碧の軌跡
登場人物
御影泉水:主人公。高校1年生。真面目で努力家。水泳部主将。
永瀬茉莉:常に明るく、誰にでも優しい女の子。泉水の幼馴染。高校1年生。
柏木:泉水と同い年の水泳部副主将。
努力家で着実に実力をつけてきた人物。泉水のスランプに気づきながらも当初は戸惑っていたが、泉水が弱さを打ち明けたことで彼を支え、共にチームを引っ張っていく存在となる。
五十嵐コーチ:水泳部の顧問。
1.スランプ
御影 泉水は、水底に沈む太陽の光をぼんやりと見つめていた。練習中のプールは、水が揺らぐたびに光の粒をまき散らし、まるで無数の小さな星が瞬いているかのようだ。かつて、この光景を見るたびに胸が躍った。水に触れること、速く泳ぐこと、そして何より勝つことが、彼にとって世界のすべてだった。
5年前、彼は「天才少年」と呼ばれた。自由形での全国優勝。あの日の表彰台から見た景色は、今でも鮮明に脳裏に焼き付いている。しかし、その栄光は泉水にとって、いつしか重い枷となっていた。
高校1年生となり、彼はこの水泳部の主将を務めている。周囲は誰もが、彼の過去を知っている。そして、彼がかつてのようなタイムを出せていないことも。
「御影、ラスト一本、上げるぞ!」
コーチの声が、水中でも膜一枚隔てたように聞こえる。泉水は小さく息を吐き、スタート台に上がった。いつものように集中し、水の感触を確かめる。練習では、驚くほど体が動くのだ。理想通りのフォームで、水と一体になった感覚で、彼は驚くほどのスピードでプールを駆け抜ける。
「よし、今のタイムなら全国も狙えるぞ!」
コーチやチームメイトの歓声が響く。泉水はタイムを確認し、複雑な笑みを浮かべた。練習では出せる。こんなタイム、いつでも出せるのだ。
問題は、本番だった。
大会のスタート台に立つと、水底の光は憎悪の塊に変わる。体中に氷が張り付いたように硬直し、手足が思うように動かなくなる。練習で完璧だったはずのスタートは鈍り、ターンは崩れる。やがて、呼吸をするたびに胸を締め付けるような苦しさが襲い、頭の中は「まただ」「なぜだ」という絶望的な声で満たされる。結果は、いつも惨敗だ。
主将として、チームを引っ張らなければならない。部員たちの期待の眼差しが痛い。彼らは、昔の輝かしい泉水を知っている。今の、本番で何もできない不甲斐ない自分を、彼らはどう見ているのだろう。泉水は、その問いに答える勇気を持てずにいた。
水に顔を沈めると、自身の吐き出した泡が虚しく上へと昇っていく。水中の静寂は、彼の孤独をさらに深くするようだった。
その日の練習後、泉水が部室で着替えていると、廊下から明るい声が聞こえてきた。 「泉水君、まだいたの?」 振り返ると、そこに立っていたのは、幼なじみの永瀬 茉莉だった。彼女はいつも通りの屈託のない笑顔で、泉水の手元にある水泳バッグを覗き込む。 「今日も頑張ったんだね。お疲れ様!」 茉莉の言葉は、泉水にとって、どこか遠い世界からの響きのように感じられた。彼女は、泉水が水泳を始めた頃からの付き合いで、彼の栄光も挫折も、誰よりも近くで見てきた存在だ。だからこそ、不甲斐ない今の自分を、一番知られたくない相手でもあった。
「ああ、茉莉か。お前こそ、今日部活は?」 泉水は努めて平静を装って答える。茉莉は泉水の隣に並び、彼の顔をじっと見つめた。その瞳には、心配の色が浮かんでいる。 「泉水君、最近、ちょっと元気ないよ?」 茉莉の真っ直ぐな言葉が、泉水の心に突き刺さる。こんな情けない自分を、彼女は一体どう思っているのだろう。昔の輝いていた自分を覚えているだけに、今の自分の姿が恥ずかしかった。 彼は視線をそらし、ごまかすように頭を掻いた。 「別に。いつものことだろ。」 「そんなことないよ。私にはわかるんだから。」 茉莉はそう言うと、泉水の肩にそっと手を置いた。その温かい感触が、泉水の凍りついた心を、ほんの少しだけ溶かすようだった。
