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私と心春は結局何事もなく、先輩らの前をするっと通り抜けた。
何もドラマチックなことは起きなかった。心配する必要なんてなかったんだ。高校でも何も変わりはしない。今までと同じだ。
安心した私は、彼女に一歩だけ近づき、体を寄せた。
ふわりと、花の香りがした。
「あれ?シャンプー変えた?」
「お、気付いたー?」
指摘すると、嬉しそうに笑った。それこそ春の花のような笑顔だった。
「お母さんに頼んで、ちっとお高いやつにしてもらったんよ。今日から高校生なわけだしさー?」
「そっか。」
「じゃー気付いたところで、いつものやってよ、友香。いつものくんくんチェック。」
「え……。いや、あれはもう、やらなくていいんじゃない?」
心春のお願いを、私は視線をそらして断った。
長年やってきた「くんくんチェック」は、もうやりたくなかった。なぜなら、我慢が聞かなくなりそうだから。
「えー?いいじゃんかよ、ケチ。」
心春が表情を曇らせ、私をにらんだ。
「だ、だって……。この時点でいい匂いってわかってるんだから、チェックする意味ないじゃない?」
「や、チェックは建前でさー。あれやると、友香すごい誉めてくれるじゃん。自然にぽろっと、『思わず本音出ました』みたいな感じで。それが気分いいんだよねー。ね、やってよー。だめ?」
「し、仕方ないな……。じゃあこれが、最後の一回だからね?」
押し切られる形で、私は頷いた。
本当のことを言えば、私だってやりたかった。理性と道徳心が、その気持ちを押さえていただけだった。
ドキドキしながら、私は彼女の真後ろに立った。息を吐けば、うなじに吹きかかりそうな距離だ。
「じゃ、やるわね……?」
長い黒髪を、ゆっくり指ですくった。
そしてそれを、自分の鼻先にそっと近付けた。
(ああ、素敵……。)
シャンプーの甘やかな香りと、心春自身の髪の匂い。
その二つが混じり合い、私の鼻腔を優しく通り抜けていった。
シャンプーを変えた日の、髪の匂い確認。
これが「くんくんチェック」だった。子供の頃から何度もやっていることだった。
10才くらいのときに彼女は一度、父親のシャンプーを使ったことがあった。気付いた私が「おじさん臭するからやめなさい!」と注意した。それが始まりだった。
だから彼女は、きっと何も疑問に感じていなかった。
きっと微塵たりとも気付いていなかった。高校生になった私が、髪の匂いで、淫らな気持ちになっていようだなんて。
「どうよー?いい感じっしょー?」
自慢げに心春が聞いた。
「うん、いい……。すごくいい、最高……。はあぁ……。」
うっとりと答えながら、私は何度も深呼吸を繰り返した。
吸い込んだ心春の匂いが、体の中に満ちていく……それはとても刺激的な感覚だった。私の体内に、心春が満ちていくようだった。
最低なことをしている自覚はあった。心春が何も知らないのをいいことに、友情を隠れ蓑にして、自分のいやらしい欲望を満たしている。最悪だ。私は最悪の親友だ。自分の業を呪いながら、私は髪をくんくんし続けた。スーハースーハーやり続けた。
(ごめんね心春、ごめんなさい……。でも……。)
最悪だと自覚していても、やめられなかった。あとで強烈な自己嫌悪に陥るのはわかっているのに。
罪悪感と官能が脳内でうねうねと混交して、目もくらむようだった。夢心地だった。
たまらなかった。
「この匂いを嗅いだら、きっとみんな虜になっちゃうわ。どんどん素敵になっていくわね、心春……。」
「くふふっ。」
不意に心春が、くすぐったそうに笑った。
「あのさ、友香……。今、ふと思ったんだけど……。」
「ん、なぁに……?」
「あたし高校でカレシ作るとしたら、ちゃーんと褒めてくれる男にするよ。友香みたいなさ?」
「そう……。うん、そうね……。」
心春は、私の気持ちにこれっぽっちも気付いていない。
私はそれを別に、つらいとも悲しいとも思っていない。
でもときどき、ぎゅっと胸が苦しくなった。
「まーでも、とーぶんその予定はないし?それまでは今まで通り、うんと友香に褒めてもらうかんねー?よろしくー。」
「なによそれ、ばか……。」
心春が振り向いて、「話のオチをつけました」みたいにニカッと笑った。カレシうんぬんは、どうやら軽いジョークのようだった。
その笑顔に、私は心の底からホッとした。泣きそうになるくらいに。
こうして私は、高校初日の朝から、心春との友情を堪能した。
中学のときと変わらない日常が続いていく、そんな気配に安心していた。
そうだ、心春の青春に恋なんていらない。親友の私がいるのだから。私との友情、ただそれだけを、いつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでも大事にしていればいい。
大丈夫。高校でも変わらない。ずっと変わらない。現に「聖柊の八王子」だって、私達のあいだに入り込めなかったじゃないか。
そんなことを思っていた。
そう。
私は、油断していたのだ。




