番外編第五十三章 根本的に探さなくてもここにいる
「ううっ…‥…‥」
その日、麻白の姿をした綾花は困り果てたように、横断歩道の前で立ち往生していた。
玄の父親の手によって、綾花がーー麻白が二次審査を受けずに、主題歌オーディションに合格した後ーー。
綾花は、これからオンラインバトルゲーム『チェイン・リンケージ4』の主題歌を歌うまでの麻白を担当するマネージャーと顔合わせするために、事務所に向かっていた。
「私、今日から、麻白として、事務所でレッスンを受けるんだよね 」
それを何度か繰り返した後、綾花がぽつりとそう言った。
「心配するな、綾花」
「えっ?」
ため息とともにそう切り出した拓也に、綾花は目をぱちくりと瞬いた。
「俺と元樹の方で、ちゃんとフォローする。だから、大丈夫だ」
「…‥…‥うん」
こともなげに告げる拓也のその言葉を聞いて、綾花は嬉しそうに柔らかな笑みをこぼす。
「ありがとう、たっくん」
「…‥…‥あ、ああ」
この上なく嬉しそうに笑う綾花をよそに、背後に人の気配を感じて、思わず振り返った拓也は苦り切った顔をして額に手を当てる。
そこには、黒コートに身を包んだ少年ーー昂が電柱の陰に隠れながら、拓也達のことをじっと見つめていたからだ。
昂は今回も、頭にはちまきを巻き、『麻白ちゃん、ラブ』と書かれたタスキを掲げて、麻白の熱狂的なファンに扮していた。
しかも、『麻白ちゃん、オンラインバトルゲーム『チェイン・リンケージ4』の主題歌、頑張ってほしい』という、特大のぼりまで持っている。
あまりにも怪しすぎて、近くにいた通行人達から思いっきり冷めた眼差しを向けられ、電柱自体が必然的に避けられていたのにも関わらず、昂は当然のようにふんぞり返っていた。
何故、こいつは、いつもこんな目立つ格好で、当たり前のように、俺達を尾行しているのだろうかーー。
しかし、事務所であるボーカルスクールにたどり着いた拓也は、その疑問を早々に封印した。
何故なら、それを考え始めても、この状況に対して似たような疑問が次々と沸いてくるだけなのは明らかだと気づいたからだ。
そんなことになれば、きりがない。
それに、そのことを舞波に問いただしたら、まず、話がややこしくなるのが目に見えているので、ここはあえて突っ込まない方がいいだろう。
しみじみと感慨深く拓也が物思いに耽っていると、不意に元樹が少し真剣な顔で声をかけた。
「拓也、どう思う?」
「な、何がだ?」
「黒峯玄の父親のことだ」
一瞬、昂の謎の行動に対して、突っ込んでいたことが見抜かれたのかと思って驚いた拓也は、続けられた元樹の言葉に真顔に戻る。
「黒峯玄の父親の目的は、綾を麻白にすることだ。仮に、綾を手に入れたいだけなら、そのまま、二次審査に持ち越せばいいだけの話だ。わざわざ、二次審査を受けさせずに、綾を主題歌オーディションに合格させる必要はないよな」
「元樹、どういうことだ?」
元樹の思いもよらない言葉に、拓也は不意をうたれように目を瞬く。
戸惑う拓也に、元樹は深々とため息をついて続ける。
「恐らく、綾をーー麻白を、主題歌オーディションに合格させることによって、黒峯玄の父親にとって、何かしらの有益な目的が果たせられるのかもしれない」
「目的?」
やや驚いたように首を傾げた拓也に、どうにも腑に落ちない元樹がさらに口を開こうとしたところで、拓也達のところにやって来た綾花がおずおずと声をかけてきた。
「ねえ、たっくん、元樹くん。前の大会の時に、黒峯くん達から聞いたんだけど、麻白は歌を歌うことが好きだったみたいなの。だから、黒峯くんのお父さんは、麻白の願いを叶えようとしているんじゃないかな」
「確かにな。でも、麻白のマネージャーのことといい、それだけじゃないような気がする」
そのとらえどころのない玄の父親の行動の不可解さに、元樹は思考を走らせる。
咄嗟に、拓也が思い出したように口を開いた。
