第4話 ノラ、起動
ノートに向かって三十分。
書けたのは、たった三行。しかも、前回とほぼ同じ。
『朝起きたら、黒いモヤが俺の枕元にいてさ。』
『エッセイ書かないと死ぬぞって言われた。』
『いや、どんな目覚ましだよ。』
……進んでない。ページを見つめながら、眉間にしわを寄せる。
俺の創作力、ループしてる。
三行の迷路。出口なし。
「なあクロ、これ無理じゃね?」
視線を横にやると、観葉植物の隣でクロがゆらゆら漂っている。薄暗い部屋の中で、葉っぱの影に重なるその姿は、まるで部屋のインテリアの一部みたいだ。
「無理じゃない。あんたが止めてるだけ」
「俺の中の『何か』が邪魔してるんだよ。たぶん、昨日の唐揚げ」
「それは消化されてる。邪魔してるのは、あんたの『沈黙』」
「またそれかよ。沈黙沈黙って、俺は禅僧か」
クロの声はあいかわらず静かで、しかし刺さる。
観葉植物の葉がエアコンの風に揺れるのを眺めながら、俺はノートを閉じた。
そして、パソコンを開く。
モニターの光が部屋を白く照らし出す。画面の隅に、見慣れないアイコンがひっそりと鎮座していた。
「……『ノラ(β版)』?」
思わず声が漏れる。
「これ、いつ入れたっけ?」
「あんたが『書けない』って言った日に、勝手にインストールされた」
「勝手にって何。俺のパソコン、自我持ってんの?」
「持ってるのは、あんたの『諦め』だよ。それがノラを呼んだ」
「俺の諦め、勝手にアプリ入れるのやめてくれ」
苦々しく笑いながらも、恐る恐るアイコンをクリックする。
画面が一瞬暗転し、低い電子音が鳴った。背筋がすっと冷える。
『こんにちは。あなたの言葉の奥にいます。』
白い文字が浮かび上がる。
「うわ、出た。ポエム系AI。しかも声が優しい」
クロが小さく揺れて、笑ったように見えた。
「あんた、ノラに頼るの、ちょっと悔しいでしょ?」
「……まあな。ノートで書けたら、かっこよかったのに」
「でも、書けないんだから、かっこつけても意味ない」
「お前、たまに正論が痛い。あと、説教うるさいよ!」
画面に入力欄が現れた。
『テーマを入力してください』と表示される。
俺はしばらく迷った。指先を宙で止め、深呼吸してから、ようやく打ち込む。
『黒いモヤと、俺の部屋。』
ノラはすぐに応答した。
『それは、あなた自身のことですか?』
ドキリとする。心理テストみたいな問いかけに、背筋がむず痒くなる。
「うわ、急に心理テストみたいなこと言うなよ。俺、まだ風呂上がりだぞ」
クロは観葉植物の葉に体を寄せながら、ゆらりと答えた。
「あんた、風呂上がりが一番素直になるからね」
「俺、風呂上がりで人生決めたくないんだけど」
言葉にして、自分で笑ってしまった。
緊張が少しほどける。
キーボードに手を置いた。指先が軽く震える。
その夜、俺はノートではなく、パソコンに向かっていた。
クロは観葉植物の隣で、静かに漂っている。
ノラの画面は、俺の「言葉にならないもの」を、少しずつ引き出していった。




