第9話 クロと、忘れないこと
夜。
部屋はしんと静まり返っていた。
机の上には、冷めきったコーヒー。ノラの画面は点けっぱなしで、ただ白いまま沈黙している。
昼間の「副菜戦争」の余韻もなく、クロも珍しく口を閉ざしていた。
――けれど、今夜は違った。
「あんた、そろそろ『本当のこと』書けよ」
不意に、クロの声が響いた。
俺は、背もたれに体を預けたまま、まばたきをひとつ。
「……は?」
「副菜の話、あれはあれで面白かった。けど、正直『味の逃避行』だったろ」
「逃避行って言うな。俺、カレーの旅人じゃない」
「いやいや。『福神漬けに空気読ませる』時点で、もう味覚の哲学者だよ」
「……それ、褒めてる?」
「半分は。残り半分は、『めんどくさいやつ』って意味」
軽口を交わしながらも、胸の奥に小さな棘が残る。
俺はふと棚をあさり、埃をかぶったノートを取り出した。
大学時代に使っていた、落書きだらけの古いノート。
ぱらぱらとページをめくる。
途中で止まった。
――大きく「夢」と書かれた文字。
その下は、黒々と塗りつぶされた文章。
「……何これ。俺、絵心ないのに、塗りつぶしだけは全力じゃん」
クロが小さく笑う。
「過去を『黒歴史』って言うけど、ほんとに黒で塗ってんの初めて見たわ」
目を凝らすと、塗り潰しのすき間から文字がにじんで見えた。
『俺は、書くことで何かを残したいと思ってた。』
「……これ、俺が書いたのか?」
「あんただよ。忘れてただけ。塗りつぶしたのも、あんた自身」
「俺、何してたんだろ」
「たぶん、『自分の味』を探してたんだよ。でも、少なくとも答えが『らっきょ』じゃなかったのは確かだな」
「……俺、味覚で人生迷ってたのか」
「そう。でも、迷ってたからこそ、今ここにいる」
ノートを閉じると、重さが手に残った。
俺は改めてノラの画面を見つめる。
白い入力欄に、指が自然と動いていた。
『副菜じゃない。でも、何かを添えたい気持ちは、ずっとあった。』
クロはそれ以上言葉を発さなかった。
ただ、気配だけがそばにあった。
その沈黙は、妙にあたたかい。
俺はさらに文字を打つ。
『書くことで、何かを残したいと思ってた。でも、残すって、「誰かに見られること」じゃなくて、「自分が忘れないこと」なのかもしれない。』
送信はしなかった。
ただ、画面に浮かぶ文字を眺めるだけ。
ぐちゃぐちゃに塗りつぶしたノートの余韻と、少しの笑いと照れが、夜の部屋をゆるやかに満たしていた。




