ヴィクトワールの戴冠
――彼女は、生まれながらの女王だった。
ヴィクトワール・アマリリス・タイガーアイ。
この名を知らぬ者はオブシディア王国にはいない。
内から溢れ出るような自信に裏打ちされた絢爛たる美貌、名門タイガーアイ家の特徴である危険で魅力的な虎の目。緩やかに波打ってその背を流れ落ちる金の髪は、王国で一番の美しさと言われている。
建国の時から続く名門にのみ許された黒曜石の黒。虎目石を身に宿す一族が許されたのはその中で最上級の漆黒に次ぐ濡羽色。そんな黒をその肢体に纏った彼女はまるで夜の女王のようだった。
「お金じゃ解決できない? 貴方がそれに足るだけの財を持たないだけでしょう!」
王国一、それこそ王家であるオブシディアンよりも財産を有するタイガーアイ家の令嬢として、惜しみなく最上級のものだけを注がれ、それを維持し、増やす術を学んだ彼女はその個人資産だけで簡単に小さな国を買えてしまう。
「買えるけど、買わないわ。だってつまらないもの。けれど、そうね……どうせ買うなら、オブシディアがいい」
そんな不遜すら許される、確たる実力が彼女にはあった。
それは、他家に嫁ぎ、世継ぎをもうけ、家を維持する穏やかで大人しい女主人になることを求められ、ひたすらに抑圧されてきた貴族令嬢たちの中では異質過ぎた。
「女は静かに刺繍でもしていればいいって? ハッ、笑わせないで頂戴!」
頻繁に街へ出て、経済や流行、世界情勢の先端を見極め、投資や融資を行い、時には挑戦的な事業にすら私財を投じる彼女に婚約者である第一王子が苦言を呈した際の返答である。
「わたくしは、ヴィクトワール・アマリリス・タイガーアイよ」
虎目石は財を築くもの。
その血を、きっと歴代の誰より色濃く継いだ彼女は、今までのタイガーアイの女たちとは比べ物にならないほど気が強く、意志がはっきりとしていた。
渋面になる第一王子に、彼女は「それに」と続ける。
「わたくしたちの財力を求めて、そちらから膝をついて乞い願ったのでしょう?」
不敬だぞ、と絞り出すような声。ヴィクトワールは「もっとはっきり仰って?」と華やかに微笑んだ。
「タイガーアイに去られたら、オブシディアンに何ができるの?」
タイガーアイ家は、王家の金庫番である。
初代から受け継がれてきた金を稼ぐ才。それを認められ、国庫の中身に触れることを許され、王家の財を動かして、増やすことを求められた富の象徴。
彼女が未だ王子の婚約者でいるのは、彼女自身の気まぐれにすぎないのだ。
その「役目」を持つタイガーアイ家は、王国貴族の格を表す色位において、許された色の通りに最高の「濡羽」を戴いている。同格の家は他にダイアモンドにエメラルド、ラピスラズリとローズクォーツだけ。そのどれもがタイガーアイと同じく、各々の「役目」を持っている。
類い稀なる頑強さを有するダイアモンドは軍事において比類なき強さを誇る。
大地の声を聞き届ける力を有するエメラルドは自然環境を整える。
天候を操るラピスラズリはその力で国土を助け、守る。
そして癒し手のローズクォーツは医術をもって、民を救う。
どこが欠けても、オブシディアは確実に動揺する。他の濡羽家では補えず、それ以下の黒橡、濃墨、薄墨、では代わりになるなど到底無理な、太すぎる国家の柱だ。
彼らがオブシディアン家を王として仰ぎ、敬うのは、建国の英雄である初代国王への恩義があり、ずっと続いてきた互いを尊重する関係があってこそである。
そのことは、オブシディアンの子供なら男も女も関係なく、言葉も分からぬ幼少期からみっちりと叩き込まれるはずだ。
それがどうしたことか、第一王子であるイレール・ヴォリュビリス・オブシディアンは王家こそ至上と思い込んでいるらしい――全てを受容する黒、というその力は、他の色があってこそ発揮されるものだというのに!
