第8話 福神漬けの哲学
昼休み。昨日と同じ、薄暗い会議室。
カーテンの隙間から射し込む光がテーブルの木目に線を落とし、静けさをさらに強調している。
俺は、冷めかけたコーヒーを片手に、スマホを開いた。
ノラに、また通知がついていた。
コメントが、さらに増えている。
ひとつ目は――昨日の福神漬けガチ勢から。
『福神漬けは「添え物」じゃない。あれはカレーの余白を埋める存在です。人生にも、余白を埋めてくれる何かが必要なんです。』
俺は思わず吹き出しそうになり、慌てて口を押さえた。
会議室にひとりで笑ってたら怪しい人だからな。
「……余白って言った。福神漬けで」
クロが心の中で小さく揺れる。
「この人、もう副菜の哲学者だな」
「俺、ただ埋めてただけなのに」
そして、もうひとつのコメント。
『福神漬けもいいけど、私は断然らっきょ派です。あのシャリッとした食感、潔い甘さ。らっきょは「自分を曲げない副菜」だと思っています。』
「……副菜に人格与えるの、流行ってんの?」
「あんたが始めたんだろ」
「いや、俺は福神漬けを『空気読めないやつ』って言っただけで……」
「それ、人格どころか性格診断だわ」
さらにもうひとつ。
『紅しょうが派です。あの刺激、あの鮮やかさ。人生に必要なのは、時々の「ピリッとした違和感」だと思っています。カレーの甘さにまぎれた紅しょうがの反逆。それが、私の美学です。』
俺はスマホを傾けて、しばし無言。
「……反逆って言った。副菜で」
クロがぷるぷる震えている。
「この人、たぶん副菜で革命起こそうとしてる」
「俺、ただ残してただけなのに」
クロがふと静かになり、低く呟いた。
「でもさ、あんたも昔、カレーに『あるもの』入れてただろ」
「……え?」
「忘れたの? 辛いの苦手すぎて、カレーに『ヨーグルト』混ぜてたじゃん。しかも、プレーンじゃなくて加糖のやつ」
「……それ言うなよ」
顔が熱くなる。思い出したくない黒歴史。
「あれ、もはやスイーツだったよ。『カレー風味のデザート』って呼ばれてたじゃん」
「俺、あれで『辛さ』を甘くしてたんだよ。『痛み』を『甘さ』で包んでたんだよ。……俺の人生、だいたいそういうとこある」
クロは揺れるのを止め、しばらく黙った。
その沈黙は、からかいじゃなく、考え込むときの沈黙だった。
「……それ、意外と深いな。そして、ヨーグルトの量、毎回多すぎだったけどな」
「俺、味覚より安心感を優先してたんだよ」
会議室の静けさが、不思議とざわめきに変わった気がした。
画面の中では、福神漬け派、らっきょ派、紅しょうが派――副菜たちが、それぞれの哲学を語っている。
ただのカレーの横にあるものが、人生の比喩にまで膨らんでいく。
俺は、そっと画面を閉じて、コーヒーをひと口飲んだ。
「『副菜の話』なのに、なんか『自分の話』になってるな」
その気づきだけで、午後の仕事は少し軽く。
そして、ほんのちょっとだけ甘く思えた。




