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第30話 仕事が始まる――欠けた円庭で(4)

 盾穴円庭の隅で、グレムが頬を引きつらせて呟きに、シュリーが応じた。


「しっ、静かに! きっと……私たちが知らない、高等な戦術…………かもしれないじゃない!」


 シュリーが必死に自分を納得させようと言葉を繋ぐ。だが、その声は微かに震え、もはや神にすがるような願望に聞こえた。


 それもそのはずだ。共鳴者がとったその構えは、因果調律機関の訓練学校で嫌というほど叩き込まれる基礎中の基礎だった。……ただし、前に出す手と足をあべこべに間違えているという、初心者ですら犯さない間違いをそのまま体現したような、あまりにも不格好な代物だった。


「──戦闘中は自分の出来ることだけを考えろ。俺の場合は、殴ることだ」


 言葉が終わった瞬間、爆発的な衝撃音が響く。


 共鳴者が踏み出し、因果獣にまで走る。その速さは、巨狼が間合いを掴むことすらできず、無防備に眼前に立つことを許すほどだった。


「動きが素人じゃねぇか! っつうか、なんであんなに早ぇんだよ!!」


 グレムが絶叫する。


 共鳴者の足運びには、熟練の戦士が持つような無駄のない動きと対極にあるようなものだ。それは技術もクソもない、ただ力任せに地面を蹴り飛ばす全力疾走でしかない。


 しかし、その速度が異常すぎる。


 距離という物理概念を暴力的に踏みにじり、瞬く間に因果獣の懐に潜り込んでいる。


 反応がわずかに遅れた因果獣だったが、その本能は死を拒絶していた。背の人型が、鞭のようにしなる両手を、蛇が獲物を襲うかのような軌道で共鳴者へ突き出す。


「うわ……タイミングも間合いも、めちゃくちゃ……なのに、なんで当たるの」


 シュリーの頬が引きつる。


 因果獣の方が明らかに早く動いた。だが、なぜか遅れて放たれたはずの共鳴者の拳が、因果獣の鼻先を無残に潰していた。


 理由は単純、そしてあまりに酷いものだった。


 共鳴者の技術は、どこまでも未熟だ。もし流派を名乗ろうものなら、即座に「看板に泥を塗るな」と師匠に怒鳴られ、その場で破門されるレベルである。 殴るタイミングは遅く、回避の初動は鈍い。攻撃の予測は大きく的外れで、構えに至っては論外の一言に尽きた。


 だが、それを補って余りある身体能力が、全ての理屈を粉砕している。


 因果獣の鋭い爪が、共鳴者の黒い仮面を掠める。本来なら直撃を免れないはずのタイミング。しかし、共鳴者は攻撃が始まってから動くかのようなタイミングでも、異常な反応速度であっさりとそれを回避してみせる。


 そして、反撃。


 共鳴者が大きく振りかぶったアッパーを放つ。巨狼の顎を狙ったその大振りな一撃は、あまりにも単調で、巨狼はすでに流れるような動作で首を曲げ、回避運動を完了させていた──はずだった。


「おお……避けてるのに、当たってる……」


 人の手が出していい音ではない、腹の底を揺さぶるような重低音が響く。


 ワンテンポ遅れて空を仰いだはずの拳が、すでに回避を終えていた巨狼の顎を捉えていた。


 後から放たれた攻撃だったはずだ。しかし先に完了していたはずの回避行動を、身体的な速度だけで追い越し、強引に着弾させている。


「理不尽すぎるだろ……」


 グレムの目には、もはやそれが戦闘には見えなかった。


 どれほど華麗なステップを踏もうが、反応できない速度で殴れば当たる──その頭のおかしな理屈を、現実の暴力として成立させている。


「あの音って、モニカの攻撃の音に似ているよね」


「はは、さすがにねぇだろ……少しだけモニカの音の方が大きい」


 時折響く、一際重い衝突音。モニカの巨大な大斧が叩きつけられる時の音に近いと気づき、グレムは力なく笑った。


「ぐ、ぎぃいやぁぁぁァぁぁアぁァぁぁぁぁっ!」


 巨狼が苦悶の咆哮を上げる。人語ではないその叫びには、理解を超えた理不尽への憤りが混じっているように聞こえた。


「反則だって怒っていそうだね」


「……だろうな」


 熟練の技術を――生まれたばかりの因果獣にその表現は不釣り合いだが、その戦闘技能を、バカげた速度と威力だけで泥沼に沈めているのは確かだ。


 その光景に、グレムたちはただ呆然とするしかない。


 一方で、共鳴者は冷徹に己の動きを分析していた。やはり少女化したことによる身体感覚の変化が大きすぎる。


 得意の遠距離攻撃は封じられ、重心の取り方も元とは似ても似つかない。だが、今の出力なら十分に誤魔化しは利く。


 共鳴者は、技術を捨てた「地力のごり押し」を選択した。

 

