第32話 仕事が始まる――欠けた円庭で
エレナという依代を失った因果獣は、永劫の沈黙へと封じられた。
戦いの跡に残ったのは、神の怒りに触れたかのような凄惨な静寂のみ。円庭は元の平穏を失い、捲り上がった黒い土壌が、月光の下で無惨な傷口を晒している。それは底の浅いクレーターというよりは、世界そのものに巨人が拳を振り降ろしたかのようであった。
「……いや、館長候補さんよ。三つ目だけ難易度がおかしいだろ! ムチャクチャすぎるだろっ、あんなのっ!」
その静寂を切り裂いたのは、駆け寄ってきたグレムの、毒を吐き出すような罵声だった。
死線の淵で張り詰めていた緊張の糸が緩んだのだろうか。その姿は、戦士としてあまりにも無防備すぎる隙だ。しかし、それを指摘するのは、無粋でしかない。仮面の下で共鳴者は、沈黙を深めるだけであった。
「いや、一と二のレッスンは言ってることはまともだ。……だがな!」
グレムは苛立ちを隠そうともせず、己の頭髪を乱暴に掻き回すと、隣に佇むモニカを横目で睨んだ。
「やってることは、絶対に参考にしちゃいけないヤツなんだよ! こいつが真似し始めたら、後始末が全部、俺ん所に来んだよ!」
狂おしく吠え立てるグレムと、どこか明後日の方向を見つめて意識を遊離させているモニカ。静と動の乖離。その対照的な構図が、このチーム内でのグレムの苦労人という宿命を背負っていることを物語っていた。ここでも口を挟まないのが正解だろう。やはり共鳴者は沈黙という盾の陰に身を潜めた。
「……どうしようもないのなら、力尽くで状況を変えろ」
不意に、モニカがぼそりと呟きを漏らした。先ほどの戦いで、共鳴者が戦場で実演してみせた凄絶な「レッスン」を、彼女なりに咀嚼してしまったようだ。その瞳には、重い覚悟が秘められていた。
それを見たグレムの顔からは、潮が引くように血の気が失せていく。
「え、待て。おい、やめろ。……やめろよ、モニカ。絶対に今のを真に受けるなよ!」
必死に詰め寄るグレムの様子は、己の嫌な予感が現実という悪夢になることへの恐怖に満ちていた。やはり、この場における彼の役割は苦労人で間違いないようだ。共鳴者は、少しだけ芝居がかった調子で、助け船を出すことにした。
「ああ、レッスンを一つ忘れていたな。レッスン四――怪しい奴の教えは、すぐに忘れた方がいい。これは社会人の常識だ。覚えておくといい」
「……」
しばしの沈黙。グレムの唇が「どの口が言うんだ」という言葉を飲み込み、不満げな「への字」を形作る。
しかし、モニカと呼ばれた少女が自分を真似たとき、それを止めるための口実は与えられたはずだ。内容そのものは、ごく当たり前のことのはずだが――と、少々割り切らなさは残るが、今は優先するべきことがある。
「冗談はここまでだ。この娘のことを頼む」
それまでの軽薄さを脱ぎ捨てて、声が真摯さを取り戻した。腕の中に横たわる、さきほどまで因果獣の核となっていた少女を、壊れ物を扱うような手つきで、地面へと委ねる。彼女の呼吸は穏やかで、もはや戦いの中で感じた因果獣の禍々しさは微塵も感じられない。
「それと、永劫図書館に、これを届けてくれ」
差し出されたのは、青い輝きを湛えた一冊の本であった。冷徹な月光を吸い込み、それは物質というよりは、凝固した星片のような神秘性を帯びている。
「はぁ……了承しました。館長候補様。ですが、その前に一つ質問よろしいでしょうか」
グレムは、差し出された本に触れることはなかった。代わりに背筋を鉄の芯が通ったかのように伸ばし、真っ直ぐな視線を共鳴者の仮面へと突き立てた。
「あなたは、私達の味方である、と考えてよろしいのでしょうか」
