番外編第四十九章 根本的にどこまでも優しい家族の日常
綾花の住むマンションは最寄りの駅から少し歩いた先にある。
昂の家に寄った後、いつものようにオートロックを解除し、エレベーターで六階へと行くと、綾花はオンラインバトルゲーム『チェイン・リンケージ』の第三回公式トーナメント大会のチーム戦のことを思い出し、玄関のドアに向けてふにゃっと頬を緩めた。
「今日の大会、いろいろとあって大変だったけれど、玄と大輝と一緒に大会に出られて楽しかったな」
そうつぶやいた瞬間、いつものように麻白の想いが、綾花の脳内にぽつりと流れ込んでくる。
『あたし、玄と大輝にーー、父さんと母さんにまた、会いたい』
「うん、また、会いたい」
麻白の想いに誘われるように、綾花は嬉しそうに笑ってみせる。
「おかえりなさい、綾花」
「おかえり、綾花」
頭を振ってドアを開けると、母親の出迎えだけではなく、いつもは忙しくてこの時間帯にはいないはずの父親の姿があって、綾花は思わず少し戸惑った表情をみせてしまった。
「うん…‥…‥ただいま」
ぎこちなくそう応じる綾花の様子に目を瞬き、少しだけ首を傾げながら、綾花の母親は先を続ける。
「綾花。舞波さんから話を聞いたんだけど、今回も大変だったみたいね」
「…‥…‥う、うん。でも、きっと、黒峯くんのお父さんも、麻白に戻ってきてほしくて必死なんだと思うの」
指先をごにょごにょと重ね合わせ、たまらず視線をそらした綾花に、綾花の母親は問いかけるような瞳を綾花に向けていた。
「だけど、黒峯麻白さんの心が宿っているとは言っても、綾花は綾花でしょう」
「ううっ…‥…‥。それでも、私ーー麻白に、黒峯くん達を会わせてあげたい」
弱音のように吐かれた綾花の言葉に、綾花の父親は自分でもあまり気持ち良くないことを自覚しつつ、玄の父親を責めるように言う。
「黒峯さんは少し強引すぎるな」
「で、でも、それはきっと、本来の黒峯くんのお父さんが、どこまでも家族思いの人だったからだと思うの」
綾花の父親の言葉に、綾花が少し困ったようにはにかんでそう言った。
すると、綾花の母親は言いづらそうに、おずおずと言葉を続ける。
「私達にとって、綾花が大切な娘であるように、黒峯さんにとっても、黒峯麻白さんは大切な娘なのね」
「…‥…‥えっ?」
その言葉に、綾花は口に手を当てて思わず動揺した。
驚いた表情でじっと黙ったままの綾花に、綾花の父親はあえて軽く言った。
「ああ、そうだな。綾花は僕にとって、何よりも大切な娘だ」
「…‥…‥ありがとう。お父さん、お母さん」
文字どおり、四人分生きている娘を支えるため、すっかり生活が一変した綾花の父親は疲れたようにため息をつく。
しかし、穏やかな表情で胸を撫で下ろすいつもどおりの娘と妻の姿を見て、綾花の父親は胸に滲みるように温かな表情を浮かべていた。
それから、夕食を終えた後、しばらく綾花が今日の大会についてのことを、進としてのゲームへの熱い思いを馳せつつも綾花の両親に語っていたその時、玄関のインターホンが鳴った。
「誰だろう?こんな遅くに」
リビングのドアを開けて、玄関のテレビモニターをこそっと覗き見た綾花は驚きのあまり、ついぽかんと口を開けてしまった。あんぐりと開いた口から言葉が漏れる。
「えっ?舞波くん…‥…‥?」
玄関先にいたのは、何故か昂だった。
慌てて綾花はドアの施錠を解除し、玄関へと向かうとドアを開けて昂を出迎える。
「ど、どうしたの、まいーー」
「すまぬ、綾花ちゃん!」
驚きににじむ表情のまま、発せられた綾花の渾身の言葉は、同時に開いた昂に先んじられて掻き消える。
「我は今、母上に見張られながら、夏休みの宿題と課題集に追われている。だが、我一人の力では、夏休みまでに到底、終わりそうもないのだ。母上に見張られているため、前のように『我は分からぬ』にするわけにもいかぬゆえ、こうして綾花ちゃんに勉強を教えてもらおうと頼みに来たというわけだ」
