第34話 後日譚が始まる――欠けた結末の中で(2)
夜の静けさが、庭園を包みこんでいる。
周囲を囲むのは、淡い燐光を放つランタン。その柔らかな光が、闇に沈む木々の輪郭を幽かに浮き彫りにしていた。
庭の中央には、この場には不釣り合いなほど白く清潔なテーブルと椅子が、月の光を反射して鎮座している。
本来、ここには何も置かれていない。しかし、リミアがそれを望んだ。
これから行う取り引きのためにも、用意しないという選択肢はなかった。
外の空気は少し冷たい時期だが、金に飽かせて配置した風避けの道具が、吹き抜ける風を透明な壁で遮断している。
さらに、周囲の温度を一定に保つための措置をしており、春の宵のような温もりを擬似的に作り出していた。
もっとも、この微温的な安らぎは一時的なものだ。明日になれば、ここは寒いだけの庭へと戻るだろう。
「お待たせいたしました。夢の館製のホールケーキでございます」
音もなく現れたメイドが、銀のトレイを恭しく捧げ持っている。彼女の靴が芝生を掠める微かな音と、糊のきいたエプロンが擦れる音だけが、夜の静けさに響いた。
メイドがケーキをリミアの前に置く。
予約待ちで、かなり待たされたが、ようやく手に入った。
瞬間、リミアの目が爛々と輝いた。彼女は何度もこちらを振り返り、言葉ではなく視線で「食べていい?」と執拗に問いかけてくる。
その無垢な瞳にわずかな苦笑を返している間に、メイドは深く一礼し、影に溶けるようにその場を去っていった。
喉を鳴らす音が聞こえてきそうなほど、彼女はケーキを欲している。だが、まだそれを許すわけにはいかない。
質問に答えたとき、取り引きが成立するという約束なのだから。
「これで代償を支払ったことになるか、リミア」
──時の因果が眠りにつく──
音が死んだ。
耳を打っていた夜の鼓動が、理によって圧殺され動きを止める。大気は在り方を忘れ、動くのをやめた。庭の枝葉は、風に乱れた姿のまま、一瞬の儚幻を演じ続けている。
眼に映る景色もまた、裏返りを見せた。夜空の黒は怨望の白磁へ、星々の煌めきは、黄泉の底に沈む漆黒へと堕ちている。
白と黒に支配された世界で、彼女の唇だけが動く。
『ええ、確かに。正当なる対価を拝受いたしました。では、あなたが少女の肉体へと変質した経緯をお話ししましょう』
声は聞こえない、音波は死に絶えているのだから。しかし、彼女が言葉を紡ぐたび、俺の脳裏にはその意味だけが直接流れ込んでくる。
視線の先には、先ほどまで子どもだったはずのリミアが椅子に座っている。しかし、今は元々の姿である、しなやかな四肢を持つ大人の女性としてそこにいた。
「じゃあ、聞かせてくれ」
取引は成立した。
その証拠は、この停止した時間と、目の前で変質したリミアの姿。ようやく、俺が少女の体となった理由が明かされるのだ。
『八年前、貴方は私を仲介者として、世界を再構築する契約を世界と結びました。その際、貴方は対価として、シンギュラリティとの完全な融合に関する因果を捧げています』
ここまでは既に知っている事実だ。
『しかし、世界の再構築という事象に対して、完全な融合に関する因果は――あまりにも過剰でした。そのため、余剰分を返却する必要が生じたのです』
世界の理は、冷徹なまでに公正明大だ。一の成果に対しては、必ず一の対価が求められる。二を払えば、一は返されねばならない。その収支が狂うことを、この理は許容しない。
これを狂わせる魔術の奥義はあるのだが、その説明は蛇足か。
『しかし、過剰分を返却しようにも、貴方は既に肉体を失った状態。そのまま無理に余剰分を返せば、世界はシンギュラリティとの完全融合者という極めて高位の概念存在を、意図せず殺害したことになります』
リミアの、淡々とした説明が続く。事務作業という感覚でもない、ごく自然な印象。
空気が揺れれば風が生じるようなごく当たり前の道理を語っているかのような――実際は、それよりも安定した感覚なのかもしれないな。
『それは世界にとって、許容値を遥かに超えた巨大すぎる対価を受け取ってしまうことを意味しました』
俺の思考が、彼女の言葉を追う。
つまり、過去の俺を死なせてしまうと、受け取る代金が全財産になるので過剰となってしまう。
それ以上に問題なのが、お釣りを渡す相手がいなくなり、世界側の計算が合わなくなるという部分だろう。
『そこで苦肉の策として、完全な融合を果たした貴方の因果に、もっとも適合しない概念を利用することにしました』
一見すると冷徹な理論のように聞こえるが、場当たり的で強引な印象の方が強い。
『完全な融合を果たしたのは、成人した男性としての貴方でした。この因果は、代償として徴収されたため、返却は不可能です』
