番外編第五十四章 根本的に紡いだ想いの数だけ、彼女は知る
「…‥…‥くっ、まずいな」
絶望的な状況に、周囲を見渡していた元樹は悔やむように唇を噛みしめる。
ーー完全にやられた。
恐らく、今回の綾のーー麻白の主題歌オーディションの合格は、俺達をここに呼び寄せるための巧妙な罠だったのだろう。
何故なら、この事務所は、黒峯玄の父親の会社に属する事業所そのものだったからだ。
恐らく、二次審査をおこなう会場よりは綾を手に入れやすいと踏んで、あえて綾をーー麻白を一次審査のみで合格させて、俺達をこの事務所に呼び寄せたのだろう。
「まさか、黒峯玄の父親の本当の目的は…‥…‥俺達全員をここに呼び寄せることだったのか?」
「正解です」
呆然とつぶやいた拓也は、背後から聞こえてきた冷たい声に、完全に反応が遅れた。
「しまっーー」
振り返る間もない。
足を払われた拓也は、一呼吸の間にうつ伏せに組み伏せられた。
慣れた手つきと、洗練された所作。
麻白のマネージャーは、明らかにこういった技術に精通している。
見れば、元樹も、拓也と同じように、別のスタッフ達によって、うつ伏せに組み伏せられていた。
「社長、お嬢様を」
「分かっている」
真剣な眼差しで玄の父親を見る麻白のマネージャーの声に応えるように、玄の父親は厳かな口調で、事務所のスタッフ達に指示をする。
「このまま、麻白を連れて家に戻る」
「かしこまりました」
その玄の父親の声を合図に、数名のスタッフ達が左右両方から綾花に迫ってくる。
そして、あっという間に囲まれた綾花は、彼らによってあっさりと捕らえられてしまう。
「ううっ…‥…‥たっくん、友樹!」
「「麻白!!」」
「さあ、麻白、帰ろう」
綾花の嘆き、そして、拓也と元樹の叫びをよそに、玄の父親は目を伏せると、静かにこう告げた。
「ーーま、麻白っ!」
「くそっ、麻白…‥…‥」
なおも綾花を助けだそうとするが、完全に麻白のマネージャーとスタッフ達に組み伏せられていて動けないことを悟り、拓也と元樹はがっくりとうなだれる。
歯噛みする拓也達に、麻白のマネージャーは声のトーンを変えて言った。
「そういえば、自己紹介がまだでしたね」
先程までの柔らかな調子はなりをひそめ、麻白のマネージャーは鬱々とした口調で続ける。
「私は、社長の秘書をしております、渡辺美里と申します。以後、お見知りおきを」
「渡辺、後のことは任せる」
「はい、社長」
玄の父親の言葉に、美里は満足そうに頷いた。
そして、周囲に目を配りつつ、玄の父親は厳かな口調で、先程のスタッフ達に再度、指示を告げる。
「それと、黒コートの少年が、事務所内をうろついているという情報があった。即急に、取り押さえていてくれないか。私は、麻白を連れて家に戻る」
「かしこまりました」
「たっくん、友樹ーーっ!!」
「「麻白ーーっ!!」」
拓也達の叫びを尻目に、あまりに自然かつ素早い反応をした玄の父親は一度、目を閉じると、嫌がる綾花の腕を掴んで、速やかにその場を後にした。
そして、玄の父親があらかじめ、用意していた車に無理やり、乗せられた綾花はーー
唐突に時間がーー飛ぶ。
暗転。
綾花が気がつくと、玄の父親は車の後部座席で眠らさせていた自分を抱きかかえようといた。
「麻白!」
「麻白、大丈夫か?」
「ーーっ」
聞き覚えのある二人の声が、綾花の意識を覚醒させた。
唐突な意識の覚醒に、綾花は勢いよく身体を起こす。
周囲を見渡すと、前に訪れた、玄の高級マンションのリビングのソファーに眠らされていたらしく、隣に座っていた玄と大輝が心配そうに綾花を見つめている。
綾花は眠気を振り払うようにふるふると首を振った後、前方の大型のテレビに視線を向けると、玄の父親が確信に満ちた顔で笑みを深めていた。
ーーあっ!