夏休みに入り、インターハイ予選が迫る。泉水は主将としてチームの練習メニューを考え、部員を鼓舞する立場にある。しかし、彼自身が結果を出せないため、チームメイトの中には戸惑いや、無言の不満を抱く者もいた。特に、泉水と同い年で、努力を重ねて着実に実力をつけてきた**副主将の柏木**は、泉水のスランプに気づきながらも、具体的な行動を起こせずにいた。
ある練習試合でのこと。泉水はまたも本番で思うようなタイムが出せず、ライバル校のエースに大差をつけられてしまう。試合後、ロッカールームの沈黙の中で、柏木が静かに泉水に問いかける。「御影、俺たちはあんたを信じてる。でも、今のあんたじゃ、チームを引っ張っていけない。」その言葉は泉水の心に深く突き刺さった。主将としての責任と、自分自身の弱さの板挟みになり、泉水はプールサイドでひとり、膝を抱え込む。
どん底に突き落とされた泉水に、顧問である五十嵐コーチが声をかける。五十嵐は泉水の過去の栄光も、現在の苦悩もすべて理解していた。 「泉水、お前は昔、水と友達だった。今はどうだ? 水を敵だと思ってるんじゃないのか?」 コーチの言葉に、泉水はハッとする。いつの間にか、水泳は「勝たなければならないもの」、水は「乗り越えなければならない壁」になっていた。 「お前は、誰のために泳ぐんだ?」 その問いに、泉水は答えられなかった。チームのため? 自分のため? 茉莉のため? すべてが混ざり合い、彼の心は混乱していた。
その夜、偶然泉水と会った茉莉は、彼の沈んだ様子を見て、何も言わずにただ隣に座り続けた。そして、そっと彼の手に、手作りのミサンガを握らせる。「これ、お守り。泉水君なら、きっと大丈夫だよ」。茉莉の温かい手と、真っ直ぐな瞳が、泉水の心を揺さぶった。彼は、茉莉が自分を信じてくれていることを改めて感じた。そして、彼女にだけは、もう弱い自分を見せたくない、と思った。
復活への第一歩
泉水は五十嵐コーチの言葉と茉莉の優しさから、自分自身の泳ぎを見つめ直す決意をする。彼は初めて、柏木に自身のスランプと本番での恐怖心を打ち明けた。柏木は驚きながらも、泉水の正直な言葉を受け入れ、彼を支えることを約束する。主将としての泉水の正直な姿は、チームメイトの心を動かし、水泳部全体に結束が生まれていく。
泉水は、タイムを気にせず、ただ水と戯れるように泳ぐ練習を取り入れた。水中の感覚を研ぎ澄まし、再び「水と友達」になることを目指す。苦しい日もあったが、柏木をはじめとするチームメイトの支えと、茉莉の存在が、彼を奮い立たせた。彼が再び水泳を楽しむ姿に、チームメイトも刺激を受け、水泳部の雰囲気は活気を取り戻していく。
デート、そして芽生える確かな自信
インターハイ予選まであと二週間。泉水は練習で自己ベストに近いタイムを出し、確かな手応えを感じていた。スランプのトンネルの先に、ようやく光が見え始めたのだ。
ある日の放課後、泉水はプールから上がった茉莉を待っていた。茉莉はマネージャーとして、いつも部活の終わりまで残ってくれていた。 「茉莉、今日、この後時間あるか?」 泉水は少しどもりながらも、精一杯の勇気を振り絞って声をかけた。心臓がドクドクと音を立てる。 茉莉は少し驚いた顔をして、それからにこりと笑った。「うん、あるけど、どうしたの?」 「その、来週末、もしよかったら……」泉水は一度言葉を切り、深く息を吸い込んだ。 「映画、見に行かないか? ずっと見たかったやつがあってさ。その、お礼も兼ねて。」 「お礼?」茉莉は首を傾げた。 「いつも、俺のこと、気にかけてくれてるだろ。ミサンガも、ありがとう。」 泉水は照れくさそうに、左手首のミサンガをそっと触った。茉莉の顔が、ふわりと赤くなる。 「うん、行く! 泉水君と映画、楽しみ!」 茉莉の明るい返事に、泉水の胸に温かいものが広がった。水泳のことばかりだった頭の中に、初めて別の光が差し込んだようだった。この一歩が、彼自身のスランプからの脱却だけでなく、茉莉との関係にも変化をもたらす予感に、泉水は静かに胸を高鳴らせた。
