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第31話 仕事が始まる――欠けた円庭で(5)

 それは唐突な断絶だった。


 エレナの体へ、共鳴者の指先が届くことはない。また重力の手に引かれるはずだった彼女の体も、不可視の琥珀に閉じ込められたかのように静止していた。


 わずか数センチの、絶望的な懸隔。彼女を抱きとめるはずだった共鳴者の左手は、救済の機会を剥奪されたまま虚空を掴み、鎖に繋がれたかのようにその場へと繋ぎとめられた。


 爆ぜた土塵は、飛散した姿のまま一瞬の中で凍りついた。先ほどまで鼓膜を苛んでいた轟音は、静寂の支配下におかれた。


 暴虐の痕跡たる石つぶても、夜風に撫でられていたエレナの髪も、時によって変化する権利を剥奪され、因果へと平伏した。


 夜空からは闇が消えた。奇妙な反転により――夜の闇は、死者のごとき白へと裏返り、星々の冷光は深海に佇む黒真珠のように、暗い光を放っていた。


 生命の痕跡は、時に拒絶された。残されたのは色彩の残照で描かれた絵画のごとき世界のみ。



 永遠とは終わりである。



 風の自由、大地の雄大さ、生命の鼓動。あらゆる物が停止した、極限の静寂。その、ただ中で、一つの異物だけが「今」に在った。


 永遠の中に、共鳴者の意思だけが、取り残されている。


 己の脳裏を奔る思考。その僅かな電気信号の明滅にすら、今は温かさを感じてしまうほど、この世界は冷たい。



 あってはならない。あるはずのない音が、静寂へと溶けた。



 ――吸い、吐く。



 静止していた大気を、その女の肺が動かす。周囲の土埃が、僅かに震える。死に抱かれた世界が、彼女の周りだけ、僅かばかり息を吹き返したように感じられた。


『代償を支払う準備はできていますか?』


 女が放った言葉には、水面が波紋を広げたまま凍てつくかのような、固さがあった。



 白金の髪を持つ女性――リミア。



 幼い姿の頃にあった温もりは破片すら失われていた。


 今の彼女は、この透き通る世界の支配者にふさわしい、静謐さを身に纏っていた。憐れみという湿り気も、非情という熱量もなく、平坦な光を、あるがまま鏡のように返しているだけだった。


「──やってくれ」


 共鳴者の声もまた同じであった。微かな震えも、逡巡の濁りもない。すでに書かれた物語をなぞるかのように、当たり前の言葉を伝える。


 それは、すでに数百、幾千回と、繰り返してきた響きだった。


 過去においても、呪われた未来においても、目の前の分岐点を歩幅を変えることなく、同じ道を選び続ける。呪縛と化した己の意思に従って。



 すでに知っている。



 これから支払う代償の質量を。どれほどの重さで己を圧して潰すのかを。それでも、揺るぎのない声で選んだ。



「代償の用意を確認しました。では、代償をここに」


 リミアの宣言と共に、贖罪が始まる。


 世界の根源たる因果。その底に沈殿していた汚泥のごとき人の意志が、怨敵へと手を伸ばす。


 因果の深淵から溢れ出したのは、黒く冷たい、亡者たちの濁流。物理的な液体ではなく、概念そのものが腐敗した膿が、存在そのものを侵食しながら、より深く、より深層へと侵入する。



