今回、舞波に、ある重大なことを頼んでいる。とりあえず、舞波がそれをおこなったら、この場から離脱しようと思う」
「…‥…‥重大なこと?」
予想外の元樹の言葉に、拓也は少し意表を突かれる。
元樹はつかつかと近寄ってきて、拓也の隣に立つと、ぎりぎり聞こえるくらいの小さな声で言った。
「ああ。前もって舞波に、事務所内にある『火災報知器』を押してほしいと頼んでおいたんだ。今回、麻白のマネージャーの人が、黒峯玄の父親と繋がっている可能性があったからな。この事務所内から逃げ出すためには、火災の混乱に生じて抜け出すしかないと思ったんだよな」
「つまり、偽の火災の混乱に混じって、ここから抜け出すつもりなのか?」
呆気に取られた拓也にそう言われても、元樹は気にすることもなくあっさりとした表情で言葉を続けた。
「ああ。綾が連れさらわれた上に、この個室に閉じ込められた以上、この方法しかないと思う」
元樹は拓也の方へ視線だけ向けて、世間話でもするような口調で言った。
「だが、俺達がここから脱出できたとしても、黒峯玄の父親はありとあらゆる手段を用いて、麻白の姿をした綾を自身のもとに留めようとしてくるだろう。まさに、俺達の思いもよらない方法でな」
「くっ…‥…‥。何とかして、綾花を助けないと」
心苦しげな拓也の言葉を受けて、感情を抑えた声で、元樹は淡々と続ける。
「今、先生が警備員に扮して、黒峯玄の父親達と行動をともにしているはずだ。とりあえず、ここから脱出したら、舞波のおばさんと合流して、綾の行方を探ろう」
「わ、分かった」
断固とした意思を強い眼差しにこめて、はっきりと言い切った元樹に、拓也は戸惑いながらも頷いてみせた。
そして、苦々しい表情で、拓也はばつが悪そうに周囲を見渡す。
確かに、この場から離脱するためには、魔術を使える舞波と合流する必要がある。
舞波が事務所内にある火災報知器を押すことが出来れば、俺達は避難のために、ここから出してもらえるかもしれない。
咄嗟にそう判断した拓也が、元樹に何かを告げる前にーー
『火事です!』
火災報知器から、声と警報音が鳴り響いた。
そして、まるで見計らったように、昂は拓也達のいる部屋のドアを、魔術で壊して入ってくる。
「ひいっ!は、話を聞いてほしいのだ!か、火事ではないか?今すぐ、我を見逃してほしい!」
「君が勝手に、部屋の前にある火災報知器を押した後、いきなり、部屋のドアを壊したからだろう!」
「我には、この事務所内にある、火災報知器というものを、すべてコンプリートする必要性があるのだ!」
昂が、自分を追ってきた事務所のスタッフ達と口論を始める中、いつのまにか、室内だけではなく、事務所内全体にけたたましい警報音が鳴り響いていた。
拓也と元樹は、うんざりとした顔で冷めた視線を昂に向ける。
「…‥…‥とりあえず、逃げられる状況下にはなったな」
「ああ。いろいろと、問題は山積みだけどな」
拓也が呆れたような表情で一息に言い切ると、元樹は個室の外に出て、ようやく使えるようになった携帯を見ながら、鋭く目を細めたのだった。
「ううっ…‥…‥」
拓也達が何とか、昂と合流を果たした頃ーー。
麻白の部屋で、妙に感情を込めて唸る綾花の姿があった。
用意されていた服に着替えた後、綾花は頭を悩ませるようにベットに寝転ぶと、枕元に置いている、元樹から手渡された携帯をぎゅっと抱きしめる。
麻白の部屋は、想像を裏切らず、豪華な部屋だった。
淡い水玉模様に統一したカーテンと大きなベット、そして、丸いガラステーブルには、麻白が以前、玄と大輝と一緒に撮ったと思われる写真立てが置かれてある。
一人で見るのはもったいないほどの壁掛けの大型のテレビに、壁には、先程まで綾花が着ていた服とポーチがかけられていた。
いつもと変わりない麻白の部屋。
だけど、綾花にとっては、見知らぬ豪華な部屋だ。
なのに、不思議と綾花は、この部屋にいると心が落ち着いてしまう。
原因はなんとなく、綾花にも察しがついていた。
自分には、進としての心以外にも、麻白の心が宿っているからだ。
だから、麻白の部屋にいると、まるで自分の部屋にいるような感覚に陥ってしまうのだろう。
綾花としての心だけではなくて、進としての心もある。
そして、麻白の心が宿っている。
それは、にわかには信じられない状況だ。
だけど、今の綾花には、それがまるで当たり前のことになってしまっているのだ。
「私は…‥…‥俺は…‥…‥あたしはどうしたらいいんだろう」
その矛盾した心を誤魔化すように、ベットから起き上がった綾花はどこか寂しげにつぶやいた。
その時、部屋がノックされて、玄の父親に雇われているメイドと警備員の人達が入ってきた。
「麻白お嬢様、お着替えはお済みですね。夕食の準備は整っております」
「…‥…‥う、うん」
メイドの言葉に、綾花は少し困ったようにこくりと頷く。
ただ、麻白の心が宿っていても、『お嬢様』と呼ばれることに関してだけは、到底、慣れそうになかった。
ーーその時だった。
綾花に付き添っていた警備員の一人が、綾花にだけ聞こえる声で静かに告げた。
「…‥…‥瀬生、今すぐ、『対象の相手の姿を変えられる』パワーアップバージョンの魔術を使ってほしい。どうやら、黒峯さんは夕食の後に、瀬生に麻白としての記憶を施そうとしているようだからな」
「あっ…‥…‥」
その声を聞いた瞬間、綾花が溢れそうな涙を必死に堪え、その人物の顔を見上げた。
「その後のことは、私に任せてほしい」
「…‥…‥う、うんーーいや、ああ。先生、ありがとうな」
きっぱりと告げられた心強い言葉に、口振りを変えた綾花は滲んだ涙を必死に堪える。
綾花に付き添っていた人物ーーそれは、警備員に扮して綾花を救出する機会を窺っていた1年C組の担任だった。




