番外編第五十一章 根本的に夏の終わりは世界の始まりに似ている
「ううっ…‥…‥」
二学期の始業式の日、自分の部屋で、妙に感情を込めて唸る綾花の姿があった。オンラインバトルゲーム『チェイン・リンケージ4』の主題歌オーディションの一次審査の結果を見ようと、恐る恐る携帯に手を伸ばすのだが、すぐに思い止まったように手を引っ込めてしまう。
起きたばかりなのか、綾花はフリルのネグリジェを着ていた。
「今日は、主題歌オーディションの一次審査の結果発表なんだよね」
それを何度か繰り返した後、綾花がぽつりとそう言った。
玄の父親が、あかり達に危害を加えるのを避けるために、綾花は元樹が提案したとおり、オンラインバトルゲーム『チェイン・リンケージ4』の主題歌オーディションの一次審査締切前に、麻白の名前で書類を送った。
綾花としては、今回の主題歌オーディションで、少しでも玄の父親の目があかり達から遠ざかればいいなと思っている。
「ううっ~」
頭を悩ませるように、綾花はベットに寝転ぶと枕元に置いているペンギンのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめる。
「ペンギンさん、きっと大丈夫だよね」
独り言のようにぽつりとつぶやくと、綾花は立ち上がり、ペンギンのぬいぐるみを抱きかかえたまま、どこか切なげな表情で窓の外を眺めていた。
そうしてようやく、何度目かの躊躇いの後、綾花は携帯の電源を入れて、オンラインバトルゲーム『チェイン・リンケージ4』の主題歌オーディションの一次審査のことをネット上で検索してみる。そして、表示された一次審査の通過者達の名前を見始めた。
「…‥…‥ううっ、み、みんな、すごくうまそう」
綾花は携帯を見ながら、決まりの悪さを堪えるように口元に手を押さえて言う。
「…‥…‥あっ」
だが、探しても探しても、麻白の名前が見つからず、少し涙目になっていた綾花だったが、やがて、一番下の欄に書かれていた名前に弾かれたように顔を上げる。
そこには、他の一次審査通過者達に混じって、『黒峯麻白』の名前がしっかりと書かれていたのだった。
「通過している」
無事に一次審査を通過したことを知った綾花は、嬉しくなってぱあっと顔を輝かせた。
目の色を変え、綾花は何度も何度も、その一文を読み返す。
その時、不意に綾花の携帯が鳴った。
綾花が携帯を確認すると、拓也からのメールの着信があった。
『綾花、主題歌オーディションの一次審査通過、おめでとう』
拓也らしいシンプルな内容に、綾花はほのかに頬を赤くし、穏やかに微笑んだ。
だが再度、受信されてきた、もう一つの拓也のメールを見て、綾花はさらに、顔を桜色に染めてしまう。
『二次審査、一緒に頑張ろうな。綾花、大好きだ』
「…‥…‥うん、私もたっくん、大好きだよ」
綾花は顔を赤らめながら、両手を胸に当てると、この上なく嬉しそうに笑ったのだった。
「綾花ちゃん、我は夏休みの間、夏休みの宿題と課題集を頑張ったのだが、見事にどちらも終わらなかったのだ。しかし、不正はしていなかったということを考慮されて、補習だけは何とか免れたのだ。これは、補習回避祝いのプレゼントだ」
「ありがとう、舞波くん」
一緒に登校した後、拓也と綾花が自分の教室に入ろうとしていると、先程、一学年の教室に行くため、別れたばかりの昂がご機嫌な様子で戻って来て、持っていたプレゼントが入った紙袋を綾花に手渡してきた。
自分の補習が回避されたというのに綾花にプレゼントを手渡してくるという、何かにつけて綾花に絡んでくる昂の様子を見て、拓也がむっと顔を曇らせる。
しかし、昂は何食わぬ顔で立て続けにこう言ってのけた。
「綾花ちゃんがーー麻白ちゃんが、オンラインバトルゲーム『チェイン・リンケージ4』の主題歌オーディションの一次審査を通過したことに対して、そして、我の補習回避へと大きく貢献したことに感謝の意を込めて、我から綾花ちゃんへの素晴らしいプレゼントだ。間違いなく、綾花ちゃんにーーそして、麻白ちゃんにとって、満足の域に達する一品だろう」