「漆黒を宿すこの僕に、尽くそうという気概はないのかヴィクトワール」
「ないわ」
「っ、女は主人を敬い、支え、いかなる時も立てるものだぞ! 貴様は淑女教育で何を学んだのだ!!」
「少なくとも、女に立ててもらわなきゃ自立もできない男を敬うなんてことは習わなかったわね」
「何だと?!」
言葉通り、目も髪も見事な漆黒のイレールは、社交界では数多の令嬢から熱い眼差しで見つめられている。漆黒を宿す、それはこの国では非常に重い意味を含んでいるのだ――全ての色彩を受容し、その上に立つ……王たる資格だ。
彼と婚約者であるヴィクトワールが上手くいっていないのは有名な話で、それならば我が家の娘を代わりに……という者が後を絶たないのだった。
本来ならばそれはヴィクトワールへの最悪の侮辱であり、彼女の立場なら不快を示す仕草一つで、イレールに差し出された哀れな令嬢たちの命を取ることができる。
本来ならば、そうするのが正しいのだ――しかし彼女はあのヴィクトワール・アマリリス・タイガーアイである。
春のある日のことだった。
「こんなこと、っ、あ、だめです、殿下、あ、まって」
「ふ、口ではそんなことを言っても、僕に触れられて嬉しいのだろう?」
第一王子から政務の補佐をせよ、との書簡が届いた。それを受け翌日すぐに登城したヴィクトワールが使用人に案内されてイレールの執務室に踏み込んだ瞬間目にしたのがそれである。
「――あらあら、このわたくしを呼びつけておいて、他の女との逢瀬に励んでいらっしゃるとは何事かしら?」
現れたヴィクトワールに、その令嬢は顔を蒼白にして動きを止めた。その口が震えながらも「おゆるしを」という言葉を発そうとしたとき、イレールの嘲笑がその努力を蹴散らした。
「遅かったな、ヴィクトワール。これはお前と違って『女』というものをよく心得ている。お前の手本になるだろうと思ってな」
彼が堂々とそう言った以上、哀れな令嬢が「お許しください」とヴィクトワールの足下に額ずき、許しを請う機会は失われた。真っ青な顔でぶるぶる震えて、虎の口が開くその時を待つしかない。
そう、とヴィクトワールは淡白に答え、つまらなさそうに小首を傾げた。
「それでわたくしの気を引いたつもりでいるのなら滑稽なことね」
「は……」
「良くてよ、わたくしの心得る『女』を教えましょう」
そうしてそのまま、長椅子に腰かけるイレールにカツカツと詰め寄ったヴィクトワールは、その特徴的な虎の目を一度も瞬かないまま――獲物を狙う獣のそれだ――白百合のような繊手を振り上げ、そして、振り下ろした。
――パシン、と乾いた音がして、頬が痛みと熱を持って初めてイレールは頬を張られたことに気づいた。
この女、と溶岩のように沸き上がった怒りのまま、口を開こうとした彼を目の前の虎の目が凍てつく眼差しで見下ろしていた。それがあまりにも冷たいので、イレールは思わず喉に言葉を詰まらせる。
「わたくしたち『女』を、道具としか考えていない男には正当な怒りを」
溶岩よりも熱く、北の果ての万年氷よりも冷たい怒りの声だった。
イレールの喉がひりつく。虎に睨まれ、呼吸もままならない。
「その呪縛から逃れられない『女』には、選択の機会を」
そう言ってヴィクトワールはイレールの横で震えていた令嬢にその手を差し伸べた。淡い青緑の目をした令嬢は、泣きそうな顔でヴィクトワールを見上げる。
「さあ、選びなさい。貴方を道具としか思わないそちらか、わたくしか。言っておくけれど、わたくしは女の味方よ。貴方の選択が何であれ受け入れましょう」
