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第33話 因果の少女 後日譚が始まる――欠けた結末の中で(1)

 鼻を突くような薬品の臭いで目が覚めた。


 意識が浮上すると、やがて肌を包むシーツの感触に気付く。


 いつもと違う、滑らかな感触に馴染めずに、再び夢の世界に旅立とうとする願いを跳ねのけた。


 体を起こして周囲を見回す。


 ここは高い天井と白い壁に囲まれた、静かな一室だった。


「……ここ、どこだっけ」


 記憶の糸をたぐり寄せる。


 確か、自分はサンイーリフの蜜を採取していたはずだ。


 甘い香りを覚えている。少しでも多く蜜を採ろうとして……そこまでは覚えている。あのあと眠くなって……その後の記憶が断片的だ。


 気がつけば牢屋の中にいた。冷たく硬い床の感触と、鉄格子の隙間から差し込むわずかな光。そして――。


「……やっぱり、あそこが最後だったよね」


 記憶を何度なぞっても、最後にいたのはあの窮屈な牢屋だった。食事が無料なのはありがたかったが、いつまでもいたいと思える場所でなかったのは確かだ。


 あの最後にいたのが牢屋だとすれば、今自分がいるこの場所は、知らぬ間に運び込まれた場所ということになる。


 少女は再び、見慣れないこの部屋を観察し始めた。


 差し込む陽光、ふかふかの枕、見たこともない上質な備品。それら一流の証を確認するごとに、エレナの顔は土気色に染まっていく。


 決して傷口が開いたわけではない。いや、ある意味では致命傷だ。


 彼女は乙女として致命的なまでの疾患――性格に『がめつい』という不治の病を患っていた。


「や、やばい、やばい、やばい……ッ! 待って、これ絶対高いやつ! 窓があるだけでプラス料金でしょ!? この備品、触っただけで請求書が飛んでくる呪いのアイテムじゃないの!?」


 視線を泳がせる挙動不審な姿は、外ですれば衛兵を呼ばれても文句を言えないほどだった。


 彼女はまだ未成年だが、世の中の仕組みは嫌というほど理解していた。


 個室。それは、ロイヤルでビップな、選ばれし富裕層のみが足を踏み入れることを許される聖域。否、庶民にとっては財布の中身を根こそぎ奪い去る神域!


「す、すみません! どなたか、本当、どなたかいらっしゃいませんかっ!!」


 布団を跳ね除け、必死の形相で叫ぶ。


「退院します! 今すぐに! 一秒でも早く、早く退院、退院をっ、退院をさせてくださいッ!! 誰か、誰かぁぁぁぁぁあ!」


 その悲痛な叫びは、まるで死刑宣告を突きつけられた囚人が、執行直前に絞り出す命乞いのようだった。


 数分後。 駆けつけた治癒士に「まだ安静が必要だ」と嗜められ、「そんなに元気なら大部屋に移りますか?」と笑顔で嫌味を言われたものの、エレナの顔には、先ほどまでの絶望は、微塵も感じ取れないほどに消え去っていた。


「いや~、まさか無料だなんてね~」


 ベッドに腰掛け、ニヤニヤと頬を緩ませる。つい数分前まで、人生の終わりのような叫びを上げていた少女と同一人物とは思えない、朗らかな笑顔だ(意味:あまりに薄汚い笑み)


 この強欲の化身が何を考えているのか?――


『無料ほど高いものはない? そんなの嘘、嘘。無料ほど尊いものはない。だってそうでしょ?』


『世の中が交換で成り立っているのなら、私は今、神様相手に万引きを成功させてるようなものよね!』


『これぞ究極の背徳経済学。どこぞの誰かさん、私をここに運んでくれてありがとう』


『あなたの善意も悪意も、私の胃袋で血肉に変換させていただきます』


――このような、下衆思考であることに間違いはない。


「これなら食費もかからないし、他にも色々と節約できるわ~。たまには誘拐されてみるものだね~」


 不謹慎極まりない言葉を吐き出し、強欲の化身となった彼女を咎める者は、ここには誰もいない。


 それどころか、ちょうど通りかかった治癒士を捕まえて、さらなる下衆発言を告げる。


「あ、ちょっと待って治癒士さん! 帰る前に、この部屋の備品のティーバッグとか、余った軟膏とか、貰っていってもいいですよね? 廃棄物にするくらいなら私が有効活用してあげますから! 捨てちゃうなら罪ですよ、罪! ですから、持って帰っていいですよね!」


 呆れ果てて言葉も出ない治癒士は、額に手を当てたあと「上に聞いてきます」と部屋を出た。しかし、その背中に、彼女は追撃の「使い古しのタオルもいけます!」を投げつけた。


 それからも、無料という名の、この世で最も高尚な経験(ガメツイ人界隈限定)に、年頃の少女が見せてはいけないような百面相を次々と披露していたが――。


――脳裏に、あの『黒』がよぎった。


 おぞましい何かを煮詰め、凝縮し、一切の光を拒絶したかのような黒。


 恐怖、絶望、悲しみ。人が味わいたくないと願うあらゆる感情の泥を掻き集めても、あの『黒』には及ばない。



 血が凍りついたかのようだった。


 熱を帯びていた体温は急速に奪われ、代わりに吐き気を催すような戦慄が背筋を這い上がってくる。


 逃げられない。世界の果てまで逃げようと、どれほど強固な盾に隠れようと。……いいや、死んで逃げることすら許されないのだと、彼女の深い部分は知っている。


 なぜ、助けてくれたはずの存在がこれほどまでに怖いのか。


 その答えは知らない。


 今はまだ、あいつの気まぐれで生かされているだけだ。その気まぐれが少し揺らぐだけで――。


「あ、あれは……なに……」


 震える声での問いに答えを返す者は、誰もいなかった。

最後まで読んでいただきありがとうございます!


面白い、続きが気になると思っていただけた方へ。


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