第13話 ちょっとだけの奇跡
昼下がり。
外の光がレースのカーテンを透かして、部屋に淡い影を落としていた。
静かなはずの空気が、どこかほんのり温かい。コーヒーの香りが漂い、時折スマホの通知音が、その温もりを震わせる。
『ノラにコメントが届いています。』
手を伸ばし、画面を開いた。そこには見知らぬ名前と短い文章。けれどやはり、言葉の運びはどこか自分に似ている。
『福神漬け、残してみました。自分の空気の読めなさを守れた気がします。ありがとうございました。』
思わず息を止め、画面を見つめる。
――俺の「偏った語彙」に触れた誰かが、自分の「ちょっとだけ」を守ったらしい。
そこでクロが、不意に口を開いた。
「あんた、ついに福神漬けで誰かを救ったな」
肩をすくめる。
「俺、そんなつもりじゃなかったけどな」
「でも、誰かに届いた。それだけで、ええやん」
「俺、福神漬けで人生語る芸風、続けてええかな」
「ええよ。ただ、そろそろ『らっきょう』にも手出してみたら?」
その一言に、苦笑がこぼれる。
「それはちょっとだけ勇気いるな」
「ちょっとだけ、か」
「ちょっとだけや……」
ノラの画面には、いくつもの「ちょっとだけ」が重なり合っていた。
小さな声が集まって、円を描くように巡っている。その中に、俺の言葉も混ざっている。そして誰かの言葉が、また俺に返ってきている。
言葉は届くと、静かに巡り始める。ときには、誰かの人生に小さな居場所を作るのだ。
笑いを含ませながら、文字を打った。
『福神漬けを残すことで、自分の空気の読めなさを守った人がいた。その人に少しだけ触れられた気がした。俺の「ちょっとだけ」は、誰かの「ちょっとだけ」と並んで、ちゃんと存在している。』
クロが、低く問いかける。
「あんた、やっぱり誰かのために書きつづけるんか」
「……うん、ちょっとだけな」
「ちょっとだけな……」
「まあな。でも、そういう文章が俺らしいんだ」
クロの黒い影が、ふわりと揺れた。
「……なんか、俺がいなくても平気そうだな」
「そ、そんなこと……」
思わず目を伏せる。けれど、心の奥で同意している自分に気づいて、照れ笑いが漏れた。
カップを持ち上げ、コーヒーをすする。
湯気の向こうで、クロを見やる。
「でも、やっぱり、あんたがいると楽しいな」
「楽しいって……俺、ただ突っ立ってるだけやぞ」
「いや、突っ立ってるだけで俺のツッコミになるんだ。絶妙に」
クロがもう一度、ゆるく揺れた。
「……ついに俺も副菜の仲間入りか」
「仲間入りって、誰がメインやねん」
送信ボタンを押す。画面が一瞬光り、部屋の空気がかすかに震えた。
苦いコーヒーを飲み干す。舌の奥に、かすかな甘さが残る。
クロは、笑うように揺れている。
「……もう、俺の出番、減るんちゃう?」
「減るって……」
返す言葉が途切れる。胸の奥に、小さな穴が開いたような寂しさが広がった。
クロが静かに揺れ、声を落とす。
「……まぁ、ええか。今のあんたなら、自分の言葉でちゃんと立っていけるやろ」
「……うん」
声は震えていなかった。けれど、心の奥では別れの気配を感じていた。
最後に、そっとつぶやく。
「ありがとう、クロ。ほんまに、ありがとう」
笑いと、ほんの少しの寂しさが混ざった午後。
返事はない。
それでも部屋の片隅に、黒い塊のような温かさが確かにあった。
俺はコーヒーを飲み干し、スマホの画面を静かに閉じる。
物語は、一度ここで終わる。
けれど――誰かの「ちょっとだけ」は、これからも巡り続けていくのだ。




