第6話 クロと見た朝
翌朝、ドリッパーにお湯を落とす手が、昨日より少しだけ軽かった。
細く落ちる湯が粉をふくらませ、湯気が白く立ちのぼる。その匂いだけで、胸の奥がふわっとほどける。
昨日、ノラに打ち込んだ言葉が、まだ奥のほうで温度を保っている。
『黙ったままじゃ、自分にも届かない』
それを書いた瞬間、何かがきゅっと動き出した。目に見えない歯車が、一段噛み合ったみたいに。
窓辺のクロが、朝の空気に合わせてゆっくり揺れている。
斜めに差し込む光が黒い輪郭をやわらげ、部屋の白い壁に淡い影を落としていた。昨日よりも、少しだけ“近い”。距離じゃなく、温度の話だ。
「……おはよう」
誰に向けたでもない声が、カップの縁を震わせて消える。
それだけで、室内の空気がほんの少し温かくなった気がした。
「言葉って、空気を変えるんだな」
自分でつぶやいて、少し笑う。
クロが、光の粒を吸い込むように微かに濃くなった。
「昨日の『書いた』ってやつ、あんたの中で何か残ってる?」
「うん。……なんか、部屋が広くなったように思う」
「それ、たぶん『自分』が広がったんだよ」
コーヒーの香りが、ゆっくり部屋に満ちていく。
昨日までと同じ朝なのに、違う世界に差し替わったみたいだ。空気の粒子が、柔らかい。
カップを両手で包み、窓辺に立つ。クロの横に並んで外を見る。
通りの新聞配達、バス停の列、遠くで犬が吠える声。街はいつも通りに動いている。けれど、俺の中には、昨日の言葉がまだ灯っている。
「『書いた』という事実が、『黙っていた自分』を少しだけ肯定してくれている」
それだけで、今日の朝は、たぶん少しだけ生きやすい。
――会社のエントランス。
ガラスの自動ドアが開くと、冷房の冷たさとワックスの匂いが頬に触れた。いつもの警備員さんが直立している。帽子の庇を指で押さえ、俺が会釈すると、向こうが一足先に声を投げた。
「おはようございます! 今日も暑いですね!」
響きのいい声だった。胸の真ん中に、ぽんと当たって跳ね返る。
昨日までなら、ただ通り過ぎていたはずなのに。
「ああ、ちゃんと届く声って、あるんだな」
エレベーターの中は、いつもの無言。
スーツの擦れる音と、階数を示す電子音だけが、金属の箱の内側に淡く反射する。さっきの挨拶が、その沈黙を逆にくっきり浮かび上がらせた。
自席に着き、パソコンを立ち上げる。
受信箱の数字は容赦ない。新着、未読、至急。指先がキーに触れるたび、昨日のノラの画面が脳裏にちらつく。薄いブルーの光、簡素な入力欄、そしてあの言葉。
――昼休み。
誰もいない小会議室は、冷房の風が弱く、蛍光灯がかすかに唸っている。椅子を一脚だけ引き、スマホを開いた。ノラが、昨日の文章の下に新しい問いを置いていた。
『あなたが「黙っていたこと」は、誰に届いてほしかった?』
「……うわ、また刺してくるな」
思わず肩がすくむ。
ポケットの奥で、クロが小さく笑ったように揺れた。
「でも、いい質問だ。あんた、誰に届いてほしかった?」
「……」
視線が机の木目を泳ぐ。
家族、かもしれない。
昔の友人、かもしれない。
あるいは、未来の自分、かもしれない。
どれも正しくて、どれも間違っているようで、喉の奥で言葉が引っかかる。
「……『誰か』じゃなくて、『誰にも届かなくてもいい』って思ってた。でも、それって、届くことを怖がってただけかも」
指先で画面を打ちながら、息をひとつ吐く。
ノラの画面が、呼吸に合わせるように静かに光った。
『それでも、書いた。それが、あなたの「勇気」です』
「……うわ、またポエム返し」
照れ隠しに呟くと、クロがやわらかく揺れた。
「でも、あんた、ちゃんと『届くこと』を考え始めたね」
会議室の時計の秒針が、壁の白に細い影を刻む。
俺はスマホに向かって、短い言葉をいくつか打ち込んだ。
カタカタと小さな音。
それだけなのに、さっきよりもこの部屋は、少しだけ静かに感じられた。