映画を見終わり、二人は少し照れくさそうに並んで映画館を出た。感想を言い合いながら、駅までの道をゆっくりと歩く。泉水にとって、茉莉と二人きりで過ごす時間は、水泳のことばかり考えていた毎日とは違う、新鮮でドキドキするものだった。茉莉の楽しそうな笑顔を見るたびに、彼は心の中でそっと微笑んだ。
駅に着き、改札の前で別れようとした時、茉莉が少しだけトイレに行きたいと言った。泉水は「ここで待ってるよ」と伝え、茉莉を見送った。
数分後、茉莉が少し慌てた様子で戻ってきた。その顔には、明らかに困惑の色が浮かんでいる。泉水が声をかけようとした瞬間、出入口付近に立っていた若い男性二人が、茉莉に声をかけてきた。
「ねえ、お姉さんたち、よかったら一緒に飲まない?」 「二人とも可愛いね。時間ある?」
茉莉は明らかに戸惑い、困ったように視線をさまよわせている。一人で対応しようとしているものの、相手は強引で、なかなかその場を離れられない様子だった。
泉水は、その光景を一瞬で理解した。大切な幼なじみが困っている。これまで内に秘めていた、茉莉を守りたいという強い気持ちが、彼の胸の中で湧き上がった。
彼は躊躇うことなく、茉莉の方へ歩み寄った。そして、自然な様子で茉莉の肩に手を置くと、にこりと微笑んで言った。
「ごめんね、待たせちゃった。どうかした?」
茉莉は、突然現れた泉水に、一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに安心したように彼の腕にしがみついた。
ナンパしていた男性たちは、突然の泉水の登場に、一瞬面食らったようだった。泉水の堂々とした態度と、茉莉との親密な様子を見て、彼らはすぐに悟った。
「あ、悪い。人違いだったかな。」 「ごめんごめん。」
そう言い残して、二人の男性は足早にその場を立ち去った。
茉莉は、ほっとした表情で泉水の腕から離れ、深呼吸をした。 「ありがとう、泉水君。助かったよ……ちょっと怖かった。」 彼女は、心底安堵したように微笑んだ。その笑顔は、泉水の胸に温かい光を灯した。
「大丈夫だった? あんなやつら、気にしなくていいよ。」 泉水は少し強めの口調で言い、茉莉の顔を心配そうに見つめた。
茉莉は、泉水のいつもより頼りがいのある態度に、少しドキッとした。幼い頃から一緒にいたけれど、こんな風に自分が守られたと感じたのは初めてだったかもしれない。
「うん、本当にありがとう。泉水君がいてくれて、心強かった。」 茉莉の言葉に、泉水の顔にも安堵の笑みが浮かんだ。彼は、スランプで自信を失いかけていたけれど、今、確かに茉莉にとって、そして誰かにとって、頼りになる存在でいられたことを実感していた。
この出来事は、茉莉の中で泉水に対する意識を少し変えるきっかけになったかもしれない。そして泉水にとっても、スランプを乗り越えつつある今、大切な人を守れたという経験は、自信を深める大きな一歩となっただろう。
この後、二人の間には、これまでとは少し違う、温かい空気が流れるのだった。
そして、告白へ
駅のロータリーに出ると、空は深い青と淡い紫が混じり合う、幻想的な色合いに染まっていた。街灯の光がちらほらと瞬き始め、昼間とは違う、少し大人びた雰囲気が二人を包み込む。泉水の心臓は、空の色のように複雑に、そして期待に満ちて鼓動していた。
泉水は、ゆっくりと茉莉のほうへ向き直った。決意は固い。もう、情けない自分を隠すのはやめだ。水中で得た自信と、茉莉を守れたという温かい実感が、彼の背中を押す。
「ねぇ、好きだよ。茉莉のことが好き。世界で一番好き。」
俺はそう、一息で想いを茉莉に伝えた。
茉莉は、目を見開いて泉水をじっと見つめ返した。その瞳に、驚きと、戸惑いと、そして微かな動揺が入り混じっているのが見て取れた。
