第一章 教師の転落
第一章
新月の星空の下、白亜の高みに男が立っていた。
吹きすさぶ冷たい風に身をさらしているが、別の感情に支配されていた男は、寒さに首をすくめることもなく、ただ足下に広がる世界を見ていた。
それは男にとって見慣れていたはずの光景だったが、今や、すべてを飲み込もうとする異質な世界への扉のように見えた。
あと一歩――たったそれだけで、男は自分の生命を終わりにすることができる。恐怖にたじろいだ男は、後ろへと退いたが、すぐに思い直したように進み出た。そして、目を閉じて己の過去に思いを馳せた。
男の顔に浮かんだのは、自身の過去に対する満足でも、悔恨でもなかった。ずっと平坦に続いてきて、これからもそうであろう自分の過去と未来に対する絶望だった。
男はほっと白い息を吐き、薄く笑顔を浮かべた。
次の瞬間、その身体は宙を舞った。
重力に従って落ちていく男の視界に映ったのは、かすかにオリオン座だけが輝く、新月の夜空だった。
それは、男にとって無限にも感じられる時間だったが、実のところほんの一秒程度の出来事に過ぎなかった。
鈍い音が、響きわたる。
「これが金属の還元反応だ」
予備校の教室の一角――白いシャツとチノパンを履いた短髪の教師が講義をしていた。その教師は、二〇人に満たない数の生徒に背を向けて誰に言うともなく説明しながら、黒板に化学式を書き連ねていった。
生徒たちは少しの間、その式を眺めたが、手元のテキストと矛盾がないことを確かめるとすぐに興味を失った。暗くなった窓の外を見たり、隣の友人と話したり、漫画雑誌を読んだりと、少なくとも教師の言葉に耳を傾ける者はただの一人もいなかった。
しかし、教師はそれを咎めることもなく授業を進めていく。
「なんか、祐樹暗くない?」
「うん、なんかいつもより~」
「女に振られたのかな」
「しょぼーい。ってか、彼女とかいたの?」
「知らなぁい」
濃い化粧をした茶髪の女子高生が、小声でくすくすと笑い合う。
聞こえないフリをしていたが、祐樹と呼ばれたその教師には、二人の無遠慮な会話がよく聞こえていた。あるいは祐樹の反応を確かめるために、わざと聞こえるように喋っていたのかもしれない。その証拠に、祐樹が何の反応も示さずに数式を書き続けているのを見た二人は、つまらなさそうに別の話題に移っていった。
祐樹は、ポケットに突っ込んだ左手で金属性の着火材――ファイア・スターターを手で握りしめた。この講義のために用意した実験材料だったが、今日は使わずに終わりそうだった。
くだらない、と祐樹は思った。
無気力な生徒たちに加えて、人の神経を逆なでする幼稚な生徒、それを注意することもなく淡々と授業をする教師――この教室に生産性のあるものは何もない。
祐樹は黒板に向かったまま、自嘲的に口を歪めた。数年前、自分が高校生だったときも似たようなものだった。何となく勉強をしてそこそこの大学に入り、気づいたら予備校の講師として働いていた。だから、この教室にいる生徒たちも、多かれ少なかれそんな人生を歩むのだろう。流されるだけの、生産性もない人生を。
祐樹とて、初めから無気力だったわけではない。講師になりたての頃は生徒たちを成長させようなどと、それなりに熱い思いを持っていたが、一年も経たないうちに徒労感と閉塞感だけが残っていた。
その原因としては、生徒たちが祐樹の熱意に応じなかったということもあるし、二人の女子高生がたまたま言い当てたように恋人に振られたこともあるだろう。しかし、そのいずれも決定的な原因ではないと祐樹は思っていたし、本当の原因なんか分かりっこないとも思っていた。
「先生、授業時間、終わりです」
「ん? ああ、悪い。そうだな」
祐樹が腕時計を見ると、確かに講義時間は終了していた。