当然のことだ、としか言いようがない。
『そこで、貴方が「女性として生まれていた場合の可能性」を抽出し、さらに成人していない未成熟な女性の肉体を用意しました』
乱暴すぎる辻褄合わせだ。だが同時に、納得している自分もいる。
「なるほどな」
ようやく、どこが問題の核なのか確信できた。
世界再構築という事象操作の代金に対して、俺が渡した『完全な融合に関する因果』という代金が、あまりに大きすぎたのだ。
結果として、俺に対して世界は「お釣り」を払い戻す必要が出た。
そのお釣りが、今のこの「少女の姿」。
次に気になるのが、なぜ少女の姿になったのかという点だな。
完全融合体を消滅させれば、お釣りを渡す相手がいなくなる。だから、世界は「支払いとして受け取っていない因果」を探した。
代金として没収されたのは「完全融合した」「成人した男性」という因果──だと思う。一方で俺が女性として生まれた世界には、手つかずの「女性」という因果があった。なぜ少女なのかは──。
「俺が未成年になったのは、お釣りの額に釣りあっていたのが、この体だったっていう認識でいいか?」
『その認識で間違いはありません』
やはり、そういうことか。
世界のルールは、こういう部分がある。なら、もう一つ気になっていることも──。
「俺が未成年の少女になったのは、複数回に分けてお釣りを渡すよりも、一度にまとめて渡した方が合理的だったという理由じゃないか?」
『その認識で間違いはありません』
──こっちもか。
世界のルールとは、究極の合理性の塊だ。だが、それは同時に、極めて事務的で大雑把ということでもある。
人間で例えるなら、就業規則は完璧に守るが、その範囲内で最も手間のかからない手抜き作業を選ぶ怠惰な役人のようなものだ。
俺の、この年齢も、見た目も、能力の制限も。
それらを選択することが、世界にとって最も「計算コストが低く、合理的な払い戻し方法」だった。そんな身も蓋もない理由なのだろう。
「それで、俺はいつ消えるんだ」
この冷たい静寂の中にいると、俺の言葉だけが温度を持っているかのような錯覚を抱いてしまう。
「この問いに必要な対価を聞かせてくれ」
元々の姿となったリミアは、穏やかだが遠くに感じる視線でこちらを見据えていた。
『では、あなたが何に対して償おうとしているのか。その明示を代償としましょう』
悪趣味な対価だとしか思えないが、単純に最も価値が近い代償を選んだだけだろう。
こいつも、就業規則は完璧に守るが、その範囲内で最も手間のかからない手抜き作業を選ぶ怠惰な役人と似た所があるからな。
「その代償を支払おう」
『取り引きの成立を確認しました。では代償の提示をお願いします』
世界を滅ぼした──これは代償として扱わないだろう。
リミアは「あなたが何に対して償おうとしているのか」 と言ったのだから、俺は償いの対象こそが代償のはずだ。
「俺の罪は……世界を偽物にしてしまったことだ」
八年前、リミアが現れたとき、俺は何も考えずにその手を取った。僅かに残った人間の知性では、他を考える余裕はなかったというのは、言い訳にしかならないか。
だが世界が再構築された後で気付いた。
ここは、「望んだのと似た世界」であって、「元の世界」ではないことに。
「世界を再構築した際に参考としたのは、旧世界で俺が世界を滅ぼす八年前の記録だ。建築物、植物、動物、人間。そのすべてが、八年前と全く同じ形に再現された。記憶も全部がだ」
何もかもが同じ。だが──。
「この再現した物に入っている中身は本物だ。しかし、それらを収めた器は偽物だとしか思えない」
リミアは微動だにしない。やはり、この程度では代償として認められないか。
いったん頭の中を整理する。この気持ちを言葉にするのは初めてだからな。少し、アプローチの方法を変えた方がいいか。
「たとえば……大切な人の形見の絵があったとして、それを参考に、精密な模造品を作ったとする」
本物と区別付かないほど精巧な偽物をだ。
「その偽物を本物とすり替えれば、持ち主が本物だと信じ込んで大切にする。だが外側から見れば偽物を愛でている痛ましい姿でしかない」
そうだな。俺自身も、この説明ならしっくりくる。
「自分を大切にする。妻を愛する。夫を気遣う。子どもの笑顔に喜びを感じる。その気持ちは本物であっても、それを向けている対象は模造品じゃないのか?」
全てが偽物というわけではないのは分かっている。魂や因果などの根源は元と同じだ。
しかし笑顔は偽物の肉体が見せる物で、言葉は偽物の脳にある記憶に基づいて出て──それらは、本当に本物だと言えるのか?
