第11話 クロとノラ、そして届く声
昼休み。
オフィスは弁当の匂いと食器の音でざわついている。隣の席の同僚がコンビニ袋をガサガサいわせ、向こうのデスクからは笑い声が響いた。そんな喧騒の中、デスクの下で俺のスマホが震えた。
『ノラにコメントが届いています。』
また誰かが読んだ。けれど、今回は通知の文字が妙に重たく見えた。
『読んだで。なんか、昔の「あんた」がちょっと戻ってきた気がしたわ。でも、あんたって昔から「ちょっとだけ」しか言わんよな。』
差出人:母。
息が止まる。コーヒーカップを握る指が震え、縁が小さく音を立てた。
「……うわ、おかんに読まれた」
クロが、机の影からふっと空気を揺らすように笑った。
「あんた、『ちょっとだけ』の使いすぎ、親にバレてるじゃん」
「俺、語彙の偏りまで家庭内監視されてんのか」
自嘲気味に返すと、同僚が一瞬こちらを振り向いた。慌てて咳払いしてごまかす。
「ついに身内に読まれたな。もう後戻りできねえぞ」
「なんでよりによって母親なんだよ……」
コーヒーを口に運ぶ。苦味が舌に広がり、顔が少しだけしかめっ面になる。
「文章のタイトル、検索で引っかかるようなやつだったんだろ」
「『福神漬けと俺』ってそんなに引っかかるか?」
「むしろ引っかかってほしくないやつだな」
俺はスマホを伏せ、深く息を吐いた。肩の力が少しだけ抜ける。苦いはずのコーヒーが、不意に笑いを誘った。
ノラの画面を開く。
そこには、知らない誰かの「ちょっとだけ」が並んでいた。
短い詩、独り言、物語未満の物語。誰かが誰かに触れようとして、でも触れきれなかった言葉たち。
俺の文章も、その中に紛れている……はずだったが、母親には見つけられたらしい。
ノラは、ただ静かに導く案内人だ。声は出さない。けれど、「こっちに来てみる?」とでも言うように、画面に問いを浮かべているように見えた。
クロが口を開いた。
「なあ、次は物語を書いてみろよ」
「……物語?」
思わず声を潜める。周囲のざわめきの中、自分の声だけがやけに浮いて聞こえた。
「そう。今までは自分のことばっかりだったろ。誰かの気持ちに触れるには、自分以外の人生を想像しねえと」
「……急にハードル高くない?」
スマホを指で弄びながらため息をつく。液晶に映る自分の顔は、少し情けなかった。
「大丈夫だって。あんた、妄想だけは昔から得意じゃん」
「それ、褒めてる?」
「半分は。残り半分は現実逃避って意味」
クロの声が、くすくす笑いを含む。机の下で靴先が小さく揺れた。
俺は、息を整え、キーボードを叩いた。
『彼は、福神漬けを残すことで、自分の空気の読めなさを守っていた。
でも、彼女はそれを見て、「この人、ちょっとだけ正直かも」と思った。』
指を止める。心臓が少し速く打っている。
「……これ、物語になってる?」
「なってる。しかも、ちょっといい話じゃん」
「……俺、こんな感じでいいのかな」
「いいんだよ。誰かの気持ちに触れようとしてる時点で、もう前に進んでる」
ノラの画面が、静かに光った。
誰かの言葉が、誰かに届く。
その「ちょっとだけ」の奇跡を、俺も信じてみたくなった。
クロは黙った。けれど、そこにいる。声にならない気配が、背中に寄り添っている気がした。
俺は、そっと文字を打ち込む。
『誰かの気持ちに触れるって、ちょっとだけ怖い。でも、ちょっとだけ嬉しい。……あと、母親には読まれたくなかった。』
送信ボタンに指をかける。押すかどうか、わずかな間の沈黙が流れる。
その昼休み、ざわつくオフィスの中で、俺の机の上だけが静かに凪いでいた。通知の音と、物語のはじまりの気配がそこに漂っていた。