綾花が態度で疑問を表明していると、昂が手を合わせて謝罪した。
「えっ?ええっ!?」
綾花はその言葉に愕然としたまま、床にぺたりと膝をついた。
「綾花?」
「綾花、誰か来たの?」
遅れて玄関先へとやってきた綾花の父親と母親の声を聞いた瞬間、綾花は戸惑うように揺れていた瞳を大きく見開いた。
そんな綾花を放置したまま、昂は容赦なく話を進めていった。
「綾花ちゃんのお父上、お母上!どうか、夏休みの間、我に綾花ちゃんを貸して頂きたいのだが!」
「「ーーっ」」
刹那、場の空気がシンと静まり返る。
土下座をして請うように頼む昂に、綾花の父親と母親は言葉を失って唖然とした。
「綾花ちゃんに夏休みの間、ずっとずっと、勉強を教えてもらいたいのだ!」
「…‥…‥はあ。お断りさせて頂きます。とりあえず、帰ってもらえませんか?」
微妙に乱れた髪を直すこともせず、粛々と何度も頭を下げる昂に、綾花の父親は頭が回らないながらも居住まいを正して真剣な表情でそう答えた。
「ーーそんな!?綾花ちゃんのお父上、あんまりではないか~!」
そのいささか否定的な綾花の父親の言葉に、顔を上げた昂は目を見開くと、みるみるうちに表情を曇らせていく。
かくして、これから事情説明が始まるとはとても思えない平和過ぎる昂の台詞の中、綾花は進としての気苦労がさらに倍になった気がして、少し憂鬱な気分になったのだった。
「はあ…‥…‥」
翌日、進の家の二階にある進の部屋で、拓也は元樹とともにテーブルの上に置かれたーー綾花が持ってきた、昂の母親からの昨日の突然の訪問のお詫びとして送られてきたという洋菓子を見つめながら、綾花を待っていた。
床には、長方形のおぼんの上に拓也と元樹と綾花の分のポットとティーカップが置かれてある。
いそいそと本棚に歩み寄り、ゲーム雑誌を探しながら、前もって進として振る舞っていた綾花が嬉しそうに言う。
「井上、布施、今日、付き合ってくれてありがとうな」
「いや…‥…‥まあ、その、舞波の訪問の際に、綾花のおじさんがいてくれて本当によかった」
「それにしても、舞波は相変わらず、強引だな」
ティーカップを手にしながら、拓也がげんなりとした顔で辟易するように滔々とそう語るのに対して、元樹は呆気に取られたようにため息を吐く。
「でも、これでようやく、舞波も夏休みの間、本格的に夏休みの宿題と課題集に取りかかれそうだな」
「ああ」
あえて軽く言ってのける元樹に、拓也もこともなげに頷いてみせた。
あの様子ではまた、綾花に頼ってきそうだが、さすがに今日は、舞波のおばさんにたっぷりと絞られているだろう。
ゲーム雑誌を取る際、背伸びをしたことによって乱れてしまったサイドテールを柔らかに撫でつけながら、綾花が拓也達の方を振り返り、てらいもなく言った。
「井上、布施、この雑誌みたいだ」
「懐かしいな」
「ああ。ゲーム対談情報ラジオ『プレラジ』、最近は、玄と大輝が出演していたな」
綾花から渡された雑誌を手に取って、ラジオ番組に出演した時の思い出に浸る拓也に、元樹はきっぱりとこう答えた。
ゲーム対談情報ラジオ『プレラジ』ーー。
それは毎回、違う有名ゲームプレイヤーが、パーソナリティーを務めているゲーム情報ラジオ番組である。
ゲーム音楽をBGMに、雑談やリスナーからの質問に対する回答、さらに最新ゲーム情報などをお届けしており、また、パーソナリティーを努める本人を含めて、三人までならゲスト出演することができた。
そのラジオ番組で、以前、綾花は『宮迫琴音』に扮してパーソナリティーを務めることになった。そして、拓也と元樹も、そのラジオ番組でゲスト出演をしていたのだ。
「なあ、綾花」
「うん?」
拓也のその問いかけに、綾花は不思議そうに小首を傾げる。