「あいつらも、死んだんだ。魂も因果も同じ。だが肉体――記憶をため込む脳なんかは、連続性を失った。少なくとも、俺の中のあいつらは、生き返ってはいない」
今のあいつらは、俺が一緒に過ごしたやつらではない。だが──。
「だが、この世界で、真の偽物は俺だ」
そうだ。俺は旧い世界から湧いて出た異端だ。
あいつらと同じように、自分が偽物だと知らずに生きていたはずの、「謀略の賢者」と呼ばれる人間と、よく似ただけの存在だ。
「弟子達が慕ってくれる。しかし、それは本来、彼らと同じ、再構築された俺に対して向けられるべき物だ」
目をつぶった。まぶたの裏に映るのは、世界が再構築されてからあいつらと過ごした八年間。
色々なことがあった。
長かったな――とても。
心が少しだけ柔らかくなり、ようやく、この言葉を口にする覚悟が出来た。
「だが俺は、八年前にすり替わり、その席を奪った。そして師匠面して八年間、あいつらと笑いながら過ごしてきた──そんな、この世界にあるはずのない異物だ」
俺は世界を滅ぼした。そして世界を偽物にした。これらは罪だが、客観的に見た場合の罪だ。
しかし俺の罪は、それだけではない。主観的な罪もある。
「あいつらを騙し、俺という偽物を慕わせていること。それが俺の罪だ。それと、これからも、あいつらと一緒にいたいというのもな──これで満足か」
『正当なる対価を拝受いたしました』
本当に悪趣味だと感じる。本人に俺をいじめる気はないと分かっていても。
だが、自分のしでかしたことを対価として、何かを得ようとする俺もそうとうな悪趣味か。
「それで、俺はいつ消えるんだ」
『消えません』
「……そうか」
最も可能性が高いと予想していた回答だ。出来れば……いや、よそう。
それを思ってはいけない。
『今のアナタは、アナタが考えた通り、お釣りのような物。すでに正当な代金を受け取っている以上、お釣りまで取り上げる事はありません』
──時の因果が目を覚ます──
頬を風が撫でると、枯れ葉が擦れる音が聞こえた。
「ねえ。食べていいでしょ?」
視線を戻すと、子供の姿に戻ったリミアが、言葉だけでなく視線でも食べる許可を求めていた。
「……ああ、好きに食べていいぞ」
許可を出すと同時に、リミアはホールケーキを切り分ける手間さえ惜しみ、そのままスプーンを中央に突き立てる。
割り切れない思いのまま、無心にケーキを頬張るリミアを眺めていると、彼女がふと顔を上げた。
「ねぇ。世界がまた滅んだらどうするの?」
無邪気にクリームを口の端につけた少女の姿にはそぐわない、唐突で鋭い質問。
俺はしばし、夜空に散らばる星々を仰ぎ見た。
「俺が果たすべきことを全てやって、その上で滅んだのなら、それも尊重すべき人の選択だ」
「ふうん」
リミアは特に興味なさげに鼻を鳴らすと、今度はテーブルの上のプリンに手を伸ばした。
一生懸命、食べるよな。
なんとなく溜め息を吐くと、頬杖をついて視線を空へと向けた。
視線の先には満天の星空。時間の止まった世界で星は黒かったが、今は輝いている。
そういえば、これは偽物の空ではなかったか。
…………
「だが、俺はまだ果たすべきことを終えていない。だから、当分は滅びるのは待ってもらわないとな」
俺の独り言よりも、甘い香りの方が大切らしい。
リミアの、スプーンを動かす手が止まることはなかった。
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