館長候補。
それは長く一人だけが座り続けてきた椅子。そのすぐ隣に、どこから来たとも知れぬ者が座ろうとしている。それを不審に思わないほど、グレムは鈍くはなかった。
この問いは、上の不興を買うものだ。それが今ある平穏をかき乱す行為だと分かっていても、彼は「隊長」として引くわけにはいかなかった。不信を胸に秘めたまま戦場に立てば、そのわずかな揺らぎが、いつか取り返しのつかない破滅を呼び寄せる。自分も命は惜しいが、信じてついてくる仲間たちを、絶望の泥沼に沈ませることだけも受け入れられない。
「味方かどうかは、お前の目で判断するといい」
突き放すような共鳴者の答えに、グレムはわずかに眉を寄せた。それを気にすることもなく、共鳴者は言葉を続ける。
「……だが、俺は味方でありたいと思っている」
「……願望ですよね、それ」
グレムは小さく溜息を吐き出した。それは納得というよりは、追及の不毛さを悟った諦念に近い。だが、その言葉の奥に潜むかすかな体温を、彼は拒絶しきれなかった。
青い本を受け取ると、彼はその重要性を再認識し、表情を引き締めた。
役目は終わりだ。共鳴者はグレム達に背を向け、無言のまま闇の先へと歩き出す。だが、数歩。夜に消える寸前、思い出したように足を止めた。
「レッスン一から三までは、しっかり復習しておくようにな」
「やっぱ、冗談じゃなかったのかよっ!!」
背後から飛んできた、絶叫に近いグレムの抗議。それを心地よい風のように背中で受け、共鳴者の口唇は、仮面の下で微かな弧を描いた。
「おいっ! いや、共鳴者! あんたが裏切るまでは……それまでは信じていてやるよ!」
投げかけられた不器用な、だからこそ本心から発せられた信頼の言葉。共鳴者が振り返ることなく、無言で右手を掲げた。それは闇に帰る者の、淡い返礼であった。
「私も、地面、がんばる」
その背を見送ったモニカが、手にした大斧を握り直す。その瞳は足元の土へと、じっと固定されている。いかに効率よく地を捲り上げ、より広範囲に被害を広げるか。その眼差しは、獲物の急所を狙う狩人のそれであった。
「がんばるな! どうすんだよコレ、目が本気だぞ! ……おい、あんた、責任取れってんだ……あぁもう、いねえ!!」
グレムの悲鳴を置き去りに、闇の向こう側へと渡った共鳴者は――すでに暗い静寂の奥へと消えていた。
※
戦場を満たしていた、あの湿り気を帯びた熱狂は、すでに遠い過去の残響となり眠りについた。
天を衝く時計台の頂。地上から隔絶されたその高みにおいて、吹き抜ける夜風は下界の喧騒を一切顧みぬほどに冷ややかである。
共鳴者はその尖塔の端に立ち、静まり返った街の息遣いを見下ろしていた。
仮面の下にある瞳が捉えるのは、複数の世界から寄せ集め、強引に継ぎ接ぎされた「歪なパッチワーク」のような夜景。遠近感が狂い、光の粒が不自然にひしめき合うその光景は、この世界が、今にも崩壊せんとしている危うい均衡の象徴であった。
己の顔を覆う漆黒の仮面に、重い指をかける――その裏側では、皮膚組織と一体化していたナノマシンが、解除の命を受けてうごめき始めていた。 剥がれ落ちる闇の向こうから現れたのは、少女の白い素肌。その上で銀色の回路が機械的な脈動を刻むも、瞬く間に夜の静寂へと溶けていく。
存在意義を喪失した仮面は、星屑のような砂となって指の隙間をすり抜けた。重厚な鎧も同様だ。夜風に揺れていたハーフコートもまた――。
共鳴者の痕跡は、冷たい夜気の中に消えた。
これで、この世界から共鳴者は消え去った。──次に彼女が、再び仮面で顔を隠すまでは。
仮面を脱ぎ捨てたリクアは、周囲をゆっくりと見回す。
