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学校にたどり着き、体育館に向かった。
二、三年生も今日は部活がないのだろう、生徒はほとんど下校し、ひとけはなかった。三つ編みおさげの上級生と、一回すれ違っただけだった。誰もいない廊下を、せかせかと急ぎ足で渡った。
体育館横の通路。
話し声が聞こえた。
「えーでも……」
「違う!ぼくは……」
心春。
そして誰かもう一人、どこかで聞き覚えのある、中性的な声がした。怒気を帯びた声だった。
トラブル?心春が誰かと揉めてる?
にわかに、私の体に緊張が走った。
先生を呼んでこよう。そう思ったけれど、いやまずは状況を確認してからだと、廊下の角からこっそり様子をうかがった。
え、と声が出そうになった。
「あのー。もう帰っていいすか、八王子先輩?」
「まだ話は終わってない!」
八王子夏生。
聖柊のプリンスこと八王子先輩が、怒りをはらんだ顔で、心春に詰め寄っていた。
私の心はざわめいた。不安でいっぱいになった。
親友が上級生に怒られているから、ではない。
物語が始まってしまった。
そう思ったのだ。
学校一の人気者と、自分を平凡と思い込んでいる隠れ美少女。
その二人が、誰もいない放課後の校舎で、いきなりケンカという最悪の出会い方をした。
こんなの、私ではなくても「ははーん、どうやら始まっちゃったな」と思うだろう。
私は身を隠しつつ、じっと二人の会話に耳をそばだてた。どうか思い過ごしであって、と願いつつ。
「いやいやいや、参っちゃったなーどうも。ですからー、さっき見たこと、あたしゃ誰にもばらしませんってば。だから帰っていいっすかー?」
うんざりした口調で、心春が言った。何やら、先輩の秘密を目撃したらしかった。
みんなの憧れの素敵な先輩。そんな彼の秘密をたった一人知る、自称平凡な女の子。いよいよまずいと私は思った。とても嫌な流れだった。
私は壁にピタリと背をつけ、立ち聞きを続けた。
よくないとはわかっていたけれど、やめるわけにはいかなかった。
どうしても、二人が今どういう状況なのか、物語が始まったのかどうか見極めたかった。
罪悪感と緊張で汗が止まらず、新品の制服がじっとり湿り始めていた。気持ちが悪かった。
「そういう問題じゃない!」
先輩が、声を荒げた。
「秘密の件はもうどうでもいい!君はぼくのプライドを傷つけた!それが許せないって言ってるんだ!」
「いやー、ちょっとなんのことかわかんないんすけど……。」
「だから、さっきさ!ぼくが唇に人差し指当てて、ウインクして『内緒だよっ!』って言ったら、『うわぁ……。』って引いたろ!」
「あー、それははい、すいません。悪気はなかったんですよ。思わずっつーか。」
「よけい傷つくわ!」
物語が始まったかどうか、なんか微妙。
それが私の結論だった。というか、いまひとつ判断がつかなかった。
二人がある種、特別な関係になったのは確かみたいだった。でも、そこに甘酸っぱい雰囲気はちっともなかった。まったく。これぽっちも。
とにかく、これ以上騒ぎを大きくしないようにしよう。恋愛に発展しなくたって、人気者の上級生に嫌われるというのも、普通にまずい状況だし。話せば話すほど、心春は彼のことを怒らせそうだし。
そう判断した私は、二人の会話を邪魔することにした。
「心春ー?!まだ財布みつからないのー?!」
いったん廊下を引き返し、二人から離れた場所で大きな声を出した。
バタバタと、遠くに駆けていく足音。
それから角を曲がると、ホッとため息をついている心春がいた。走り去っていく先輩の後ろ姿が、遠くの方に見えた。
私を見て、心春が小さく手を振った。
「友香ー。戻ってきてくれたんだ、あんがとー。」
「あ、いたいた。あれ、今のって八王子先輩?何かあったの?」
われながら白々しいなーとは思ったけれど、何も知らないふりをして聞いてみた。
「んー、別に。ちょいと怒られただけっつーか、なんつーか。」
心春はごにょごにょと言葉を濁した。私が立ち聞きしていたことには気付いていないようけど、詳しい話をする気はなさそうだった。
「怒らせたってなに。あんた、何かやらかしたの?」
「ってわけでもないんだけどねー。まあなんしてもさ、やっぱし八王子先輩はすげー男だったよ。いろんな意味で。」
「ふーん?そうなんだ。」
「うん。友香の言った通り、すげーひょうきん者だったよ。」
「ふーん。言ってないけどね。」