その言葉に、令嬢は泣きそうな顔をぎゅっと顰めて、震える手でヴィクトワールの手をとった。途端、優しく、そして力強く握り返されて涙がこぼれ始める。
「いい子ね」
「ひ、う、ヴィクトワール様、お許し、うう、おゆるしください」
「ええ、許すわ。貴方の全てを、このわたくしが」
「うわぁぁぁんっ!!」
ついに激しく泣き出した彼女を支え、ヴィクトワールは「それでは」と執務室を辞した。冷たい虎の目が彼を一瞥して、通り過ぎていく。
頬を赤く腫らしたイレールは、彼女の姿が見えなくなってもしばらく、そのまま呆然としていたのだった。
――――――
「お姉様、何かお悩みが?」
「……そうね、悩みと言うほどのものでもないのだけれど」
「……?」
ヴィクトワールが個人所有している避暑地の館でのことである。
ヴィクトワールは夏に相応しいさらりとした白のドレスを身に纏い、涼しい風の流れ込む部屋で本を読んでいた。
その足元には、甘えた子猫のように彼女を見上げる青緑の瞳の令嬢の姿がある。
絨毯の上に座り込み、すぐ横の椅子に座った美しい女性をきらきらと愛おしげに見上げていた彼女は、ページを繰る手が止まっていることに気づいて声をかけたのだった。
曖昧に苦笑して答えたヴィクトワールに「何かわたしにできることがあれば」と唸る。
「いいのよ、子猫。貴方はいてくれるだけでわたくしの癒しだわ」
「お姉様ったら……もう」
わざとらしくむくれた彼女にヴィクトワールはクスクスと笑った。優美な手が伸びてきて、繊細な指先が少女の顎を掬い上げる。
「拗ねないで、可愛いレナ。分かったわ、その愛らしいふくれ顔に免じて、わたくしの話を聞かせましょう」
苦笑混じりの吐息に、レナはパッと顔を輝かせた。表情のころころと変わる様子にヴィクトワールはまた笑う。
二ヶ月前、イレールのところから連れ出してそのまま懐に引き込んだクリソプレーズ家の少女は、自身に『女』としてイレールを誘惑するよう強いた実家と決別することをヴィクトワールに宣言した。
それは、今まで大人しく、完璧に躾けられた少女として生きてきた彼女にとって途轍もない気力を要する決断であったと思う。しかし彼女は、その緑玉髄の目をギラギラさせて言ったのだ。
「ヴィクトワール様、あのね、今なんです、きっと、今しかないんです。私、ずっと憧れていた、自由に憧れていました。だから、今、こうするんです」
そう言って震えながらペンを握った“レナ・クリソプレーズ”は『もう二度と帰りません』と締め括った手紙をクリソプレーズ家へ送ったその瞬間に“レナ”という一個人になったのだった。
それを思い出してヴィクトワールは、ほぅ……と小さく吐息を漏らす。大人しく言葉を待っているレナの頭を優しく撫でた。
「……わたくしが、未だイレールの婚約者でいる理由。そろそろわたくしも決断をしなければと思ってね」
「理由……?」
「ええ。だって、このわたくしが、ただ王家と、濡羽を戴くタイガーアイ家とが交わした契約だからと大人しくあの人の婚約者でいると思う?」
苦笑混じりにそう言うと、レナは目を丸くしてふるふると首を横に振った。
「思いません! だってタイガーアイ家やお姉様なら、王位継承権第一位の人間を変えさせてしまうくらい簡単でしょう?」
「ええ、その通りよ。濡羽の家はあと四つあるけれど、やはり何をするにもお金ですもの、タイガーアイに敵うものはいない」
そう言うと、レナは大きな目をキラキラさせて「格好いい」と笑みを深める。ありがとう、と笑いかけ、話を続けた。
「わたくしはね、オブシディアンを試しているの」
「王家を、試している……?」
「ええ」
