08 常世の塔 ※
アリアロッサは早朝、塔の中ほどまで階段を下りると、矢狭間の外に滑車で吊るされた籠を見つける。
アリアロッサは少女の日記を読んで、日々の食事や日用品を受け取ったり、井戸から水を汲み上げたり、幽閉されていた少女の日課を知ることが出来た。
「この籠を下ろせば良いのよね」
籠を下ろしたアリアロッサは、小振りの水瓶を抱えて螺旋階段を下りる。
籠を引き上げるのは、地下の井戸から水を汲んで見張り台の部屋に戻るとき、籠が空のままならば、水だけ部屋に運んでおく。
日記によれば、籠を下ろしておけば、ハルバルートが、その日のうちに二日分の食料を入れて寄越すし、必要なものを書いた紙を入れておけば、後日届くらしい。
ただしハルバルートに要求が通るのは、石鹸や蝋燭などの日用品と、隠し部屋の探索に必要な物であり、それ以外の物品を要求しても届かなかったと書かれていた。
また日記には、夜になっても籠が空のままなら、ハルバルートが留守にしているので、塔を抜け出す好機だが、鉄の扉は外から施錠されており、狭い狭間窓から身を乗り出すことが出来ず、それが不可能なことも書かれている。
「−−けれど、彼女はここにいない。隠された部屋を探す口実で、きっと抜け道を見つけたのですわ」
自分を鼓舞するように呟いたアリアロッサは、螺旋階段を下りて扉の前までくると、意を決して、臭気の漂う地下室に向かって井戸の釣瓶を落とした。
汲み上げた水は澄んでおり、鼻を近付けても匂わないので、地下室を満たす臭気の原因が、井戸の水ではないことに安堵する。
井戸の水が腐っているなら、飲み水に適さなかったからだ。
「正面の扉も駄目、窓からも逃げられないなら、やっぱり地下室を調べるしかないのかしら」
水を床に置いた水瓶に移し替えたアリアロッサは、地下室への階段を下りようとしたものの、不用意に立入るのを躊躇って、今日のところは部屋に戻ることにした。
日記には、塔の構造が詳しく書かれていたし、少女が脱走を試みた経路など、少なからず手掛かりが残されている。
もっともハルバルートが検閲して、わざわざアリアロッサに見せている日記なのだから、書かれている全てが真実とは限らないが、それでも闇雲に動き回るより、事前に調べてから地下室に向かった方が良いだろう。
しかし部屋に戻ったアリアロッサが、少女の日記を読むと、地下室には、扉の部屋から釣瓶を落として水を汲んだ井戸の他、施錠されていない檻の収容房があるだけで、何もなかったと書かれている。
もしも隠し部屋が地下室にあるならば、ハルバルートが、そんなことが書かれた日記を見せるはずがない。
なぜならハルバルートは、アリアロッサに隠し部屋から、不死の呪いを解く方法を探させたいのだから『地下室に何もない』と、教えるのは不自然だ。
地下室には、本当に何もないのか、アリアロッサに見せたくない何かがあるのか、藪をつついて蛇を出すことにならなければ、はっきりするまで地下室に下りない方が賢明に思えた。
アリアロッサは、何れにせよ時間があるのだから、彼らが何もないと忠告する地下室を調べるのは、八方手を尽くした後にしようと思った。
◇◆◇
アリアロッサが塔に幽閉されて数日が過ぎた頃、円筒状だった塔の外観を思い出せば、もしかすると隠された部屋なんて、じつは存在しなければ、不死者だと言ったハルバルートの抉られた腹にも、何かしらの仕掛けがあると疑い始めた。
少女が書き残した塔の構造図には、塔と城壁との接合部だったところに、板が打ち付けられた扉があったのだが、扉の先の城壁は、既に崩れ落ちているので何もない。
それに見張り台の部屋には、屋根裏があるとも書いてあったが、そこに上がるための手段もなければ、屋根裏が隠された部屋ならば、ハルバルートは、呪いを解く方法に辿り着いているはずだ。
つまり忌避して近付かない地下室を除けば、この塔には、部屋を隠すだけの空間がないのが明白である。
また隠された部屋が物理的に存在しないことには、少女も気付いていた様子で、塔を詳細に調べて構造図を書き残した彼女でさえ、部屋の存在や、ハルバルートの不死を疑う記述があった。
ただ日記には日付がないので、当初は疑っていたが、何かをきっかけに、隠された部屋を本気で探すようになったのか、それとも本気で探した結果、部屋が存在しないと確信したのか、解らないのは確かだ。
「螺旋階段の踊り場も、天井裏に通じる階段も探し尽くしたわ。これ以上、何処を探せば良いのよ?」
どちらにせよ、前任者の少女だって、隠された部屋が存在し得ない事実に突き当たり、構造図以上の手掛りが残されていない。
ハルバルートが検閲した結果かもしれないが、アリアロッサが数日で知り得た以上の事実が、何処にも残されていないのは確かだ。
そう思えば、アリアロッサは塔に幽閉された当日、ありとあらゆる厄災に神経衰弱で、ハルバルートの抉れた腹は、不死者だと語った言霊が見せた幻覚だったかもしれないと思った。
戦争で半身を失ったハルバルートは、潔く死ななかった自分を恥じている様子があり、自分を不死者だと思い込んで、少女やアリアロッサに、自分の妄想を押し付けているだけではないのか。