「じゃあ、これで終わりだ。テキストの五一ページから五三ページの課題をやっておくように」
テキストやノートをしまい終えた生徒たちが、ぱらぱらと教室から出ていく。これがその日の最終授業だったから、祐樹は全員が教室から出たのを確認して教室の明かりを消した。
夜の街のネオンや自動車のライトが、教室をほのかに照らす。
祐樹は何となく寂しい気分になって、しばらくぼうっとほの暗い教室を眺めていたが、大きなクラクションの音で、現実に引き戻された。
それから職員室に戻り、いくつか書類仕事をこなしていると、いつの間にか祐樹一人になっていた。壁に掛けられた時計を見ると、もう終電の時間が近い。
慌てて立ち上がって鞄に荷物を詰め込もうとしたが、次の瞬間、祐樹はまるで電池が切れたように椅子にヘたりこんでしまった。
気力がなかった。鞄に荷物を入れて駅まで走るというたったそれだけの行為が、祐樹にはひどく億劫に感じられて、どうしてもできなかった。
身体が疲れてそうなったわけではない。毎日のように続けていた無気力な講義が、いつの間にか祐樹自身の心をすり減らしていた。これが一生続くのかと思うと、たまらない気分になる。
このままソファで眠ってしまおうか――そんなことを考えたが、ふと月を見たくなった。
祐樹は、月を見るのが好きだった。遙か宇宙に浮かぶ月を見ていると、滅入った気分が少しだけ和らぐような気がするからだ。
この気分も夜空の月を見れば少しは癒されるかもしれない――祐樹はそう思い、誰もいなくなった予備校を歩いて、ビルの屋上へ向かった。
屋上に繋がるドアを開けると、吐く息が途端に白くなる。祐樹が夜気に身を震わせ、思わずポケットに手を突っ込むと、左手に固い物が当たった。講義で使うつもりだったファイア・スターターを入れっぱなしにしていたのだ。
夜空を見上げると、オリオン座がかろうじて見えるくらいだった。普段から、祐樹の住む街の夜空には数えるほどの星しか見えない。大気が汚れている上に、地上の光が明るすぎるのだ。
だが、祐樹は星の見えない夜空が嫌いではなかった。満天の星空を見ると、否が応もなく自分のちっぽけさを思い知らされる。
「月は――」
天空を見回しても、そこに月の姿はなかった。
祐樹は、その日の日付を思い出して自分の間抜けさを呪った。
その日は新月だった。朔とも呼ばれるその現象は、概ね一月に一度、月が太陽と地球の間に入り、太陽光の反射が地球に届かなくなることで起きる。つまり、満月の正反対であり、月は完全にその姿を隠してしまう。
祐樹はため息を吐き、屋上のフェンスに近寄った。足下には明かりに照らし出された街が広がる。夜も遅いため人通りはまばらだが、残業帰りの会社員や飲み会を終えた学生、それからデート帰りのカップルの姿などが見えた。
「あいつらも、同じなのかな」
祐樹はそう呟いた。
街を歩く人たちの表情まではよく見えないが、陰鬱な気分の人間もいれば、幸福な気分の人もいるだろう。祐樹にとって不思議なのは、彼らが自身の人生に対して行き詰まりを感じていないのかということだった。これまでも、これからもずっと続く変わらぬ日常に、絶望することはないのだろうか。それとも、そんな思いを抱く自分は欠陥品なのだろうか。
祐樹は身体だけでなく、心までが急速に冷えていくのを感じた。
職員室に戻ろうと思ったが、気づいたらフェンスの外側に立っていた。
どうしてそこに立っているのか、祐樹は自分でも理解できなかったが、不思議と受け入れることができた。きっと自分は、フェンスをよじ登って、降りて、その結果、今ここに立っているのだろうと祐樹は考えた。それは当然の事実の推測に過ぎなかったが、心の冷えきった祐樹にはそれで十分だった。
どうせ、ただ流されて生きてきただけなのだ。