二人の間に、張り詰めたような沈黙が落ちた。
街の喧騒、車の走る音、人々の話し声が遠くで聞こえるけれど、泉水には何も耳に入ってこない。ただ、茉莉の息遣いと、自分の心臓の激しい鼓動だけが、耳元で響いているかのようだった。数秒、いや、もしかしたら数分だったかもしれない。永遠にも思えるその短い時間の中で、泉水の胸には、期待と不安が交互に押し寄せた。もし、この告白で、これまで築き上げてきた幼なじみとしての関係まで壊してしまったら──そんな考えが頭をよぎる。やがて、茉莉がゆっくりと視線を伏せた。彼女の頬が、夕焼けに染まる空の色のように、淡い赤色に染まっていく。 「泉水君……」 絞り出すような小さな声で、彼女は泉水の名前を呼んだ。その声は震えていたけれど、拒絶の色はなかった。
泉水は息をのんで、茉莉の次の言葉を待った。
茉莉は、再び顔を上げ、潤んだ瞳で泉水を真っ直ぐに見つめた。そこにはもう、戸惑いだけではなかった。 「私も……」 途切れそうになる言葉に、泉水は耳を傾ける。 「私も、泉水君のこと……ずっと、大切だった。いつも、頑張ってる泉水君を見てたから……だから、私も、好きだよ」
茉莉の言葉に、泉水の全身から力が抜けた。胸の奥から、じんわりと温かいものが広がり、凍りついていた心が溶けていくようだった。スランプの重圧、主将としての孤独、そして何よりも茉莉への秘めた想い。全てが報われた気がした。
「茉莉……」
泉水は一歩、茉莉に近づいた。茉莉は目を閉じ、そっと泉水の腕の中に飛び込んだ。 彼女の温かくて柔らかい感触が、泉水の腕に伝わる。街の光が瞬き、深い青と淡い紫が混じり合う空の下、二人の間に、もう言葉はいらなかった。ただ、互いの体温を感じ合うその瞬間が、すべてだった。
泉水は、ゆっくりと茉莉の背中に腕を回し、優しく抱きしめた。彼女の柔らかな髪の香りが、彼の心を落ち着かせる。この温かさ、この安心感。これが、彼がずっと求めていたものだった。
彼にとっての『碧の軌跡』は、水泳のタイムだけではなかった。失われた自信を取り戻し、大切な人を守り、そして何よりも、このかけがえのない想いを伝えることだったのだ。
最終章 碧の軌跡
インターハイ予選当日。会場のプールには、これまでにない熱気が満ちていた。ざわめく観客席、飛び交う声援、そして水しぶきの音。泉水はスタート台に上がった。以前なら、この全てが重圧となって、彼の身体を鉛のように固めていただろう。だが、今の彼の心は、不思議なほど穏やかだった。
水を前にした泉水の目は、研ぎ澄まされていた。スランプのどん底から這い上がる過程で、彼は五十嵐コーチの言葉を何度も反芻した。「お前は昔、水と友達だった。」タイムや勝敗に囚われ、水に背を向けていた自分。しかし、今は違う。水はもう敵ではない。触れるたびに、冷たいはずの水が、温かい仲間のように感じられた。泉水は深呼吸し、ゆっくりと水に触れる。その指先から、水の命が彼の中に流れ込んでくるような感覚がした。
「ピー!」
スタートの合図が鳴り響く。泉水は完璧なスタートを切った。水中に飛び込んだ瞬間、世界は彼と水だけになった。抵抗を感じるどころか、水が彼の身体を優しく押し進めてくれる。一本一本のストロークに、全身の神経を集中させる。まるで水と会話するように、水流を読み、最も効率の良いフォームを刻む。彼の脳裏には、柏木をはじめとするチームメイトの顔が浮かんだ。練習で汗を流し、互いを信じ、支え合ってきた仲間たち。そして、何よりも、スタート台を見守るスタンドの茉莉の笑顔。
彼は感謝を込めて泳ぐ。
「行け、泉水!」 「主将!」
チームメイトの声援が、水を通して泉水の心に届く。この泳ぎは、もう自分一人のためではない。彼が水泳に見出した本当の意味。それは、水と一体となり自己を解放する喜びであり、仲間と共に困難を乗り越え、共に勝利を目指す絆だった。そして、彼を信じ、隣にいてくれる茉莉への感謝の証でもあった。