「ゲーム対談情報ラジオ『プレラジ』に出演する前に、こうして上岡の家で対談の練習をしたことがあったよな」
「ああ」
綾花がそう頷くと、拓也は持ってきていた鞄からペンを取り出し、綾花の方へと向ける。
「ーーほら、綾花は、上岡は、そして、麻白は今から何がしたい?」
マイクのように差し出されたペンの先端をじっと見つめて、綾花は少し照れくさそうにこう言った。
「いや、やっぱり、ゲームかな」
拓也の問いかけに、綾花は目を丸くし、驚きの表情を浮かべながらも答えた。
戸惑う綾花をよそに、拓也は先を続ける。
「綾花も、上岡も、麻白もゲームがしたいと思っている。どうしてだと思う?」
「うん?」
意味深なその台詞に、綾花は不思議そうに首を傾げる。
拓也は真剣な眼差しで、きっぱりと断言した。
「綾花が綾花だからだ。そして、上岡が上岡であり、麻白が麻白だからだ」
「井上らしいな」
屈託のない笑顔でやる気を全身にみなぎらせた綾花を見て、拓也は胸に滲みるように安堵の表情を浮かべる。
「確かに、拓也らしいよな」
いつもの綾花と拓也のやり取りに、元樹も嬉しそうにひそかに口元を緩める。
いつもと変わらない他愛ない会話が、元樹には妙に心地よく感じられた。
腕を頭の後ろに組んで部屋の壁にもたれかかると、元樹は何気ない口調で訊いた。
「なら、今からゲームをするか?もっとも、俺は昼から部活だから、あまりできないけどな」
「ああ、ありがとうな、布施」
いそいそとゲーム機に歩み寄り、ゲームを起動させながら、綾花が嬉しそうに言う。
綾花は早速、コントローラーを持つと、メニュー画面を呼び出してバトル形式の画面を表示させる。
そんな中、元樹は拓也の方へ視線だけ向けて、あえて世間話でもするような口調で言った。
「俺達も久しぶりに、一対一で対戦をやるか」
「ああ」
元樹の言葉に、拓也は視線を落とすと、どこか懐かしむようにそうつぶやいた。
綾花に上岡が憑依するという奇妙な出来事があってから、俺と綾花、そして、元樹と舞波との関係もだいぶ変わった気がする。
もしかしたら、綾花に上岡が憑依しなければ、俺達がこんなふうにゲームで対戦をしたり、綾花を護るために協力し合ったりすることもなかったのかもしれない。
そう思うと、少し不思議な感じがして、拓也は思わず苦笑してしまう。
「元樹、今度こそ、一矢、報いてみせるからな」
少しも動じない拓也に、元樹もあくまで淡々と口にする。
「俺だって、負けないからな」
不意にかけられた言葉が、意味深な響きを満ちる。
絶対にーー。
言外の言葉まで読み取った拓也を尻目に、元樹はゲーム画面に視線を戻すと『デュエルマッチ』を選択する。
そんな中、部屋に入ってきた進の母親は戸惑いながらも、穏やかな表情で綾花に声をかけてきた。
「琴音、頑張ってね」
「ああ」
綾花がそう意気込むと、進の母親は嬉しそうに微かに笑みを浮かべてみせる。
拓也は、そんな二人の様子を見て、元樹とともに安堵の息をつくと同時に、ふとあることに気づいた。
綾花に上岡が憑依したことを打ち明けた当時は、まだ、綾花の両親は上岡として振る舞っている綾花、そして上岡の両親に対して戸惑いを隠せない様子だった。
だが、今では、綾花の両親と進の両親は少しずつ交流をして親交を深めており、上岡として振る舞っている綾花とも、綾花の両親は徐々に家族のように接してきている。
なら、玄の父親もいつか、綾花のことをーー上岡のことを認めてくれる日がくるかもしれない。
「俺はーー俺達は、玄の両親が綾花達のことを認めてくれるまで、何があっても、綾花を護ってみせる」
「ああ、玄の両親が綾達のことを認めてくれるまで、俺も出来る限りの対策を練ってみるな」
拓也の言葉に、元樹はコントローラーを握りしめると、あくまでも真剣な表情で頷いてみせたのだった。