囁くように頷いて、ヴィクトワールは窓に目を向けた。外からは、レナと同じようにヴィクトワールが保護した少女たちが楽しそうに戯れる声が聞こえてくる。
ここは二階だから彼女たちの姿は見えないが聞こえてくる声だけで、この安全な場所で思いっきり遊ぶ少女たちの姿が目に浮かぶようだ。
彼女たちのためにも、このままではいられない。ヴィクトワールはそう考えていたのだった。
「世襲は、継承における合理的なシステムだわ。血縁ほど、自分たちの利益不利益を共有する集団はない。そして、血縁は伝統や価値を受け継いでいくにも非常に適しているわ。勿論例外はあるけれどね……その少しの例外に目を瞑って続けるほど、理に適った継承の方法なのよ」
優等な血は重ね掛けしていけば更に磨かれていく。貴族王族に混じりけの無い青い血が尊ばれるのは、その血が持つこうした「強さ」を彼らがよく理解しているからだ。
「けれど、時にそれは腐敗を招く。血と共に継いできた慣習や知恵、精神を失えば、世襲の意味は形骸化していくの」
まあ一所にとどまった権力が腐敗しないことなんてそうないのだけれど、とヴィクトワールは嘲笑交じりに付け加えた。
それを見上げていたレナは、第一王子イレールのことを――このままいけばそのまま立太子され、いずれ王になる男のことを思い浮かべる。
「……今のオブシディアンはそうかもしれない、ということですか?」
考えて、そう言うと、ヴィクトワールは窓の外に向けていた優しげな目のままレナを見下ろし「ええ」と頷いた。
「タイガーアイ家が認め、尽くすと決めた英雄王の血筋。それがああなってしまっては、もう、別物と言っても過言ではないわ」
確かにあの漆黒は憧れとは程遠い、執着や傲慢が染みついた色だった。
レナは、ごくりと唾を飲み、ヴィクトワールの手を握る。
「私が、もしただお一人を“王”と仰ぐのなら――お姉様がいい」
彼女の手をとり、自分の意志で生家と決別したその時から、レナが最も尊く、強く美しいと思う存在はヴィクトワール・アマリリス・タイガーアイただ一人になったのだ。
思いがけないレナの言葉に目を丸くしたヴィクトワールは、やがて心底嬉しそうな顔で「それは素敵ね」と笑った。
「本当に、とても素敵なことだわ」
虎の目が、狙いを定めて煌めいた。
――――――
「――と言うわけだが」
「北の女角族がまた国境で暴れているらしい」
「またか、あの野蛮人どもめ!」
「幸い、辺境伯のあの見せしめが効いているらしい。前ほどの勢いはないようだ」
「確かにあれは良かったな。流石だ」
「そう言えばマルディンの商人が――」
夜会のざわめきは新鮮な情報でできている。
その全てが何かしら価値のあるものだ。
ヴィクトワールは、星屑のようなダイアモンドを散らした濡羽色のドレスの裾を優雅にさばき、夜空の如し煌めきを振り撒いて会場を悠々と泳ぐように歩いていた。
結い上げた金の髪には黒に染めた大輪の薔薇と最高級の真珠の粒を飾り、唇には真っ赤な口紅を塗っている。館で彼女の支度を手伝った少女たちはその美しさにはしゃいでいた。
誰もがたじろぐ絢爛な美貌だった。
彼女は――虎の目をした夜の女王だった。
今夜は王家が主催する星見の宴である。
オブシディア王国では、全ての宝石は夜が降らした星から生まれたと言われており、宝石の名を持つ貴族たちはその星を血に宿していると伝えられていた。
そのため、夏の星見の宴は何より煌びやかな夜会であると同時に重要な儀式でもあった。
本来なら、ヴィクトワールは濡羽を戴くタイガーアイ家の令嬢として、そして漆黒を身に宿すオブシディアンの王子の婚約者として、彼のエスコートでこの会場に足を踏み入れるはずだった。
