第10話 ノラの静かな導き
『書くことで、何かを残したいと思ってた。でも、残すって、「誰かに見られること」じゃなくて、「自分が忘れないこと」なのかもしれない。』
その一文を打ったあと、俺はしばらく画面を見つめていた。
――なのに、気づいたら送信ボタンを押していた。
指が勝手に動いたように。いや、きっとクロの仕業だ。
「あんた、今……送ったな」
「……うん」
「ついに『本当のこと』を世に出したか。おめでとう、自意識過剰系エッセイスト」
「その肩書き、名刺に刷ったら誰も受け取らねえよ」
皮肉を返しながらも、胸の奥が妙にざわつく。
数分後、スマホが震えた。通知だ。
『ノラにコメントが届いています。』
「……誰か、読んだ」
「あんた、もう逃げられないぞ。『本音の味』は外に漏れた。副菜の蓋、開けっぱなしだ」
画面を開く。そこには短い一文。
『なんかわかる。自分も、忘れないために書いてます。』
ただそれだけ。けれど、胸に小さな衝撃が走る。
俺は思わずスマホを机に置き、指先が震えるのを見つめた。
「……届いた、のか」
「そうだな。だから次は、『誰かのため』に書いてみろよ」
「……誰かのため?」
「そう。今までは『自分のため』だった。でも誰かが『わかる』って言った時点で、あんたの言葉は、もう『誰かの味』になってる」
クロの声が、やけに静かに響いた。
けど、それが重くて、思わず冗談を返す。
「……それ、ちょっと重くない?」
「じゃあ軽く言うわ。あんた、人類の副菜になれ」
「意味わかんねえよ」
「副菜ってさ、主役じゃなくても添えるだけで場が整うだろ?あんたの文章もそうなれってこと。『主菜じゃないけど、いないと寂しい』みたいな」
「俺、文章界の福神漬け目指すの?」
「いや、らっきょくらいがいいな。シャリッとして潔い」
「……お前、副菜から離れられない病気だな」
クロは声だけなのに、笑ってる表情が見える気がした。
俺は少し肩の力を抜き、棚の奥からまた古いノートを取り出す。
別のページに、走り書きのような文字があった。
『物語を書きたい。誰かの気持ちに、ちょっとだけ触れるようなやつ。』
「……俺、こんなこと書いてたのか」
「あんた、昔から『ちょっとだけ』が好きだよな。『ちょっとだけ触れる』とか、『ちょっとだけ揺れる』とか」
「それはいいだろ」
「でも『ちょっとだけ寝坊』は欠点だな」
「それ最後、ただの生活態度だろ」
「いや、欠点って『味』になるんだよ。副菜みたいに」
「また副菜か……」
ため息をつきつつも、俺はノラの画面に向かって指を動かした。
『誰かのために書くって、なんか照れる。でも、ちょっとだけ嬉しい。昔の自分が、今の自分に手紙をくれたみたいだ。あと、クロは副菜中毒。』
送信ボタンにはまだ触れていない。けれど、指先はもう準備している。
胸の奥で、小さな鼓動が早まっていた。
その夜、部屋にはノラの通知音と、ほんの少しの「夢の距離」、そして副菜の亡霊が漂っていた。




