番外編第五十章 根本的にどこまでも変わらない彼らの決意
「ーーついに、ついに、我が綾花ちゃんのところに行くチャンスが到来してしまったのだ」
綾花達が進の家に集まっている最中、肝心の昂は、リビングのドアに耳を当てながら昂の母親の様子を探るため、こそこそと聞き耳を立てていた。
昂の母親が先程、電話がかかってきた昂の父親と、何やら深刻そうな表情でやり取りをしているのを確認した瞬間、昂はなんとも幸せそうな表情を浮かべる。
「なるほどな。母上が父上と話している間が、まさに、ここから逃げるチャンスだったとは、我としたことが迂闊だった」
こみ上げてくる喜びを抑えきれず、昂はにんまりとほくそ笑む。
そして、早速、自分の部屋に戻ると、昂は以前、購入した本の表紙を見つめながら拳を震わせて興奮した口調で言った。
「これで今度こそ、我は綾花ちゃんと一緒に夏休みを満喫できるはずだ!」
得意げにぐっと拳を握り、天に突き出して、昂は誰かに宣言するかのように高らかに言い放った。知らず知らずのうちに胸が湧き踊る。
カラフルな表紙には、青い色のファンシーな文字で『保存版!困った時に役立つデートプラン&デートスポットのまとめ』と書かれてある。
それは前に、昂が綾花と自然公園に遊びに行った時にあらかじめ、購入したものであり、ありとあらゆるデートプランがずらりと書かれていたのだ。
昂は本に向かって無造作に片手を伸ばすと、抑揚のない声できっぱりと告げた。
「そして、綾花ちゃんは我の彼女にーー否、我の将来の結婚相手となりうるであろう!」
昂の視線はすでに目の前の本を突き抜けて、教会の下、タキシード姿の自分とウェディングドレス姿の綾花との結婚式の想像図へと飛んで行ってしまっていた。
相変わらず、昂の行動原理はかくも難解で、時に過激ではあったが、昂の恋愛感覚は、何故か存外しっかりしていた。
だが、昂は『夏のデートスポット』の特集ページをめくると、不満そうに眉をひそめてみせる。
「しかし、我は泳げないのだ。綾花ちゃんの水着姿を見たいとはいえ、海に行くのは、いささか難しいな」
「…‥…‥ほう、それで」
昂が不服そうに機嫌を損ねていると、唐突に誰かが大した問題ではないように至って真面目にそう言ってのける。
聞き覚えのある声に、昂はおそるおそる声がした方を振り返った。
「…‥…‥は、母上」
「…‥…‥昂、夏休みの宿題と課題集をサボって、何処に行こうとしていたんだい。まさか、また、瀬生さんのマンションに行こうとしていたとは言わないだろうね」
全身から怒気を放ちながら、昂の母親は昂を睨みすえる。その声はいっそ優しく響いた。
「ひいっ!は、母上、話を聞いてほしいのだ!我は、あと残りわずかの夏休みを、夏休みの宿題と課題集などで明け暮れるのではなく、たまには、綾花ちゃんと一緒にデートしたりして、夏休みを有効活用するべきではないかと考えたまでだ。我は、その、綾花ちゃんに会いたくて、仕方なくーー」
昂は恐怖のあまり、総毛立った。ふるふると恐ろしげに首を振る。
「夏休みは先生から頂いた夏休みの宿題と課題集、それが終わるまでは外出禁止だよ!」
「母上、あんまりではないか~!」
昂の母親が確定事項として淡々と告げると、昂が悲愴な表情で訴えかけるように昂の母親を見る。
そのタイミングで、昂の母親が軽く言った。
「…‥…‥と、言いたいんだけどね」
「むっ?」
「昂、大変なことになってしまったみたいなんだよね」
昂が怪訝そうに首を傾げていると、昂の母親は意を決したように昂の方を振り向くと、神妙な面持ちで話し始めた。
「黒峯さんが、黒峯さんの息子さん達を雅山さんのお兄さんがいる高校に転校させようしているみたいなんだよ」
「あかりちゃんの兄上の高校に転校させるだと!」
探りを入れるような昂の母親の言葉に、口に出しながら昂の思考は急速展開する。
そこで昂は何故、玄の父親が、玄達をあかりの兄がいる高校に転校させようとしているのか事情を察知した。
思い至ると同時に、昂はまるで自嘲するようにせせら笑った。