しかしイレールは、最近出会ったアメトリン家の令嬢に夢中であり、彼女を連れて会場入りしている。まあ、いつものことだ。
そのようなことは分かりきっていたヴィクトワールは最初から自分の馬車で、そして厳正なるくじ引きの結果付き添いの権利を獲得したレナを連れて(ヴィクトワールの庇護下にある少女たちは戦場の兵士の目をしてくじ引きをしていた。当たりを引いたレナの歓声はそれはすごいものだった)会場へやって来た。
付き添いのレナは、ヴィクトワールが彼女自身に「これが好き」と選ばせた白とミントグリーンのドレスを身に纏っている。
その首には彼女が愛し、信じる女王が誰なのかを周囲に強調するように虎目石の首飾りが輝いていた。
今まで強いられていた化粧を捨て去り、彼女の美しさが映える化粧を施したレナはまるで初夏の夜の妖精のようである。
「怖い?」
「……いいえ、怖くありません。だって隣にお姉様がいるんですもの」
腕を絡めて訊いたヴィクトワールに、レナは愛らしく勝ち気に笑って「むしろわくわくしていますわ」と答えた。
「ふふ、よろしい。その意気よ、レナ」
「ええお姉様」
クリソプレーズ家の者たちが憤怒で顔を赤くしてレナを見ていた。しかしレナは彼らに一瞥もくれることなく真っ直ぐ歩いていく。
その横から、頭一つ分背の高いヴィクトワールが流し目を向け、からかうように笑いかければ、青緑の瞳の一族は一言も発することができずに俯くしかなかった。
娘を意志のない道具としてしか見てこなかった報いである。レナは二度と彼らを見ない。それでいいのだ。
そして参加者たちが明かりを極力減らした夜の庭に出て、星を眺めながら歓談を始めた頃。
「見つけたぞ、ヴィクトワール」
「――ご機嫌よう、殿下」
夜闇に紛れるような漆黒の――この国で最も高貴な者たちのみが纏うことを許される最上の黒の衣装に身を包んだイレールが現れた。
その隣には、大粒の紫黄水晶を胸元に飾った薄墨色のドレスを着た美少女が並んでいる。紫の右目に橙の左目。それはアメトリン家の特長だった。
自分の隣でレナがピリピリする気配を感じ取って「こら」とその頬を撫でる。薄桃色の唇を尖らせたレナは小さくフンッと息を吐いた。
そのやり取りに顔を顰めたイレールは、しかし気を取り直すように一つ咳払いをして尊大な笑みを浮かべて見せる。
「今宵はお前に伝えてやらねばならないことがあってな」
「あら奇遇ですこと。わたくしも、殿下にお伝えしたいことがございます」
ヴィクトワールの答えにイレールは「……何だと?」と不愉快そうに目を細める。それに対してヴィクトワールは妖しく微笑むだけ。
「……ふん、まあいい、どうせ他愛ない恨み言だろう」
つまらなさそうに吐き捨てた彼へ、腕を絡めたアメトリン家の令嬢が――フランセットという名であったとヴィクトワールは記憶している――何か囁きかけた。
途端、イレールの表情が目に見えて明るくなる。彼はそのまま、会場に響き渡る声で「心して聞け、ヴィクトワール!!」と言った。参加者たちが何事か、とざわめく。
「僕はお前との婚約を破棄する!! 漆黒を持つこの僕を敬わぬのは王家に対する侮辱と同義だ! よってお前を国外追放する!!」
イレールが堂々と宣言した庭の中央から離れた席にいた国王夫妻がぎょっとした顔で腰を浮かせた。イレールはそれに気づかず「今この場で跪いて許しを乞うのなら幽閉の刑に変えてやってもいいぞ」とのたまった。