 それは数千万という単位の人間が、死の直前に因果へと刻みつけた、怨嗟、嘆き、憎悪、恐怖。



 あまりに純度を高めすぎた感情の澱は、あらゆる理を侵食し、この世を蝕んでいる。



 血管を駆け巡るのは、果たして己の血か、それとも呪詛か。


 神経が一本ずつ、汚れた指で弾かれるような激痛が走り、因果に刻まれた凄惨な光景の只中へと引きずり込まれる。



 視界が、塗り潰される。赤黒い現実へと。



 見えたのは、見知った顔の男。かつて言葉を交わした男は、内臓を冷たい土の上に曝け出し、物言わぬ肉塊へと成り果てている。


 その傍らでは、数刻前までぬいぐるみを抱きしめて笑っていた小さな体が、首から上を失った状態で転がっていた。


 鼻を突く濃厚な鉄錆の臭いからも、タンパク質が焦げる甘ったるい死の芳香からも逃げられない。猛火に焼かれた死体は、熱による筋肉の収縮によって、生への執着が未だに遺っているかのように蠢く。骨が軋む乾いた音と、肉の爆ぜる音が、怨敵の内側から狂ったリズムを響かせ続ける。



 あらゆる「終わり」の感覚が神経を焼き切り、共鳴者の魂を蹂躙する。



 そして――最後に、終わりに見せられたのは、最も深い始まりだった。



 無数の金属部品を無機質に肉体へ埋め込まれ、脈動する異形の臓器と繋がれた、あの人の姿。


 それは、記憶の最奥に厳封されていた、最も目にしたくない原罪。因果という名の残酷な裁きが見せつける、究極の断罪だった。彼女の虚ろな瞳は、もはや何も語らない、なにも見ていない、そのままゆっくりと瞼を閉じた。



 もしも、正気を失うまで慟哭できたなら、どれほど容易かっただろう。


 もしも、狂気の淵に身を投げ、すべてから目を背けられたのなら――。


 だが、壊れることさえ許されない。



 楽になる権利も、死という安息も、すべてはあの時、捨てたのだから。



 義務や代償。そのような型のある、贖罪であってはいけない。それが唯一の型。



 受け入れ続けること。それが全て。



 やがて代償を払い終えた共鳴者は、ゆっくりと瞼を持ち上げる。



 視界には未だに凄惨な残像が焼き付いていた。だが、その瞳は揺れていない。



 弱り切った体で、それでも右手を虚空に向けて、指を開く。



 掌の中から、握り潰された「因果の卵」が、禍々しくも神々しい紅い粒子となって散っていく。それは重力を拒絶しながら、自らの意志を持つかのように頭上へと舞い上がった。


 粒子は空中で互いに呼び合い、この世界の根幹を記述する「因果文字」へと姿を変えていく。変化の連鎖は幾何学的な加速を見せ、やがて黄金と紅が混ざり合う、文字の濁流となる。


 濁流は、自らがあるべき場所を()っているかのように、空中に整列していく。無数の光り輝くページが、見えない書架に並べられるように拡がり、因果という巨大なシステムの断片を再構成していく。



 文字の奔流が収束する。


 夜空に散らばっていた光のページが、巣へと急ぐ鳥のように共鳴者の手元へと集まっていく。


 混濁していた情報は言葉という形に固定され、虚空を縫う光の糸が、バラバラに解体されていた「因果」を一冊の「記録」へと縫い合わせていく。


 最後に、深海のごとき青い革表紙がその全容を包み込んだ。同じ因果を以て綴じられたその本は、もはやただの物体ではない。この世界、そのものであった。


 緩やかに、因果の本が伸ばされた手へと降りる。



 本へと手を伸ばすその姿は、罪状を克明に記した極刑の書状を受け取る罪人を連想させるものであった。



 ――時の因果が、目を覚ます――



 黄金の閃光が世界を貫く。


 次の瞬間、空間を引き裂くような轟音が耳を打ち、停滞していた大気が狂暴な突風となって吹き抜けていった。


 夜空は黒く拡がり、白く反転していた闇は本来の深淵へと戻り、星々は眩い永劫の奥行きを取り戻した。


 死んでいた絵画のような世界が、脈動を開始したのだ。



 左腕の中には、今しがた受け止めたエレナの拍動。


 右手には、因果を縛った青い本の冷徹な重み。


 左右の手にかかる、対極の重みを噛みしめるかのように確かめた共鳴者は、仮面の下で静かに呟く。


「封印完了」


最後まで読んでいただきありがとうございます!


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