第12話 クロとノラ、届くちょっとだけ
夜。
静まり返った部屋で、机の上に置いたスマホが震えた。
『ノラにコメントが届いています。』
指先がためらいながら画面をなぞる。そこには、知らない名前が並んでいた。けれど、文字の響きは、どこか自分に似ていた。
『この人の話、ちょっとだけ自分のことみたいでした。誰かに話したくなったので、ノラに書いてみました。』
息をのんで、スマホをそっと伏せる。
俺の「ちょっとだけ」を拾ってくれた誰かが、自分の「ちょっとだけ」を差し出してくれたらしい。
四角い部屋の空気が、少し広がって見えた。
クロは黙っていた。
いつものような軽口もなく、コーヒーの香りにも揺れもしない。
「……クロ?」
返事はない。
けれど、椅子の背もたれに寄りかかる俺の肩先に、確かに気配が寄り添っている。
ノラを開く。
無数の「ちょっとだけ」が流れている。
短い詩、思いつきの独り言、物語未満の断片――。その中に、俺の言葉が埋もれている。そして別の誰かの言葉が、俺に返ってきていた。
言葉って、誰かに届くと、静かに巡り始めるんだな。
そんな実感が胸の奥に滲んだ。
ようやくクロが、ぽつりと呟いた。
「あんた、もう俺がいなくても書けるな」
思わず笑みがこぼれる。
「……それ、褒めてる?」
「うん。ちょっとだけな」
「ちょっとだけ、か」
「それしか言えんやろ。あんたの文章、語彙の偏りが芸風やし」
苦笑いしながら額をかく。
「芸風って言うな。俺は真面目に書いてる」
「真面目に『ちょっとだけ』を連打してるやつ、初めて見たわ」
「俺、語彙の偏りで個性出してるタイプやねん」
「それ、福神漬けで人生語るやつの言い訳やろ」
クロの声は相変わらず柔らかくて、でも背中を小突かれるような鋭さもあった。
俺はスマホに向かって文字を打ち込む。
『誰かの気持ちに触れるって、ちょっとだけ勇気がいる。
でも、触れたあとに残るものは、ちょっとだけ温かい。
あと、福神漬けはやっぱり残す派です。』
送信ボタンを押すかどうか――一拍置いた沈黙のあいだ、クロは何も言わなかった。
それでも、そこにいる。静かに、俺の背中を見守っている。
部屋の空気は穏やかに澄んでいた。けれど、どこか遠くで、また新しい言葉が生まれている気がする。
そして俺の「ちょっとだけ」は、今日も誰かに向かって、不器用に、偏った語彙のままで進んでいく。