この突然の宣言により、星見の宴は喜ばしくない喧騒に満ちて元の静謐さを失った。しかしその中心にいるヴィクトワールとレナは至極落ち着いた表情をしている。
「お父様とお母様に欠席するよう進言しておいて良かったわ」
「そうですね、こんなことを直接耳にされたら物凄く怒りますでしょう?」
「ええそうね。まあ、もうかなり激怒しておられるのだけど」
呑気にそんなことを言っている二人に、イレールがわなわなと唇を震わせて「な、何故そんなに平然としていられる?!」と叫ぶ。
美しい虎の目を丸く見開いて首を傾げたヴィクトワールは、イレールの言いたいことに気づいて堪えきれないと言ったふうに笑い始めた。
「何が可笑しい!!」
「ふっ、ふふっ、ごめんあそばせ。殿下が、わたくしが何も知らないと思っておられるのだと気づいたら堪らなくなって」
「は……? ま、まさか」
「ええ、ふふふっ」
頷いて、目尻に浮かんだ涙を指先で拭ったヴィクトワールはするりと腕を組んだ。
「全て、存じ上げていてよ?」
夜会と同じ。公の場のざわめきは全て新鮮な情報でできている。そして、摘み上げたそれを正確性のあるものにするだけの金は、ヴィクトワールの手に十分あった。
アメトリンの謀略も、イレールの新しい恋人の狙いも、全て、彼女には筒抜けだった。
彼が星見の宴で婚約破棄を宣言するつもりだと知って、ヴィクトワールは受けて立つことにした――それ以上の宣言を携えて今日この場へやって来たのだ。
顔を真っ赤にして言葉にならない声を発するイレールに微笑みかけたヴィクトワールは「次はわたくしの番よ」と告げた。
レナが目をキラキラさせてヴィクトワールを見つめている。館で大人しく待っている少女たちも、その館を守るために取り囲む褐色の肌の女たちも皆、彼女のその宣言をじっと待っていた。
「――わたくしは、女帝になるわ」
誰もが耳を疑った。
しかし、同時に誰もが彼女の頭の上に輝かしい帝冠を幻視した。
「この国を出て、北の地に女たちの帝国を興すわ」
今宵一番美しく笑って、ヴィクトワールは言葉を続ける。
「わたくしは新たな時代の訪れを宣言する。女たちの時代よ!」
夜空で星が流れた――変革の時だ。
その光を纏うように、彼女は笑う。
「――だから貴方もいらっしゃい。誰も貴方を縛らない、わたくしの国へ」
紫と橙の双眸から、思わずと言ったようにほろりと涙がこぼれ落ちた。
「ほんとう、に?」
「なっ、フランセット! お前何をっ……!」
震える唇からこぼれた声を、ヴィクトワールはしっかり拾い上げた。今宵のどの星より鮮烈な、虎目石が煌めく。
「わたくしを誰だと思っていて? ヴィクトワール・アマリリス・タイガーアイよ! わたくしの財で解決できないことはないの」
家に縛り付ける鎖が解けないのなら引きちぎってしまおう。
追手を退ける武力が欲しいのなら有り余る財力で買おう。
一人きりで眠れる部屋が欲しいのなら一人住まいの屋敷だって用意しよう。
やりたいことがあるのなら好きなだけ夢中にやらせよう。
理不尽な怒号や暴力から逃れたいのなら――いっそこの国を飛び出そう。
「生家から離れるなんて簡単よ――何だって叶えてあげるわ、フランセット」
「っ、ヴィクトワール様っ!!」
泣きながら飛び出してきた紫黄水晶の少女を抱きしめる。イレールの怒声で衛兵たちが雪崩れ込んできた。
ヴィクトワールはレナの腰を引き寄せて、よく通る声で彼女を呼んだ。
「出番よ、ジージャオ!!」
直後、衛兵の塊が吹き飛ぶ。
「――フゥの女王がジージャオを呼んだ」
そこには、額に角飾りを着けた野生的な美女が拳を振り上げた体勢で立っていた。
