第7話 クロと小さな勇気
翌朝。
会社のエントランスは、冷房の風とワックスの匂いが入り混じった、いつもの朝の匂いだった。
自動ドアを抜けると、警備員さんが姿勢よく立っている。制服の袖口はきちんとアイロンがかかっていて、靴も光っている。
俺が「おはようございます」と声をかけると、昨日と同じ調子で、彼は笑顔を添えて返してくれた。
「おはようございます! 今日も頑張ってくださいね!」
その声が、昨日より少し深く胸に響く。
偶然じゃない。今日も、確かに届いた。
「ああ、これが『続く』ってことか」
独り言のように呟きながら、自然と背筋が伸びる。
――エレベーターの中。
相変わらず誰も喋らない。スーツの擦れる音と、階数を告げる電子音だけが冷たい箱に反響する。
昨日の警備員さんの声を思い出して、ふと考えた。
「このエレベーターにも『元気』機能つけてほしいな……」
階数表示の数字が切り替わるタイミングで、頭に浮かんだ。
「ファイトです! 5階!」とか言ってきたら、確かに元気出るかもしれない。……いや、逆に怖いか。
ポケットの中でクロが揺れた。
「それ、ホラーだろ」
「……だよな」
自席に座り、パソコンを立ち上げる。
未読メールが並ぶ画面を前にしても、頭の片隅ではノラの画面がちらついていた。
――昼休み。
人影のない会議室。蛍光灯の明かりは少し白すぎて、机の木目を平たく照らしている。
スマホを開くと、昨日の投稿に通知がついていた。
『いいね』がひとつ。
そして、コメントがひとつ。
『その言葉、すごくわかります。黙ってることで、自分を守ってきたって感覚。でも、書いてくれてありがとう。なんか、少しだけ救われました。』
「……え?」
息が止まる。
画面の小さな文字を見つめたまま、しばらく指先が動かなかった。
知らない誰かの言葉が、胸の奥にそっと落ちて、静かに広がっていく。
クロが、柔らかく揺れた。
「あんたの言葉、届いたね」
「……うん」
「どうする? 次は何を書く?」
「『黙ってたけど、実はカレーの福神漬けが苦手です』とか?」
「それ、誰も救われない」
「いや、福神漬けに苦しんでる人、意外といるかもだぞ? あれ、赤いし、甘いし、なんか『カレーの隣にいるのに空気読めてない』感じするし」
少し笑ってから、ふと昔を思い出した。
「でもさ、俺、子どもの頃『残すと怒られる』と思って、毎回こっそりライスの下に埋めてたんだよ」
「……」
「『黙って守る』って、そういう小さいところから始まってる気がする」
クロはしばらく揺れなかった。考え込んでいるようにも見える。
「……それ、意外と深いな。そしてライス残してるけどな」
「……それ言うなよ」
「いや、福神漬け守ってライス捨てるって、順番おかしいだろ」
「俺の人生、だいたい順番おかしいんだよ」
クロがぷるぷる揺れた。
笑ってるんだろう。
俺はスマホの画面に向かって、そっと指を走らせる。
昼休みの会議室は、昨日よりも少し広く感じられた。
「『届く』って、怖いけど……『届いた』って、ちょっとだけ嬉しい」
声に出すと、照れくさくて、思わず笑う。
それだけで、午後の仕事が少しだけ軽くなった。