泉水はラストスパートをかけた。身体が軋むほどの疲労を感じても、彼の心は燃え上がっていた。ゴールにタッチした瞬間、電光掲示板に表示されたタイムを見て、会場がどよめいた。
自己ベスト更新。そして、インターハイ出場決定。
泉水の目に、熱いものが込み上げた。タイムが出た喜びだけではなかった。それは、長かったスランプのトンネルを抜け、再びこの場所に戻ってこられたことへの感動。そして、彼の周りに、共に喜びを分かち合う仲間たちがいることへの、深い感謝だった。
プールから上がった泉水を、チームメイトたちが駆け寄って囲んだ。柏木が彼の肩を叩き、五十嵐コーチが静かに頷いた。「よくやった、泉水。お前は、本当に強くなったな。」
その中で、泉水は一人の姿を探した。スタンドの最前列で、顔をくしゃくしゃにして泣きながら、ミサンガをつけた自分の手首を握りしめている茉莉の姿を見つけた。目が合った瞬間、茉莉は精一杯の笑顔で、親指を立てた。泉水もまた、彼女に向けて、これまでのどんな勝利よりも晴れやかな笑顔を返した。
大会後、泉水と茉莉の関係は、水面を滑るように穏やかで確かなものになった。とある週末の午後。二人は、泉水の部屋で、たわいもない話をして過ごしていた。午後の柔らかな陽光がカーテンの隙間から差し込み、部屋全体を温かい光で満たしている。 「ねえ、泉水君。あの時、私に告白してくれて、本当に嬉しかったんだよ?」 茉莉がソファに寄りかかり、泉水の腕にそっと頭を乗せた。その声は、甘く、泉水の心をくすぐる。 「俺もだよ。まさか、茉莉が俺のこと、好きだなんて思ってなかったから……」 泉水は照れくさそうに、茉莉の髪を優しく撫でた。柔らかい髪の感触が、彼の指先に心地よい。 「ふふ、泉水君は鈍いんだから。」 茉莉は少し笑って、泉水の胸に顔を埋めた。泉水の鼓動が、茉莉の頬に伝わる。 「でも、あの時、泉水君が『世界で一番好き』って言ってくれた時、本当に嬉しくて……。あ、そういえば、あの日の空、すごく綺麗だったよね?」 茉莉が身を起こし、キラキラとした瞳で泉水を見上げた。 「ああ。青と紫が混じってて、不思議な色だったな。……でも、茉莉の顔の方が、ずっと綺麗だったけどな」 泉水が少し照れながら言うと、茉莉の顔が真っ赤になった。 「な、なに言ってるの、もう!」 恥ずかしそうに泉水の胸を軽く叩く茉莉の手を、泉水はそっと握り返す。 「本当のことだろ。……お前が俺のそばにいてくれるから、俺、また泳げるようになったんだ。俺の泳ぐ意味は、もう、お前にもあるんだよ」 泉水が真っ直ぐな瞳で告げると、茉莉の瞳が潤んだ。彼女は何も言わず、ただ泉水の手をぎゅっと握りしめた。その小さな手から伝わる温かさが、泉水の心を満たす。 泉水は、ゆっくりと茉莉の顔を覗き込み、そして、そっと唇を重ねた。初めて触れる、柔らかくて甘い感触。二人の間には、もう言葉はいらなかった。ただ、互いの存在を確かめ合う、愛おしい時間が流れていく。
また別の休日にはカフェで、公園で、たわいもない話をする二人の間には、いつも温かい空気が流れていた。茉莉は、泉水が水泳を心から楽しんでいる姿を見て、心底嬉しそうだった。
水泳部には、泉水の復活が大きな刺激となった。彼は主将として、経験を活かし、チームメイト一人ひとりと向き合うようになった。「才能の限界」という壁にぶつかりそうになっている後輩がいれば、自分の体験を語り、寄り添った。「水と友達になる」という彼の哲学は、新しい水泳部のモットーとなり、部全体が新たな活気に満ちていた。
泉水は知っている。水泳は、これからも彼の人生に、喜びと苦しみ、そして無限の可能性を与え続けるだろう。だが、もう彼は一人ではない。水と、仲間と、そして愛する茉莉と共に、彼はこれからも、自分だけの「碧の軌跡」を泳ぎ続けていくのだ。