「そうなんだ」
傲岸不遜な昂の言葉に、綾花は口元に手を当ててにっこりと花咲くような笑みを浮かべた。
そんな綾花と昂のやり取りを見遣ると、拓也は警戒心をあらわにして訊いた。
「また、ペンギンが出てくるゲームとか、変な魔術道具じゃないだろうな?」
「むっ、否!今回は、ゲームや魔術道具ではない!」
昂が力強くそう力説すると、拓也は訝しげに眉根を寄せる。
「ゲームや魔術道具ではない?」
「うむ。しかし、ゲームや魔術道具ではないが、まさに綾花ちゃんのーー否、麻白ちゃんのためにあるようなものだ」
麻白のためにあるというフレーズに、拓也は明確に表情を波立たせた。
綾花ではなく、上岡ではなく、雅山でもなく、何故か麻白の名前を、あえて昂は念押しする。
その、どうしようもなく不安を煽る昂の態度に、拓也は焦りと焦燥感を抑えることができずにいた。
拓也は迷いを振り払うように首を横に振ると、再度、昂にプレゼントのことを尋ねようとして、
「おっ? 綾、また、舞波から、ゲームをもらったのか?」
と、聞き覚えのある意外な声に遮られた。
その声に意表を突かれて、拓也は思わず綾花が持っているプレゼントが入った紙袋を興味深そうに見つめていた元樹へと視線を向けた。
頭を悩ませながらも、拓也はとっさに浮かんだ言葉を口にする。
「いや、今回は、ゲームや魔術道具ではないみたいだ」
「そうなのか?」
「ああ。何でも、麻白に関連したものらしい」
やや驚いたように振り向いた元樹に、どうにも腑に落ちない拓也がさらに口を開こうとしたところで、綾花がおずおずと声をかけてきた。
「ねえ、たっくん。…‥…‥開けてみてもいい?」
先程までの緊迫した空気などどこ吹く風で、今か今かと了承の言葉を待っている綾花に、拓也は思わず顔をゆるめていつものように優しく頭を撫でる。
「ああ」
「ありがとう、たっくん」
綾花はほんの少しくすぐったそうな顔をしてから、幸せそうにはにかんだ。
そして、持っている白い紙袋から、この間の昂のクラスメイトに変装した時の綾花の写真と、アルバムのようなものを取り出す。
「…‥…‥写真とアルバム?」
綾花が不思議そうに小首を傾げていると、元樹が付け加えるようにぼそりとつぶやく。
「…‥…‥魔術道具とかじゃなくて、普通のアルバムだよな」
「…‥…‥うん、多分」
そう言っておそるおそるアルバムを開いてみた途端、綾花達は目を見開き、みるみるうちに驚きの表情を浮かべた。
えんじ色のアルバム。
そこには、幼き日の麻白の写真がずらりと貼られていた。
小学校の校舎裏で、ランドセルを背負った麻白がしょんぼりとうなだれている姿。
大輝の言葉に、落ち込んでいた麻白が立ち上がり、少し拗ねた表情で言い返している姿。
自然公園のアスレチック広場で、幼い玄と麻白が遊んでいる姿。
麻白が無邪気に笑いながら、玄からもらった白いリボンをつけて喜んでいる姿。
綾花達の知らない幼い頃の麻白の写真が、そこにはいっぱい詰まっていた。
そして、綾花達は、同時に思い知らされる。
麻白はもう、綾花の心に宿っているということを。
進やあかりとは違って、麻白は、綾花が応えてくれなくては、自分一人の力では何もできないということを。
だからこそ、玄の父親は、綾花を麻白にしようと躍起になっているのだろう。
少し困ったような表情を浮かべ、顔を伏せた綾花の様子を見かねた拓也が、抑揚のない口調で言った。
「なんだ、これは?」
「我のクラスメイトに変装した時の綾花ちゃんの秘蔵写真と、麻白ちゃんのアルバムだ」
あっさりと昂にそう言い捨てられ、拓也は鋭く目を細めた。
「だから、何故、綾花の写真と麻白のアルバムがあるんだ?」
昂の涼しげな表情が腹立たしくて、拓也はもう一度、同じ疑問を口にした。