「なるほど、黒峯蓮馬め。綾花ちゃんがーー進が度々、憑依しているあかりちゃんを狙ってきたのだな?」
「恐らく、黒峯さんは、瀬生さんがーー進くんが、雅山さんに憑依していることを知っているんだろうね」
昂の疑問を受けて、昂の母親は額に手を当ててため息をつくと朗らかにこう言った。
「うむ。まさに、緊急事態ではないか!母上、このようなことをしている場合ではないのだ!我は今すぐ、綾花ちゃんに会いに行かねばーー」
「その必要はないよ」
昂の台詞を遮って、昂の母親が先回りするようにさらりとした口調で言った。
その、まるで当たり前のように飛び出した意外な発言に、さしもの昂も微かに目を見開き、ぐっと言葉に詰まらせた。
だが、次の思いもよらない昂の母親の言葉によって、昂はさらに不意を打たれ、驚きで目を瞬くことになる。
あっけらかんとした表情を浮かべた昂に対して、昂の母親は至って真面目にこう言ってのけたのだ。
「実は先程、布施くんに、そのことを連絡したんだけどね」
「むっ?」
そう前置きして、昂の母親から語られたのは、昂の想像を絶する内容だった。
昂が、昂の母親から今回の件を聞かされる前ーーまだ、昂がしぶとく、家から逃げ出す算段を考えていた頃、綾花達は人知れず、思い悩んでいた。
何故なら、昂の母親から、玄の父親が玄と大輝を、あかりの兄がいる高校に転校させようとしているという緊急の連絡があったからだ。
「やっぱり、これって、俺があかりに度々、憑依していることを知っているんだよな」
「ああ、間違いないだろうな」
綾花が困ったような表情で一息に言い切ると、元樹は鋭く目を細めた。
「元樹、どうする?」
「そのことなんだが」
拓也が戸惑ったように訊くと、元樹は静かにそう告げて、顎に手を当てて真剣な表情で思案し始める。
玄の父親は、綾がーー上岡が、雅山に憑依していることを知っている。
そして、舞波が通っている高校を訪れたこともあった。
恐らく、舞波が通っている高校ではなく、雅山の兄が通っている高校を選んだのは、魔術を使っても、距離的に、俺達が容易に手出しできないのを踏まえてのことだろう。
「玄と大輝が、雅山達に手を出してくることはないだろう。問題は、黒峯玄の父親達の方だ」
沈みかけた思考から顔を上げ、現実につぶやいた元樹は、改めて、盛り上がるゲーム画面に視線を向ける。
「こうなったら、黒峯玄の父親達には、雅山達ではなく、別のことに注目してもらおうと思う」
「なっ!」
呆気に取られた拓也にそう言われても、元樹は気にすることもなくあっさりとした表情で言葉を続けた。
「黒峯玄の父親達にとって、到底、無視できないことが起これば、すぐには、雅山達に手を出してこないだろう」
「到底、無視できないこと?」
「ああ」
訝しげな拓也の問いかけに、元樹は迷いなく断言する。
「製作が難航している、オンラインバトルゲーム『チェイン・リンケージ4』ーー、その最新作の主題歌オーディションに、麻白の姿をした綾を参加させようと思う」
「なっーー」
「オーディションに?」
元樹が客観的方法を提案してきた事実よりも、その方法を提案してきたということに、拓也と綾花は衝撃を受けた。
黒峯玄の父親の目的は、綾花を麻白にすることだ。
麻白の姿をした綾花が、オンラインバトルゲーム『チェイン・リンケージ4』の主題歌オーディションを受けるということは、黒峯玄の父親が再び、綾花に危害を加える可能性が増すことに繋がるのではないだろうかーー。
拓也の思考を読み取ったように、元樹は静かに続けた。
「…‥…‥心配するなよ、拓也、綾。麻白の姿をした綾が、主題歌オーディションを受けるとはいっても、実際には、綾は参加しない」
「参加しない?」
その理由を慎重に見定めて、拓也はあえて軽く言う。
「もしかして、『対象の相手の姿を変えられる』パワーアップバージョンの魔術を使うのか」
「ああ、そうすれば、綾が主題歌オーディションに参加しても、問題ないしな」
「なるほどな」
苦々しい表情で、拓也は隣に座っている綾花の方を見遣る。