「そういえば、綾花のーー麻白のマネージャーの人と、もう一人の合格者の人のマネージャーの人は違っていたな」
「ああ。もしかしたら、綾のーー麻白のマネージャーを担当する人は、黒峯玄の父親に通じている人物なのかもしれない」
「ーーっ」
「…‥…‥ううっ」
きっぱりと告げられた元樹の言葉に、拓也が眉をはねあげ、綾花は驚きの表情を浮かべた後、すぐにみるみる眉を下げて表情を曇らせた。
「今回の麻白の主題歌オーディションの合格には、まだ何か秘密があるのかもしれないな」
「…‥…‥秘密」
顎に手を当てて断言してみせた元樹に、俯いていた綾花が微かに肩を震わせたのだった。
「あなたが、黒峯麻白さん?」
「は、はい」
綾花達が事務所に入ると、受付の前に立っていた一人の女性が柔らかな笑みを浮かべてこうつぶやいた。
「お父様からお話は聞いていたのだけど、いろいろと大変だったみたいね」
「えっ?…‥…‥は、はい」
その微妙な言い方に、綾花は分からないなりにとりあえず頷いてみせた。
「だいたいの事情は聞いているから、何か困ったことがあったら、いつでも相談してくださいね」
「あ、ありがとうございます」
黒峯くんのお父さん、どんな説明をしたのかな?
疑問に思いながらも、綾花があたふたしながら頭を下げると、麻白を担当するマネージャーはにっこりと穏やかに微笑みながら、事務所内へと入っていく。
「綾花」
麻白のマネージャーに連れられて、事務所内を歩いていた拓也が、そんな綾花に対して小声で呼びかけた。
「何か困ったことがあったら、すぐに駆けつけるからな。黒峯玄の父親には、綾花を渡さない」
「ああ。綾は、俺達で必ず、護ってみせる」
「あっ…‥…‥」
拓也と元樹の言葉に、綾花は口に手を当てると思わず唖然として拓也達の方を振り返った。
気まずそうに視線をそらした拓也に、不意をつかれたような顔をした後、綾花は穏やかに微笑んだ。
「うん、ありがとう。たっくん、元樹くん」
「ああ」
「心配するなよ、綾」
独り言のようにつぶやいた拓也と、てらいもなく頷いた元樹を見て、綾花ははにかむように微笑んでそっと俯く。
目的の場所であるレッスン場にたどり着くと、麻白のマネージャーは一度、レッスン場内を見渡した後、綾花達の方へと向き直る。そして、率直にこう告げた。
「ここが、麻白さん専用のレッスン場になります」
「そうなんですね」
これから始まるレッスンとレコーディングに、綾花が嬉しそうに心を踊らせていると、不意に拓也は不思議そうにつぶやいた。
「綾花ーーいや、麻白専用のレッスン場なんておかしいな」
「ああ。他に誰もいないなんて、やっぱり、妙だよな」
元樹の補足に、拓也は顎に手を当てると思案するように視線を逸らす。
これだけ広いレッスン場なら、もう一人の合格者の人と合同にしてもいいはずだ。
それをしないということは、麻白のマネージャーを担当するこの人は、やっぱり、元樹の言うとおり、黒峯玄の父親に通じている人物なのかもしれないーー。
そんな拓也の疑心を尻目に、綾花はレッスン場の奥に視線を向けると、心底困惑したように言った。
「…‥…‥くろーーううん、と、父さん!」
「「ーーなっ!?」」
綾花の言葉に、拓也達は明確な異変を目の当たりにする。
そこにはーー綾花達の驚愕に応えるように、玄の父親が嗜虐的な笑みを浮かべて立っていた。そして、その隣には、先程、遭遇した受付のスタッフとともに、この事務所のプロデューサーらしき人物と他のスタッフ達が立っている。
もしかしたら、麻白のマネージャーを担当する人は、黒峯玄の父親に通じている人物なのかもしれないーー。
元樹の予想は、悪い方向に裏切られた。
マネージャーだけじゃない。
このボーカルスクールの事務所自体が、黒峯玄の父親の会社に属する事業所そのものだ。
「ーーっ」
「…‥…‥さあ、麻白を返してもらおうか?」
無感情な玄の父親の声が、綾花達の耳朶に否応なく突き刺さったのだった。