「むっ?綾花ちゃんがーー麻白ちゃんが、オンラインバトルゲーム『チェイン・リンケージ4』の主題歌オーディションを受けるのであろう。ならば、今回も綾花ちゃんは、我のクラスメイトに変装する必要性がある。そして、麻白ちゃんのことを、もう少し知る必要があるのではないかと思い、こうして麻白ちゃんの写真を集めてきただけだ。気にするな」
「はあっ?」
その思いもよらない言葉は、昂から当たり前のように発せられた。
まるで、夏休みの間、夏休みの宿題と課題集をせずに、麻白の写真を集めていたような昂の言い種に、拓也は思わず不審そうに眉をひそめる。
すると、何故か不本意そうに頷き、わざとらしく咳払いして、昂は苦悶の表情を浮かべながら決まり悪そうに叫んだ。
「なんだ、その目はっ!!誤解するな!我は夏休みの間、夏休みの宿題と課題集をしながら、母上の隙を見て、麻白ちゃんの写真を集める旅に出たりしていたのだ!下種の勘ぐりはよせ!」
「…‥…‥いや、何も言っていないだろう」
不愉快そうに言うと、それから拓也はちらりと昂を見て、そして綾花に視線を移した。
「…‥…‥はあっ。そろそろ、教室に入るぞ、綾花」
「えっ?」
「ーーなっ!?」
きょとんとする綾花を尻目に、昂はそれまでの余裕綽々な態度を一変させて表情を凍らせた。
「何故だ!?」
昂が非難の眼差しを向けると、拓也はきっぱりと言い放った。
「決まっているだろう!もうすぐ、始業式が始まるからに決まっている!」
「まだ良いではーー」
ないか。そう続くのだと予想して、拓也は昂の台詞を先回りするように言う。
「行くぞ、綾花」
「…‥…‥あっ、うん」
「はあっ…‥…‥。舞波って、ホントに変なことばかり考えるよな」
「あっーー!!待て!!」
後から追ってきた昂を振り払うかのようにして、拓也は呆気に取られている元樹と一緒に、戸惑う綾花の手を取って足早に教室に入ったのだった。
「おはよう、綾花」
「わあーい、綾花だ~」
「ふ、ふわわっ…‥…‥。ちょ、ちょっと、茉莉、亜夢」
綾花達が教室に入った瞬間、茉莉と亜夢が綾花に抱きついてきた。
「ちょっと聞いてよー!あっ、井上くんと布施くんもおはよう」
言いながら、茉莉は軽い調子で右手を軽く上げて拓也と元樹に挨拶する。
「…‥…‥ああ、おはよう」
「星原も、相変わらずだな」
顔をうつむかせて不服そうに言う拓也とやれやれと呆れたようにぼやく元樹の言葉にもさして気にした様子もなく、茉莉は興奮気味に話し始めた。
「ねえねえ、綾花。黒峯麻白さんって、知っている?」
「…‥…‥う、うん」
黒峯麻白、その単語が出た瞬間、綾花の表情があからさまに強ばった。
オンラインバトルゲーム『チェイン・リンケージ』の第二回、第三回公式トーナメント大会のチーム戦、優勝チーム『ラグナロック』のメンバーの一人である麻白の噂は、茉莉だけではなく、他の生徒達の注目をも集めていた。
「実は、黒峯麻白さん。オンラインバトルゲーム『チェイン・リンケージ4』の主題歌オーディションで、二次審査を受けずに一次審査だけで合格してしまったみたいなの。選出されるのは、オープニングを歌う人とエンディングを歌う人、それぞれ一名だけなのに、一次審査だけで合格なんてすごいよね!」
「黒峯麻白さん。一次審査だけで合格したんだ~!」
「なっーー」
綾花と茉莉と亜夢のやり取りを傍観していた拓也は、そこで到底聞き流せない言葉を耳にした気がして困惑した。
麻白が、オンラインバトルゲーム『チェイン・リンケージ4』の主題歌オーディションに一次審査だけで合格している…‥…‥?
そんな拓也の疑心を尻目に、茉莉は得意げに人差し指を立てると、さらに言葉を続ける。
「確か、えっと…‥…‥、黒峯麻白さんはエンディングを歌う…‥…‥んだったかな」
少し戸惑いながらも当然のように告げられた茉莉の言葉に、緊張した空気がさらに張り詰める。
拓也と元樹ーーそして、当の本人である綾花でさえ、茉莉に言葉を返すことができなかった。
綾花達は始業のホームルーム開始のチャイムが鳴るまで、その場に立ち尽くすことしかできずにいた。




