にぎわう玉串の市
恩地左近らが手配して、積み荷をのせた船は、川岸をいく、楠木正澄と平行してくだる。
石川は、やがて大和からながれてきた大和川にかさなる。
この大河にながれこむ川は多い。玉串川も、その一つだ。
楠木正澄は、この玉串川をいく。人々の行き来がはげしくなる。
僧もいれば、武士もいる。荷を馬につんだ馬借の一行、農民、親子づれ、ときには
人形つかいの芸人たち。みんな玉串の市をめざしていくのである。
楠木正澄、多聞、七郎の親子も、十数人の武者に守られて、玉串の市にはいった。
川ぞいに、板屋根つきの小屋が、むかいあってたちならんでいる。
あさ・大豆・うりなどの農作物売り。くわの刃、牛や馬にひかせるからすきの農具、
なべ・かま・茶碗などの生活用具、ぶっそうな大太刀・なぎなた・太刀などの武具を
売る。商人たちは、正澄に気づくと、みな頭をさげた。
店なみの中ほどまでいったとき、ひときわ大きな板屋根つきの店があった。
中から、しらが頭の老人がとびだして頭をさげた。「あ、これは楠木の長者さま。」
「その長者さまはやめろ。」入道正澄が、にがにがしそうにいった。
ここは楠木がこの玉串の市につくった詰め所だ。
荷をたくわえる倉もかねている。おなじような小屋を八尾顕幸も、榎坂太郎左衛門助村ももっている。
みな、田畑をたがやすだけでなく、船や馬をつかって荷を運ぶことで、近ごろ、
きゅうにいきおいの強くなってきた一党だ。
「長者さまでいけなければ、なんともうしあげましょうか。」
「お屋形さま、とよぶがいい。」
正澄はむねをはっていった。
楠木正澄にかぎらず、八尾顕幸も榎坂助村も、このあたりの村人、待ち人たちからは
「長者さま」、あるいは「散所太夫さま」などとよばれている。
この河内には、散所が多かった。
たくさんの川がながれるこの地方は、大雨がふるたびに洪水となって田畑をながし、
河原の荒地としてしまう。こうしたことがたびかさなると、農民たちはそこをあきらめて、
よその地へさっていく。人の住まぬ河原の荒地は、もうだれのものでもない。
しばらくすると、この荒れはてた散所にも、どこからともなく人が集まってくる。
かれらのある者は、荘園領主の年貢のとりたてがきびしいので、村をにげだして
こじきになってさまよう農民たち。
また、ある者たちは、村から村をまわって歩くくぐつの一団。
くぐつとは、人形つかいのことだが、歌もうたい、おどりもするし、手品をやってみせたりする。
そのほか難波の港についた品物を馬につんで、みやこの貴族や、六波羅に住む武士の
屋形に運送する馬借の一団が、ここが便利と住みつくということもある。
もとは、人の住めない散所が、こうしたさまざまな職業の人たちが住みつくことによって、
活気づいてくる。この散所の人々に、すき・くわを貸して、荒地を田畑にたがやさせたりして、
ゆたかになっていく者があらわれてきた、これが「散所の長者」「散所太夫」だ。
森鷗外の小説にもなった伝説の「山椒大夫」は、この散所太夫のような人物だった。
「炭を百俵運んできた。」と、楠木正澄が、小判屋にいった。
「そんなにたくさん・・・?」小判屋が歯のない口をぽかっとあけていったときだった。
ついと、旅すがたの男があらわれた。
「なんの、そっくり買いましょうぞ。」
「おお、これは樟葉どのか。」正澄が、男にむきなおっていった。
「檜物づくりに、炭はいくらでも必要です。近ごろは、海をわたって、唐の国にも運びまする。」
檜物づくりの樟葉という男は、自分でつくった檜扇で、正澄の赤ら顔に風を送っていった。
檜物とは、ひのきや杉のうす板を、火であぶって、鉢・箱・盆などにした、さまざまな加工品のことである。「いや、全部はやれぬよ、樟葉どの。」正澄は手をふってうちけした。
半分の炭を刀鍛冶師に売る約束なのだ。
玉串の市は、月に三回ひらかれるときまっていたそうだが、近ごろは、ほとんど毎日
といってよかった。それというのも、銭というものが、人々のあいだにゆきわたってきたからだ。
すると、とつぜん、ぷうんと、顔をそむけるほどのにおいがした。
けものの肉をやく、あぶらのしたたりが火にこげるにおいなのだが、多聞兄弟はびっくりした。
市のうしろをながれる川には、犬の死体などがただっていたりする。
多聞は、父の気持ちがわからない。
「長者屋敷」とよばれる楠木屋形は、金剛山のふもと赤坂水分にあって、くのきや、ときわ木の
みどりにつつまれ、水清くながれる里だ。
それなのに父は、仕事のうえとはいえ、このにおいの強い、よごれた町、玉串の市に
くるのが、よほど楽しいのだ。父の正澄は、鋳物師の長と語りあっているうちに、
昼日中の酒もりとなった。