「レッスン二。相手や戦場の特徴を捉え、自分の出来ることをどう活かすかを考えろ。……今回の課題は、相手の素早さだ。お前達は全力で下がれ」


 瓦礫の山から響く共鳴者の声は、戦場とは思えないほど淡々としている。


 その理不尽な身体能力に呆れ、もはや「この人なら勝てるだろう」と半ば確信していたグレムたちは、顔を見合わせると即座に指示に従った。


 背後の気配が十分に遠ざかったのを感じ取ると共に、共鳴者は仮面の奥で小さく息を吐く。


 ――ようやく自然に下げることができた。


 あの疲労困憊の少年たちが、下手に責任感を出して戦いの中に留まろうとしたら、今の不自由な体では守りきれなかったからだ。


 標的が一人に絞られたことを悟った巨狼が、その凶暴性を一気に加速させる。──もっとも、巨狼にこの判断をさせるのも、彼らを下がらせた理由ではあったが。


「ガァァァッ!」


 銀色の獣毛を逆立て、巨狼の背から生えた異形の腕が鞭のようにしならせる。


 巨狼の左右から挟み込むように襲いかかる腕は、掠めるだけで骨を砕く重圧を纏っていた。


 それだけではない。さらに前方からは、鋭利な爪が、共鳴者の喉元を狙って振り下ろされる。


 逃げ道は、後ろしかない。だが、下がれば再びグレムたちを巻き込むことになる。


 もっとも、共鳴者には避ける必要などなかった。――当たる前に、ぶん殴ってしまえばいいのだから。


「マジかよ……」


 後方に避難していたグレムの絶句が響く。


 彼の目に映ったのは、多角的な同時攻撃が届くより早く、弾丸のような踏み込みで間合いを潰した共鳴者の姿だった。


 爪が振り下ろされる寸前、無防備に晒された腹部を狙い、共鳴者の拳が突き刺さる。


 だが、グレムの驚愕はそれに対してではなかった。


 打撃の瞬間、巨狼は自ら体をひねり、共鳴者の衝撃を利用するようにして大きく後方へと跳んだのだ。


――さすがに、気付かれたか。


 共鳴者は内心で舌打ちする。因果獣は、この短時間の交戦で看破したのだ。目の前の圧倒的な速度の持ち主が、近接戦闘において決定的な経験不足であることを。


 種を明かしてしまえば、先ほど倒した魔人は、戦いの経験者であったがゆえに、相手の動きを深読みしすぎた。その思い込みが仇となり、共鳴者のデタラメな動きが一種のフェイントとして機能しただけだ。


 しかし、目の前の獣はあまりに素直だった。素直すぎるゆえに、小細工が通用しない。


 因果獣は低い唸り声を上げながら、一定の距離を保ち、共鳴者の周囲をゆっくりと回り始める。その動きに合わせ、共鳴者も構えを解かずに体を向き直していく。相変わらず、左右の手足を間違えた不格好な構えのままで。