「そうよ。この塔には隠し部屋もないし、この世に不死者なんて存在しないわ。私たちは、誰もが妄想に取り憑かれているのよ」
アリアロッサは、ハルバルートの言葉を信じて隠された部屋を探しているが、それこそが正常な判断ができていない証拠である。
螺旋階段を駆け下りたアリアロッサは、鉄の扉を叩きながら、ハルバルートの名前を大声で呼んだ。
この塔から出るには、存在しない部屋を探すより、妄想に取り憑かれたハルバルートを正気に戻すしかないと思ったからだ。
「ハルバルートさん! ハルバルートさん! 私の話しを聞いてください! 貴方を殺す方法が解りました!」
アリアロッサが叫び続けると、鉄の扉に梯子を掛ける音がしたので、呼吸を整えてハルバルートの返答を待った。
「ハルバルートさんは、狂っているのよ」
アリアロッサが気丈に振る舞えたのは、ハルバルートから塔に幽閉した真意を聞かされるまでだった。
「俺を殺す方法が、見つかったのか?」
「いいえ。この塔には、隠された部屋なんてありません。それは、ハルバルートさんもご存知なのでしょう」
「では、どうやって俺を殺すつもりだ?」
「私を塔から出してくれるなら、貴方の心臓に剣を突き立てて差し上げます」
「俺は、心臓を剣で貫けば死ぬのか?」
「はい」
沈黙したハルバルートは、アリアロッサが答えに辿り着いていないことを悟ったようだ。
「お前は、塔が現世にあると思っているが、業火にも焼け落ちなかった塔は、俺と同じ常世に存在している」
「常世?」
「永久に変わらない領域のことだ。死ねない俺は、既に死んでいるのと変わらなければ、朽ちることのない塔も、現世に存在しない」
ハルバルートの言葉を信じるならば、彼は死んだまま生きているのだから、アリアロッサが剣で刺殺するのは不可能である。
だがハルバルートは、扉の外側からアリアロッサと会話しており、半身を失っているが生きている。
アリアロッサは、ますますハルバルートの妄言だと思った。
「なぜハルバルートさんが、自ら呪いを解く方法を探さないのですか? 私が部屋を探すより、部屋を訪れたことのある貴方が、自ら探した方が早いわ」
「腕と臓物を失った俺の身体は、塵を踏むものと契約してから、永久に変わらない常世にある。しかし儀式が行われていた部屋は、現世に存在して常世にない。つまり常世にいる俺には、部屋を見つけることが出来ない」
ハルバルートは『お前は違う』と、苦々しく付け加えてから、隠された部屋は、現世の人間にしか見つけられないと言った。
アリアロッサは、それが戦場で死線を掻い潜ったハルバルートの妄想だと、必死に説得したものの、彼は一向に取り合わない。
ハルバルートを説き伏せるのは難しく、アリアロッサの心が折れそうになる。
「儀式を行っていた部屋は、塔の何処かにある。お前が塔から出たいなら、俺を灰燼に帰すことだ」
「ハルバルートさん、待ってください。こんな塔に閉じ込められて、存在しない部屋を探し回るのは、もう限界なのです……もう限界なのです」
「お前が探しているのは、部屋じゃない。俺を殺す方法だ」
「このままでは、正気を保てませんわ」
「塔には、傷病兵を次々に塵と化す怪物がいた。塔に潜む怪物を探していた俺も、正気を失っていたのかもしれない」
「ハルバルートさん、こんな酷い仕打ちを止めてください」
ハルバルートの声が遠ざかるので、どうやら梯子を下りたようだ。
鉄の扉に追い縋ったアリアロッサは、嗚咽混じりに懇願していたが、暫くしてから涙を拭いて立ち上がり、井戸に落とす釣瓶を見ている。
ハルバルートは、仲間が次々に死んでいく凄惨な戦場で、正気を失って塔に住んでいる怪物を作り出した。
半身を失う怪我で生き残ったハルバルートが、空想の怪物と契約して不死を得たと言うのは、狂人の見ている妄想でしかない。
アリアロッサは、時間を掛けて説得するしかないと、日課である水を汲んで部屋に戻ろうと思った。
「この匂いは?」
アリアロッサが、そう考えて釣瓶に近付くと、暗い地下室から甘い香りがしていることに気付いた。
最近は臭気も嗅ぎ慣れたようで、幽閉された直後に感じた生臭さが和らいでいたものの、今日は特段、焼き立てのパンケーキのような甘い香りがしている。
そんなことがあるのだろうか。
「誰かいるの?」
アリアロッサは、それまで忌避していた地下室に人の気配を感じた。
しかしアリアロッサが塔に幽閉されてから数日が経過していれば、助けを求める声もなく、外から食事が運び込まれた気配もない。
だからアリアロッサの予想が当たっていても、地下室の何者かは生きていない。
臭気の原因は、死人のものだったのか。
アリアロッサが、おずおずと階段から地下室を覗き込めば、陽射しの照り返しで輝く水面から、額が突き出た目の大きな魚が顔を出して、こちらを見上げている。
「ひぃッ!」
アリアロッサは小さく呻くと、飛び退いて壁に背を付けた。
既知の事実に照らし合わされば、井戸から見上げていたのは魚だったが、澄んだ水面下に見えたのは−−
「まさか!?」
アリアロッサは、なぜ日記を書いた少女が、もう塔にいないと決めつけていたのか。