私、事務所に行った際に、黒峯くんのお父さん達に捕まったんだった。
あの後、車の中で眠らされて、ここに連れてこられてしまったみたいだけどーー。
そのことに気づいて、綾花は前もって、元樹から手渡されていた携帯を取り出す。
だが、綾花が、拓也達に連絡を取ろうとしても、拓也達が電波の届かない場所にいるせいなのか、一向に繋がらなかった。
そんな中、マンションの窓から見える夕焼けに染まる空をぼんやりと眺めながら、玄と大輝の瞳には、複雑な感情が渦巻いていた。
「麻白、すまない」
「拓達のところに連れていってやりたかったんだけど、これじゃな」
「ううん、玄、大輝、ありがとう」
玄と大輝の謝罪に、綾花は嬉しそうに小首を横に振る。
綾花は瞬きを繰り返しながら、直前までの出来事を思い出してつぶやいた。
「拓達はまだ、事務所にいるのかな?」
「…‥…‥分からない」
「…‥…‥そうなんだ」
玄の説明を聞きながら、綾花は不安そうに言う。
「拓達に会いたいな」
綾花は複雑そうな表情で視線を落とすと、熟考するように口を閉じる。
大輝はできるだけ適当さを感じさせない声で答えた。
「麻白、心配するなって。今は無理でも、すぐに会わせてやるからな」
「…‥…‥でも」
「…‥…‥でも?」
両手をぎゅっと握りしめていた綾花が、隣に座っている玄の言葉でさらに縮こまる。
綾花は躊躇うように不安げな顔で言葉を続けた。
「と、父さんは、あ、あたしをもう二度と、拓達に会わせてくれないと思う」
「…‥…‥っ」
今にも泣き出しそうな綾花の言葉に、玄は不意打ちを食らったように悲しみで胸が張り裂ける思いになる。
今までのように、麻白と拓達を会わせてやりたいーー。
そう恋い焦がれても、その代償はあまりにも大きすぎて間の当てられない現実を前に、玄は静かに目をつむった。
ーーその時だった。
「ーーま、麻白!」
「…‥…‥母さん」
リビングに入ってきた途端、玄と大輝の二人と会話をしていた綾花を見るなり、玄の母親は調度を蹴散らすようにして綾花の傍に走り寄ると、華奢なその体を思いきり抱きしめる。
あまりにも突然の出来事だったため、綾花はすぐには反応することができず、されるがままに抱き寄せられていた。
「…‥…‥麻白、麻白、おかえりなさい」
「…‥…‥ただいま、母さん」
玄の母親は綾花を抱きしめると、初めて花が綻ぶように無垢な笑顔を浮かべる。
そんな彼女の姿を、綾花は躊躇うように不安げな顔で見つめていた。
ーー黒峯くんのお母さん、ごめんなさい。
私には、麻白の心が宿っているけれど、やっぱり、たっくん達のところに、お父さんとお母さん、そして、父さんと母さんのところに帰りたいの。
でも、麻白は、黒峯くん達のそばにいたいと願っている。
複雑に乱れる気持ちは、言葉にならずに熱となって喉元にせり上げる。
綾花をぎゅっと抱きしめながら、涙をぽろぽろとこぼれ落ちす玄の母親の姿に、綾花はーー麻白の姿をした綾花はどうしたらいいのか分からず、胸が締めつけられるような気がした。
「…‥…‥はい。 私の方で一度、瀬生と接触してみようと思います」
そんな中、綾花も、玄の父親達も気づいていなかったのだが、リビングの近くの廊下から、そんな彼らの様子を探るように聞き耳を立てている男性がいた。
彼はーー警備員に扮した1年C組の担任は、昂の母親と度々、連絡を取り合いながら、綾花と、事務所内に閉じ込められてしまった拓也達を救い出すための手立てを考えていたのだった。




