第2話 クロと三行の夜
エッセイを書き始めて三日目。
ノートには、まだ三行しか並んでいなかった。
『朝起きたら、黒いモヤが俺の枕元にいてさ。』
そのあとが続かない。ペンを握った指先に力は入っているのに、インクは紙の上を動かない。俺の創作力は、三行で息切れ。まるで短距離走を終えたあとのランナーだ。
「……これ、ほんとに意味あるの?」
自分でも情けなくなるような声が口から漏れた。
窓際のクロがモヤモヤと揺れる。最近は観葉植物の横がお気に入りらしい。緑の葉の影に寄り添うように漂っていて、俺の部屋の住人のように馴染んでいる。俺自身よりも、よほど落ち着いて見えるのが気に入らない。
「あるよ。あんたが書いたってことが、もう意味なんだ」
声は淡々としているのに、不思議と重みがある。
「意味って……誰にとっての?」
俺はノートを閉じ、天井を見上げながら問い返した。
「あんたにとっての」
「俺、意味とか価値とか考えるほどの人間じゃないんだけど」
苦笑しながら頭をかく。言葉にした瞬間、自分でも虚しくなる。
「だから腐るんだよ」
クロは揺れながら断言した。
「またそれかよ。腐る腐るって……俺は冷蔵庫の奥のヨーグルトか」
思わず笑い飛ばそうとしたが、クロは間髪入れずに返す。
「それはもう腐ってる。あと、賞味期限ちゃんと見ろ」
黒いモヤのくせに妙に生活感のあるツッコミだ。俺は深いため息をつき、ノートを机に放り出した。
仕事は相変わらず。朝から晩まで、数字とメールと上司の顔色に追われる毎日。帰ってきて、飯を食って、風呂に入って、寝る。その繰り返し。
そんな単調なサイクルの合間に“書くこと”をねじ込もうとしている自分が、少し滑稽に思えた。
「……俺、別に作家になりたいわけじゃないし」
投げやりに言うと、クロは静かに漂いながら答える。
「でも、書かないと腐る」
「またそれ。お前、腐るしか言ってなくない?」
俺は笑い混じりに突っ込む。
「だって事実だもん」
クロの輪郭が淡く揺れ、光の加減で濃くも薄くも見える。
「あんたの中にある“言葉にならないもの”が、黙ったまま死んでいくってことだよ」
俺は口を閉ざした。
言葉にならないもの。
それは、仕事中に押し殺している苛立ちかもしれない。誰にも言えない孤独かもしれない。あるいは、昔の小説に残っていた断片に宿っていた“何か”かもしれない。
「……でもさ、それって誰かに読まれなきゃ意味なくない?」
沈黙を破るように口を開いた。自分でも弱々しい言い訳に聞こえる。
「違う。読まれることは、ただの副産物」
「副産物?」
「そう。書くってのは、あんたがあんたを生きるための手段なんだよ」
俺は思わず吹き出した。
「お前、たまに名言っぽいこと言うな。中身モヤのくせに」
「中身モヤだからこそ、言えるんだよ」
クロの声は静かで、確信めいていた。
俺は再びノートを開いた。三行のあとに新しい言葉を置こうと、ペンを走らせる。
しかし、先端は紙の上で止まったまま。指先は汗ばんで、心臓の鼓動がやけに大きく響く。
「……痛いだろ?」
「……うん」
「それが、生きてるってこと」
クロの言葉は、夜の静けさに吸い込まれるように響いた。
窓の外には街灯の明かり。遠くを走る車の音がかすかに届く。
クロは夜景に目を向けている。
俺は、ノートの白い余白に目を固定したままだった。
その夜、結局一文字も書けなかった。
けれど胸の奥で、何かがほんの少しだけ、動いた気がした。




