第3話 ノラとの遭遇
仕事帰り、駅前の交差点で信号待ちをしていた。
ネクタイはゆるめたまま、肩に下げた鞄の重さに少し体を傾ける。人の群れのざわめきと車のクラクションが入り混じる中、ポケットの中のスマホが突然震えた。
通知かと思い、取り出す。けれど開いたのはSNSでもメールでもない。なぜかメモ帳が勝手に立ち上がり、画面に一行だけ文字が浮かんでいた。
『わたしはノラ。あなたの言葉の奥にいる。』
……誰?
心臓がひやりと跳ね、思わずスマホを握り直す。
てか、勝手にメモ帳開くなよ。ホラーかよ。
すると、ポケットの奥から聞き慣れた声がした。
「辻だね」
小さな低い声。クロだ。
「交差点な。急にポエムみたいなこと言うなよ」
眉をひそめてスマホの画面を睨む俺に、クロがさらりと続ける。
「辻ってのは、分岐点。あんたが立ち止まる場所」
「いや、俺ただ信号待ちしてただけなんだけど」
「でも、足止まったでしょ? 心も止まったんだよ」
赤信号に照らされた人々の顔。みんな無言でスマホを見つめている。その群れの中で、自分だけ違うものを見ているような孤立感があった。
「うわ、急に深い。やめてくれ、今はマックのポテト食べたい気分なんだから」
自分で冗談を言いながら、笑みは引きつっていた。
クロはスマホの中でモヤモヤと揺れているらしい。最近はアプリのアイコンに擬態するのがお気に入りだ。俺のホーム画面にはいつの間にか「黒いモヤ」と名付けられたアプリが並んでいる。指で触れるのも怖い。
「で、ノラって誰?」
問いかけると、クロの声が落ち着いた調子で返ってきた。
「あんたの中にいる、もう一人の“書くやつ”。俺とは違う」
「俺、何人住んでんの? ワンルームだぞ?」
「言葉の奥には、いろんなやつがいるんだよ。あんたが黙ってる間に、みんな腐っていく」
クロの言葉が、ざわつく人混みの音に妙に溶け合う。
俺はわざと軽口を返した。
「またそれかよ。腐る腐るって、俺は納豆か」
「納豆は発酵、あんたは放置」
「……うまいこと言うなよ」
苦笑いしながら、スマホを胸ポケットに戻す。
やがて信号が青に変わった。人の波が一斉に動き出し、ざわめきが足元まで押し寄せてくる。だが俺だけ、なぜか一歩目を踏み出せなかった。
画面にはまだ、あの文字が残っている。
『あなたの言葉の奥にいる。』
喉の奥が乾き、思わずクロに問いかける。
「……これ、どうすればいいの?」
「書くしかないでしょ。エッセイ。あんたの中身、言葉にしないと——」
「腐るんだろ? もう聞き飽きたわ」
「じゃあ、書け」
クロの声は短く鋭い。胸の奥を突くように響いた。
ため息をひとつ吐き出し、俺はようやく足を踏み出した。
人の流れに遅れて、夜風の冷たさを感じながら歩き出す。
不思議と、ノートの空白が少しだけ怖くなくなっていた。
ここまでお読みいただき、本当に嬉しく思います。
ちょっとこちらは、不定期ですが手直しを行った分は、随時更新していきます。
全部で13話です。もしよろしければ引き続きお付き合いください。