健康的な褐色の肌に艶やかな銀の長髪に、砕いた青の石粉で縁取った金の瞳。裾を毛皮が飾る鮮やかな青の衣には、一族の伝統の草木模様が織り込まれている。
誰かが「女角族だ」と呟いた。次の瞬間には残っている衛兵が彼女に襲いかかる。
「お前たち、弱い」
一閃。暴嵐のような体術だった。瞬きの間に十を超える衛兵が吹き飛ばされ、宴の庭に転がる。残る衛兵も全て、すぐにそうなった。
美しい獣のような彼女に手も足もでなかった彼らが転がる中を、ヴィクトワールはレナとフランセットを引き連れて悠々と歩む。
虎の目の女王が近づいてくるのに気づいたジージャオは目を輝かせて「フゥの女王」と自らの額の角飾りに指先を当てる女角族の最敬礼をした。
「ありがとう、ジージャオ」
「女王のためなら、ジージャオ、いくらでも戦う」
「ふふ、嬉しいわ。でも今日はここまで」
そう言って、ヴィクトワールは目でフランセットの存在を示した。彼女は初めて見る異民族の女を見上げて、その虹彩異色の目を丸くしている。
「新しい小猫。珍しい目。女角族では見ない、綺麗だ。ジージャオは歓迎する」
そう言ってジージャオは柔らかく笑った。
「そういうわけだから帰らなきゃいけないの」
「分かった。シャンディエンを呼ぶ」
「ありがとう、助かるわ」
ヴィクトワールが微笑むと、ジージャオはその褐色の頬を少し赤らめた。無敵の女族長である彼女は、ヴィクトワールの微笑みにめっぽう弱いのだった。
「っ、待て、このまま帰すと思うか?!」
「待てイレールッ! いい加減にしないか!」
「な、父上! 何故です!!」
「タイガーアイの機嫌を損ねればオブシディアは終わりだ! 何てことを!!」
茫然自失から復活し、追い縋ろうとしたイレールへ、重たい衣装を引きずってやってきた国王が激怒の一喝を浴びせる。
それから国王は「待ってくれ、ヴィクトワール」と彼女の前に膝をついた。追い付いた王妃がその後ろで目を丸くする。
「ご機嫌よう、国王陛下。申し訳ありませんが、わたくし、もう待つ気はございませんの」
「っ、愚息のしたことは謝罪する! 継承権を剥奪したって構わない! 頼む、どうかこの国を見捨てないでくれ!!」
「あら、勘違いなさらないで陛下」
必死に言葉を並べる国王へ、ヴィクトワールは目線の高さを合わせることもせず笑って言い放った。
「わたくしはこの国を見捨てるのではないわ。あなた方オブシディアンを見捨てるのよ」
絶望したように言葉を失う国王。何やら騒ぎ続けるイレールを無視して、ヴィクトワールはジージャオへ頷いた。
「任せろ」と答えたジージャオは首に下がる白い笛を口に当て、ピィィィィッと高らかに鳴らした。
直後、星見の庭に大きな影がかかる。星の明かりを遮ったのは何だ、と見上げた人々はそこにいたものに悲鳴を上げた。
「来いっ、シャンディエンッ!」
ピィィィィッと、笛と同じ鳴き声を返しながら降りてきたのは、金色の羽毛に包まれた巨大な鳥だった。その額には立派な銀色の一本角がある。女角族が友とする、古代鳥の血を引く巨鳥、銀角金鳥だ。
真っ先に銀角金鳥の背に飛び乗ったジージャオの手を借りてヴィクトワールが慣れた様子で、次にレナが慎重に、そして恐る恐るフランセットが、その背に身を預ける。
「それでは皆様ご機嫌よう! わたくしは夜明けを迎えに行くわ!」
金の双翼を広げてシャンディエンは飛び立った。その背に、新たな時代の王を乗せて。
――――――
――彼女は、生まれながらの女王だった。
ヴィクトワール・アマリリス・タイガーアイ。
この名は今日から新帝国の女帝の名として大陸全土に知らしめられる。