 徐々に、巨狼の旋回速度が上がっていく。


 四肢のバネを可能な限り使い、地面を蹴る音を徐々に早めていく。


 獣なりに観察をし、相手が自分から攻めてこないと悟ると、巨狼は遠心力を味方につけるため、さらなる加速を試みる。


 マズイ状況になった、と共鳴者は直感した。


 巨狼は、こちらのカウンターが物理的に間に合わないほどの速度で襲ってくる気だ。


 このままでは、ただ喰われる未来しか思い浮かばない。


「レッスン三──」


 この期に及んで、未だに怪しい勧誘員のような講義を続けていると、グレム達が呆れる中、共鳴者は動き始めた。


 狙いは巨狼への、真正面からの最短距離での接近。


 だが、繰り出された拳は、巨狼に容易く回避された。……しかし、共鳴者は止まらない。


 避けた巨狼を追うことさえせず、そのまま背を向けて全力で走り抜けた。


 巨狼の瞳に戸惑いの色が浮かぶ。


 コイツは、あの三人を守っていたのではないのか?と。


 だが、絶好の機会だ。すでに遠心力は味方になっているのだから。


 巨狼は背に生えた人型の両腕を、牙を剥くように地面へ深く突き刺し、強引に方向転換をした。


 先ほどまでの旋回運動で溜め込まれた速度は、もはや共鳴者の速さを凌いでいる。逃げる共鳴者との距離を、一歩ごとに縮めていく。


「──どうしようもないのなら、力尽くで状況を変えろ」


 逃走する黒い背中が、不自然な角度で沈み込む。


 共鳴者は走りながら拳を地面へと突き立てた。凄まじい慣性に抗い、腕で大地を抉りながら、強引な制動で方向を転換する。


 真正面から迫る巨狼と、完全に正対する。


 共鳴者は、構えをとる。


 先ほどまでの勘違いした不格好なそれとは違う。それは因果調律機関で教えられる基礎中の基礎に当たる構えの一つ。


 相手を威嚇するためだけに行っていた、先程までの構えとは違う。もっとも次の一撃を放つのに適しているからと、訓練をした構え。


 開かれた右手が、静かにくうを弾く。


 共鳴者が本来得意としていたはずの遠距離攻撃は、現在は百パーセントの確率で暴発する。


──これだけ離れているのなら、アイツらに遠慮する必要はない。


 小さく呟かれた声は少女のものに聞こえた。


 だが同時に、男とも女とも、年齢すら判別できない奇妙な響きを帯びている。


 その異質さに気づける者はいない。


 ただ、先ほどまでの軽口とは決定的に違う意思だけは、誰の耳にも鮮烈に刻まれた。


 猛速で迫りくる因果獣。だが、その強靭な爪が次の地面を捉えることは、永遠に許されなかった。


「これ以上、お前を進ませたら……あいつらに怒られそうなんでね。だからっ――!」


 共鳴者が、左足で地面を激しく踏みつける。


 直後、眩い黄金の光が地面を爆砕し、瞬時に地形を書き換えた!


 それは、かつて世界に宣戦布告した帝国を、僅か半日で投降させた絶望的な火力の一端。 戦争を破壊する者の名を冠する一撃であった。


 轟音は鼓膜を圧壊させ、黄金の光柱が夜天を衝く。


 円庭の地面は巨大な波と化し、巨狼の突進力を正面から容赦なく押し潰した。


 衝撃波の余波は周囲の地面すら同じ運命へと導く。黄金の光が地を這うように拡がりながら、あらゆる硬度を無視して周囲を粉砕し尽くしていく。


 逃げ場なし。


 砕かれた無数の石礫と共に、巨狼は宙へと投げ出される。四肢で踏みしめる地面は消滅し、二度と地を駆ける権利は失われた。

 

 闇夜を切り裂く黄金の残光の中、重圧を伴った声が静かに響く。


「――ここで行き止まりだ」


 銀髪から放出される過剰な光は燐光となって夜を侵食する。右手を包むのは眩いほどの銀色の輝き。それは単なる光学現象ではない。世界の理を示す「因果文字」が、空気に触れた端から、零れ落ちる火花となって霧散する。


 活性化したナノマシンが周囲の命を「燃料」として消費していく。


 精神を数えきれないほどの怨嗟と嘆きが蝕む。


 思考は凍てつくような寒気に侵され、内臓を灼く熱波と激しく衝突し合っている。さらには、数多の恨み、怒り、憎悪。存在そのものに纏わりつく呪詛の奔流が、存在を根底から否定しようと迫る。


 しかし、「共鳴者」は揺るがない。


「返してもらうぞ。そいつには、明日の世界を見る権利がある」


(――あいつらに)


 それが誰を指した言葉だったのか、今となっては確かめる術もない。仮面の奥の瞳が見つめていたのは、今の世界にはもはや存在しない、賑やかな日常の欠片をくれた者たちの幻影だったのかもしれない。


 本当は、その手を掴みたかった。


 温もりの残るその指を、離したくはなかった。


 それなのに、なぜ自分は今、別の誰かのために、この拳を振るっているのだろうか。


 かつて差し伸べてくれた手の温もりは、もう記憶の彼方にしかない。


 銀色の右腕が、無防備に腹を晒した獣の胸部へと、吸い込まれるように突き刺した。


 鋭く貫かれた胸部からは、血の一滴すら流れない。この一撃は、肉体という物質を損なうためのものではないからだ。



 自分にできることは、ただ一つ。神を殺すにも等しい、ただ一つの残酷な破壊。


 かつて差し伸べたかった手は、もうどこにもない。偽物になってしまったこの手では、ただ「壊す」ことしか許されない。



 黄金の光を、銀色の閃光が真っ向から両断する。


――因果破壊。



 因果獣の胸奥で、共鳴者が指を握りしめた。実体としての臓器ではなく、万物の根源たる因果そのものを、力技で握り潰す。


 手を引き抜くと同時に、異形の巨躯は、悲鳴すら上げることなく光の粒へと霧散していった。


 怪物の残滓が夜風に溶け、虚無へと還っていく。


 そこには、ただ一人の少女の姿だけが残された。



 なあ……怒らないでくれるか「       」



 意識を失い、宙へと投げ出されたエレナの体。共鳴者がその小さな、まだ温かい体を受け止めようと、硝子細工を扱うような手つきで腕を伸ばした、その時。


 ――時の因果が、深い眠りについた――






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