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ここじゃないどこかー目覚めと戸惑いー

幼い頃から、どこか心に穴が空いている。


たとえば友達と笑い合っている時。

美味しいご飯を食べている時。


ふと——大事なことなのに、忘れてしまったようなもやもやが漂ってくる。


胸の奥がきゅっとして、

その感覚だけが波のように押し寄せてくる。


どうしてなのか分からない。

でも、いつも思う。


——私の居場所は、ここじゃない気がする。


「なんて中二病でもあるまいし。

 社会人になってまで考えてるなんて、馬鹿じゃないの、私」


飲み会でベロベロに酔った愛美が、家の鍵を開けながら大声でぼやく。


「あーあー、どっかにいい男いないかなー。

 私に優しくしてくれたら、誰でもいいんだけどなーっと」


パンプスを脱ぎ、歌うように廊下を歩く。


お風呂に入って、メイクも落とさなきゃと思いながら、

ベッドに向かう足を止められなかった。


ベッドに倒れ込む前に、視界の端でブルーライトが見えた気がした。


まぶたの裏で、波の音のような低い振動が響く。

心地よくて、どこか懐かしい音だった。


愛美は、そのまま深い眠りに落ちていった。


——ひどく不安な気持ちで走り回っている。


ここはどこ?

誰か、助けて。


……誰? あなた、誰なの?


やめて。さむい、さむいの。


「……て、おち…て。」

「うう……助けて、たすけ……」

「落ち着いて。ひどく感情が乱れています。」


すうっと、心が静まっていった。

愛美は、目を覚ました。


「……はえ?」


「感情がひどく波打っていました。大丈夫ですか?」


目の前で、美貌の男が静かな声で語りかけてくる。


「え……えっ……」


「ここは静域です。あなたの感情波が暴走しかけて、周囲に影響を及ぼしかけたため、保護しました。」


「は……?」


「深呼吸してください。はい、吸ってー……吐いてー。」


わけがわからないながらも、愛美の身体は言うことを聞いて深呼吸していく。

吸ってー、吐いてー。

吸ってー、吐いてー。


段々と脳内がクリアに落ち着いていく。


頃合いを見計らって、男が語りかけた。


「ここは〇〇という国です。あなたのような方は稀ですが、時々やってきます。

 不安かもしれませんが、よくあることなので、こちらの体制は整っています。

 安心して、いったんこの静域で落ち着いてください。」


国の名前は聞き取れなかった。


言葉は確かに耳に届いたのに、意味だけが抜け落ちていくような感覚。

頭の奥がぼんやりと霞んでいく。


「私は……寝て起きたらここにいました。」


「はい、わかっていますよ。何故か寝ていたらこちらに来てしまうようです。

 僕たちにも理由は分かっていません。

 ここでは感情が波打つと皆に伝播してしまいます。

 あなた方はひどく波打つので、一旦こちらで保護させてもらってます。」


確かに異常な状況で、パニックになってもいいはずなのに、

さっきから妙に感情が穏やかだ。


「あの……ここにいたら、感情が落ち着くんですか?」


「いいえ。」

護は首を横に振った。


「静域は、感情の波が外に漏れ出ないための場所ですよ。

 今、あなたの感情を落ち着かせているのは——僕の力です。」


なるほど。

確かにこの男の声は終始穏やかで、表情も柔らかい。

“落ち着かせる力”があると言っても、過言ではないのかもしれない。


愛美が静かに頷いたとき、

ふふっと——吐息のような笑い声が聞こえた。


声に反応して、愛美が男の顔を見る。


その瞬間——男の表情が、ほんの一瞬だけ固まったように見えた。

けれどすぐに、先ほどと同じ穏やかな声で言った。


「ちゃんと説明しますね。」


「ここは、“静域”の中でも中央にある観測区です。

 私たちはこの国全体の感情の波を観測し、必要に応じて調律を行っています。」


「……感情を、観測?」


「はい。感情の波形はこの国では数値化されています。

 誰かが強い怒りや悲しみを放てば、波が伝播し、他の人々の感情にも影響する。

 その結果、暴動や衝突が起こることがあるのです。」


「……みんな、感情を我慢して生きてるんですか?」


護は少しだけ首を傾げた。


「我慢……という表現は、少し違うかもしれません。

 僕たちは穏やかに生きることを選んでいます。

 怒りや悲しみは、人を壊す。

 穏やかでいれば、誰も傷つかない。」


「……それって、幸せなんですか?」


「——穏やかであることが、幸せです。」


愛美はその答えを聞いて、なぜだか背筋が寒くなった。


いたたまれなくなって、愛美は男から視線を逸らした。

窓の外で、木の葉が静かに揺れているのが見えた。


大樹——そう呼ぶにふさわしいほどの大きな木。

その幹を囲むように、白い建物がいくつも並んでいる。

けれど、この部屋だけは少し違った。


壁も床も木でできていて、どこか人の体温のようなぬくもりがあった。


「どうして、ここだけ木造なんですか?」


護は少しだけ視線を窓の外へ向けた。


「あの木は、ずっと世界を見守っている“神木”から株を分けた木なんです。

 この木は、人から溢れた感情の波を鎮めてくれる。

 この部屋は、その木から作られています。

 だから、人の感情の波を——外に漏らさないんですよ。」


「……優しいけど、ちょっと寂しい部屋ですね。」


護は一瞬だけ目を細め、穏やかに微笑んだ。


「そうですか。」


静かに頷く。


窓の外で、木の葉が揺れた。

音は聞こえなかった。


なのに、不思議と心の奥のざわめきがおさまっていく。


それが、愛美にはひどく恐ろしかった。

けれど——その恐怖さえも、いつの間にか静まっていった。


「ここでは、怒ることも泣くこともできないんですね。」

ポツリと愛美がこぼす。


「はい。だから、皆が平和なんです。」


優しい顔で、優しい声で——彼が言った。

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