「女帝は議会で決めれば良いわ。世襲なんて腐敗を招くだけよ。よくご存知でしょう? そのとき一番強い女が冠を戴くのなら、誰も文句は言わないわ」
その言葉通りに、新たに開かれた女たちの議会。全会一致で帝冠をその頭に戴いたのは、この地を買い上げ、行き場を失っていた女たちをに拠り所を与えた虎の目の女王だった。
「お金じゃ解決できない? まさか! わたくしは全てをお金で解決したわ」
国土すら買い上げてね、と彼女は悪戯っぽく微笑んだ。
ヴィクトワールは領有権が曖昧で周辺国の小競り合いが絶えなかった北の地を丸ごと買い上げ、開拓により元の住処であったその地を追われた女角族を味方に引き込んだ。女角族は何より心強い空を駆ける女たちだった。
そして領土争いで疲弊した国々の経済を自分の財力で殴り付け、金の力と、新たな武力とで周辺国の全てを黙らせてその地を新たな帝国としたのである。
あの星見の宴での華々しい宣言は瞬く間に大陸中に広まったらしく、数多の職人を引き入れて国の体裁が整った頃、大量の女たちが帝国に逃れてきた。
彼女たちの多くは、自らを道具と扱う家や男から逃れてきた者たちだった。他に、女だからと助けを得られなかった者も、尊重を得られなかった者もいる。功績すら奪われた女もいた。
その全てをヴィクトワールは受け入れた。家を与え、正当な評価をして彼女たちが欲しかった「尊重」を存分に与えたのである。
こうして女たちの帝国は着々と人口を増やした。
勿論、建国したての柔い防御を狙った他国からの侵略もある。
しかし、ヴィクトワールの財力によって現代兵器と防具を手にした女角族は、最早森を追われた時とは別物だった。銀角金鳥は軽くて頑丈な防具を纏って空を駆け、青衣の女たちは火薬や弾丸の雨を降らせる。誰も敵わなかった。
娘の宣言を機に見切りをつけたタイガーアイ家が出ていったオブシディア王国は緩やかに衰退の一途を辿っている。
頑固なダイアモンドは別として、他の濡羽の一族も近年のオブシディアンに思うところがあったようで、黒が水に薄れるように静かに去っていったそうだ。
いずれ滅びるだろう、というのが南国に新たに居を構えたタイガーアイ家当主の考えだ。ヴィクトワールも勿論同じ考えである。
廃嫡され、追放されたイレールがどんな道を辿ったかなど興味もない。必要のない過去など振り返らない。目映い未来を見据えることにいっぱいだからだ。
そしてあの宣言の日から丁度一年後。
「わたくしの民たち、今日という日を忘れないで」
女角族の秘伝の技で染めた鮮やかな青のドレスを纏い、技を秘めてきた女職人たちが存分に腕を振るった金の装飾品で身を飾ったヴィクトワールが帝宮の前の広場の壇上で告げた。
「わたくしたちは、女だからと侮られてきた。女だからと己の才覚を否定されてきた。女だからと功績を奪われてきた」
背を流れ落ちる豊かな金の髪は、陽光を反射して太陽そのもののように輝く。
「そんな時代は今日で終わり」
歓喜の叫びを上げる女たちを優しく眺める瞳は、鮮烈に勝ち気な虎目石。
「これからは――女の時代よ!!」
そう宣言して、彼女は自らの手で帝冠を頭に戴いた。誰もが彼女に夢を見て、新しい時代の幕開けを感じて、ひたすら興奮のまま叫んでいた。
ヴィクトワールの戴冠。
押し込められていた女たちを解放し、新たな時代を打ち立てた虎の目の女帝の記念すべきその日は、その後の歴史の中でも色褪せることなく輝き続けている。
最後まで読んでくださってありがとうございました!
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