第1話 クロとの出会い
月曜の朝、俺の枕元に「クロ」がいた。
黒い塊のような謎の生物が、薄暗いカーテン越しの光を浴びながら、じっと俺を見つめていた。部屋の空気は寝汗と古い本の匂いが混ざって重い。休日の余韻も抜けきらない、そんな時間だった。
社会人一年目を終えたばかりの俺の日常は、濁った水たまりみたいだ。数字とメールと上司の顔色だけで満ちた世界。未来なんてどこにもない。かつては「小説王に俺はなる!」なんて無謀に投稿を繰り返していたけど、あっという間に文才のなさに気づいてやめた。
夢はノートの端にぐちゃぐちゃに塗りつぶされ、言葉は俺から遠ざかっていった。
――だからこそ、あの朝のクロの声は衝撃だった。
「書かないと死ぬぞ。」
耳に直接響いてきたようなその声に、心臓が一拍ずれる。俺は布団を頭まで引き上げ、わざと目を閉じた。いやいや、これは夢だ。夢に決まってる。
でも違った。スマホのアラームはまだ鳴っていない。外から聞こえる車の音もなく、アパート全体がまだ眠っているような静けさだった。その中で、俺の枕元だけが異様にざわついていた。
黒い塊がふわふわと浮いている。輪郭は煙のように曖昧で、目のような光点がぼんやり二つ。だがそれが本当に俺を見ているのかどうかはわからない。
「……誰?」
声を出すと、自分の喉が乾いてひりつく。
「クロだよ」
短く返ってきた声は不思議と落ち着いていて、人間のようでもあり、機械的でもあった。
「クロって……何者?」
俺は枕を抱きしめるように体を起こす。頭はまだ半分寝ている。
「本名はクロエム・クラエム・クラローム。呼びにくいからクロでいい。」
部屋の空気が一瞬揺れたように感じた。名乗りと同時に黒いモヤが淡く波打つ。
「いや、長っ。呪文かよ。しかも語感が悪い。」
「……あんたが昔つけた名前だよ。忘れてるだけ。」
「俺、そんな中二病だったっけ?」
クロの光点がかすかに点滅する。ため息をついたような間があった。
「今もだよ。」
「失礼な。今は”落ち着いた中二病”だ。」
「それ、ただのこじらせ。」
俺は枕に顔を押しつけて、もう一度眠ろうとした。まだ月曜の朝は始まってほしくない。現実が壊れるには、時間が早すぎる。
――「エッセイ書かないと死ぬぞ。」
クロは再びそう告げた。声は低くなり、部屋の壁にまで響いている気がした。
「……なんでエッセイ?」
布団から顔だけ出して、俺は乾いた笑いを漏らす。
「あんたの中身、言葉にしないと腐るから。」
「腐る」という言葉が、胸の奥に沈んだ。
心臓がざらついた痛みで締めつけられる。まるで自分でも気づいていなかったことを、他人に暴かれたように。
俺は布団を蹴り飛ばして立ち上がった。机の上のノートが視界に入る。大学時代に使っていたまま、ほこりをかぶったノート。表紙には昔の俺の落書き。
「暗黒の堕天使サリエルにサマヨエル」――痛すぎる。だが、それを見た瞬間、少しだけ胸の奥が温かくなった。忘れていた感情が呼び起こされる。
「俺、もう書くのやめたんだけど。」
指先でノートの表紙を撫でながら、俺はつぶやく。
「だから腐ってるんだよ。」
クロはふわっと浮かび、壁のポスターの影に溶け込んだ。黒いモヤの輪郭が薄れていく。
俺はノートを開いた。
ペンを握った。
そして、震える手で最初の一文を書き記した。
『朝起きたら、黒いモヤが俺の枕元にいてさ。』
インクの黒が、紙の白にしみこむ。その瞬間、部屋の空気がかすかに変わった。
これが、俺のエッセイの始まりだった。