実際、前回のオンラインバトルゲーム『チェイン・リンケージ』の第三回公式トーナメント大会のチーム戦では、綾花は麻白の姿をした綾花の分身体と入れ替わることで、黒峯玄の父親の追手からうまく逃れることができた。
確かに、麻白の姿をした綾花の分身体をオーディションに出場させることができれば、前のように綾花に危険が及ぶことはないだろう。
だが、すぐに思い出したように、拓也は元樹の方に向き直るとため息をついて付け加えた。
「でも、黒峯玄の父親のことだ。そう何度も、同じ手で乗りきるのは難しいんじゃないのか?それに、麻白の姿をした綾花の分身体は一日、一時間だけ、しかも、綾花の視界に入る範囲内でしか、綾花と違う言動をすることはできないだろう」
「ああ。だから、今回は敢えて、主題歌オーディションに参加させる麻白の姿をした綾の分身体は、突然の体調不調を装って辞退するかたちにしようと思っている」
「なっーー」
断固とした意思を強い眼差しにこめて、はっきりと言い切った元樹に、拓也は今度こそ目を見開いた。
咄嗟に、拓也が焦ったように言う。
「はあ?元樹、なに言っているんだ?」
「拓也も分かっているだろう?」
元樹の即座の切り返しに、拓也は元樹が何を告げようとしているのか悟ったように、ぐっと悔しそうに言葉を詰まらせる。
「今回の作戦次第では、黒峯玄の父親達が雅山に危害を加えるかもしれない。ならば、今のうちに麻白の姿をした綾の分身体に会わせて、雅山達ではなく、オンラインバトルゲーム『チェイン・リンケージ4』の主題歌オーディションに目を向けさせる必要があるんじゃないのか」
それにさ、と元樹は言葉を探しながら続けた。
「主題歌オーディションは、まず、一次審査で書類選考と音源選考がある。結果は、夏休みが終わった後ーー始業式に発表されるらしいが、確か、その審査員に黒峯玄の父親の名前も入っていたからな」
何のひねりもてらいもない。
そう思ったから口にしただけの言葉。
目を丸くし、驚きの表情を浮かべた拓也を見て、元樹は意味ありげに綾花に視線を向ける。
「…‥…‥布施」
綾花は、予想もしていなかった元樹の言葉に呆然としていた。
元樹は軽く息を吐くと、気まずそうに小首を傾げている綾花の前に立った。
「…‥…‥綾、今回も、すげえ不安にさせることを言ってしまってごめんな。だけど、俺も拓也と舞波と同じで、綾と雅山達がこれ以上、黒峯玄の父親の策略で傷つくのを見たくない」
「…‥…‥っ」
元樹の強い言葉に、綾花が断ち切れそうな声でつぶやく。
そんな綾花に、元樹は真剣な表情を収めて屈託なく笑うと意味ありげに続ける。
「心配するなよ、綾。主題歌オーディションに参加するといっても、一次審査は黒峯玄の父親の手によって、自動的に通過することになるだろうし、二次審査では辞退することになる。なら、ゲーム対談情報ラジオ『プレラジ』の時と同じように楽しまないか?」
「ゲーム対談情報ラジオ『プレラジ』の時のように?」
意外な提案に少し困惑気味な綾花に対して、元樹はあくまでも真剣な表情で頷いた。
「ああ、俺、綾と一緒にラジオ番組に出演した時、すげえ楽しかったからな」
「…‥…‥楽しむか」
憂いの帯びた元樹の声に、綾花もわずかに真剣さを含んだ調子で穏やかに言葉を紡ぐ。
垂直思考ではなく、水平思考への転換。
それは、無理に主題歌オーディションを受けるというのではなく、麻白の歌を玄の父親達に届けるというかたちにする。
元樹のその妙案に、綾花は思わず、頬を緩ませてしまう。
この方法を使えば、麻白の歌を再び、玄達、そして玄の父親達に伝えることができるかもしれない。
「…‥…‥思考方法そのものの転換か」
「琴音の歌、私も聞いてみたいな」
綾花が静かにそう告げて、顎に手を当てて真剣な表情で思案し始めると、傍観していた進の母親は予期していたようにくすりと笑った。そして人差し指を立てると、さらに言葉を続ける。
「でも、琴音、あまり無理はしないようにね」
「ああ。母さん、ありがとうな」
進の母親の何気ない励ましの言葉に、綾花は嬉しそうに笑ってみせたのだった。