視界の端、棚の上に置かれた手袋を見定めると、彼女は緩慢に手を伸ばす。だが、その指先は目的を果たすことなく、数センチほど横の空間を虚しく通り過ぎる。
「……っ」
視界が不規則に明滅し、世界の輪郭がお互いに滲み合っている。脳の奥に粘り気のある膜が張り付いたかのように、思考が明晰であろうとすることを拒んでいた。
「……無理をし過ぎたか」
自嘲気味に吐き捨てた声は、喉が焼けたように掠れ、震えていた。
終焉刻印に因果破壊。さらには、それなりにリミアの権能を借りて行った因果の封印。それらを連続して行った代償の請求を、今、肉体の悲鳴という形で催促されているのだ。
この身体の限界を確かめようと思ったが、迂闊すぎたと自嘲気味に笑ったら少し楽になった気がした。
再び、手袋へと手を伸ばす――今度は、指に感触があった。
足枷を着けられたかのように重い脚を引き摺りながら、時計台の下層へと歩いていく。一歩ごとに響く足音が、脳髄を直接打つような苦痛を生じさせる。予想よりも酷い状態だ。ただ眠っただけでは、回復し切れない。
やはり人権への暴力ともいえる、アレを飲まなければならない。エレナが監禁されていたアジトに突入する前に食べたアレの液体版を──。
避けるわけにはいかない。
今の枯渇した体力では、ナノマシンによる治癒能力を極限まで高めなければ、最悪の事態も考えられるのだから。
やがて強固な金属で作られた扉の前に立つ。
もう少しで休める。そのように考えながら休憩室の扉に手をかけようとした。
だが、リクアがドアノブに触れるよりも早く、扉は内側から静かに開かれた。
「お帰りなさいませ。お嬢様」
出迎えたのは、本来ならば本邸に控えているはずのクラリスであった。
「来ていたのか。……それと、お嬢様はやめろ」
「そうですねー。私に心配をかけるのをやめていただけたら、すぐに呼び方を変えますよ。……もっとも、無理な相談でしょうから、まずはこれを」
クラリスは淀みのない所作で、細長いグラスを差し出した。
中を満たしているのは、不透明な白さを湛えた液体――ナノマシンの餌を液体化したものだ。
これは味覚に対する悪質な挑戦であると捉えていい飲み物。だが、今の貧弱な体を考えると、避けて通るわけにはいかない試練でもある。
だがリクアの行動に迷いはなかった。味覚が悲鳴を上げるよりも早く、喉の奥へと一気に流し込んだ。
「寝る」
「おやすみなさいませ、お嬢様」
ふらつく足取りでベッドへと辿り着き、重力に抗うこともなく倒れ込む。
柔らかなシーツの感触が肌に触れた瞬間、それが合図であったかのように、意識は底なしの泥濘へと急速に沈降していった。
「……お嬢様は、やめろ……」
「はいはい、お嬢様」
それが消え入りそうな寝言だったのか、あるいは彼女の矜持が最後に放った抵抗であったのか。すでに穏やかな寝息を立てているリクアに対し、それを確かめる術はもうない。
安らかな眠りに落ちた師の横顔を、クラリスは静寂の中でじっと見守っていた。その唇に、一抹の寂しさと深い愛着を混ぜたような笑みが零れる。
彼女はランプの芯を静かに絞り、部屋を薄い闇へと落とすと、ベッドの傍らに置かれた椅子へと腰を下ろした。
やがて、寝返りを打ったリクアの肩から零れかけた毛布を、丁寧な手つきでかけ直した。乱れた黒い髪にそっと触れ、指先でその流れを整えると、彼女は暗闇の中で一言だけ、慈しむように告げる。
「お休みなさい。先生」
夜の先へと、時は緩やかに進んでいく。
戦場の熱が漂う夜から、穏やかな冷たさが包む夜へと姿を変えて──。
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