06 塵を踏むもの ※
茫然自失のアリアロッサは、幌馬車の荷台に押し込まれると、御者台に座ったハルバルートが片腕で馬を御する。
幌馬車は、フェルトフォンの屋敷がある中心街から、アリアロッサが生まれ育った港町の反対側、内陸に向かって森の一本道を進んでいた。
海に面したライエルの領土は広く、三方を囲む森の開けた場所には、多くの集落が点在しているのだが、遮眼革を付けた馬の走る暗い森は、人の気配を全く感じさせない。
それもそのはず、ハルバルートが暮らしているのは、ザイードとの激戦地だった国境沿いの出城跡であり、そこに向かうまでの森の集落は戦争中、全て焼き討ちされてしまったのである。
ザイードとは終戦したものの、政情が依然として不安定な両国が、いつ戦争を再開するとも限らないのに、死と隣り合わせの森に暮らす領民がいるはずがなかった。
「この馬車の行き先は、国境に建てられた出城だ」
「私は、お城に向かっているの?」
「そうだ。お前が向かっているのは、城壁や居館が焼け落ちていれば、側防塔だけの廃城だ。お前は、その塔に幽閉されるんだ」
アリアロッサは『海が見える?』と、背を向けたまま手綱を操るハルバルートに聞いた。
塔から見える景色は、森に切り開かれた野原と、戦死者を弔った塚だけで、海はおろか山だって、霧深い森に隠されて見えないと答えた。
ハルバルートが手綱を引いて馬車を停めたのは、東の空が白み始めた頃だった。
荷台から降ろされたアリアロッサが周囲を見渡すと、朝霧に影が浮かぶ円筒状の塔が建っていた。
「いつまで、ここで過ごせば良いのですか?」
「お前の身柄は、俺が貰い受けたのだから、俺の気が済むまでだ」
「フェルト様じゃなくて?」
「そうだ」
アリアロッサは、ハルバルートに人里離れた廃城の塔に、彼の気が済むまで幽閉されるらしい。
アリアロッサは、ハルバルートに夜の慰み者にされるのか、それとも飯炊き女としてこき使われるのか、どんなに不幸な身の上が待っていても、もう悩むのを止めていた。
なぜならアリアロッサは、婚約者だったフェルトフォンばかりか、父親や姉、愛を語ってくれたクロフィスにも捨てられて、自己嫌悪に陥っているからだ。
「どうせ死ねば、全てが終わるわ」
アリアロッサが呟くと、馬車から積荷を降ろしていたハルバルートは、手を休めて瓦礫に腰を下ろした。
「お前に自死されたら困るので、一つだけ忠告してやろう。この戦場で左腕を失った俺は、同輩の出世に嫉妬しながら生き恥を晒しているが、それは俺が潔く死ねないからだ」
「死ぬのが怖いのですね」
「いいや。俺は死ねないから、こうして生きている」
「どういう意味?」
ハルバルートは、失った片腕を撫ぜるような仕草で左肩を擦ると、当時を思い出すように語り始めた。
「この側防塔が、まだ城壁や居館を備えた出城だった頃、多くの傷病兵や戦死者を運び入れた城内で、助かる見込みのない重篤な傷病兵が、次々に塵となって死んでいく事件が起きた。
騎士団長だったフェルトは、塵になった連中を見て、ザイードが雇った呪術師の呪いだと考えていたが、放っておいても死んでしまう傷病兵を呪殺するなんて変じゃないか? ザイードの連中は、ライエルの出城が、足手まといの傷病兵で溢れ返った方が有利だ。この理屈が、お前に解るか?」
アリアロッサが頷くと、身内に犯人がいると疑ったハルバルートは、城内を隈なく調べてみると、しばらくして側防塔で隠し部屋を見つけた。
隠し部屋では、何かしらの儀式が行われた気配があり、床に血痕らしき赤黒い滴り、開いたまま置かれた異国の本には、干乾びた新生児のような生き物と、その足元に塵を集めたような小山が描かれていた。
「部屋の主は、足手まといになった仲間を塵にして処分していた。俺は、そう考えたが違った。部屋の主は、異国の本に描かれていた塵を踏むものと契約して、不死の騎士団を作りたかったらしい」
「不死の騎士団?」
「そうだ。ギリシャ語で書かれていた本には、塵を踏むものとの契約方法が記されていた。しかし部屋の主は、儀式の詳細まで読めなかったのだろう」
徐に立ち上がったハルバルートは、片手でシャツの裾を掴んだ。
「脇腹ごと左腕を抉られた俺は、あの側防塔で命が尽きる間際、死を恐れて、塵を踏むものと契約を交わした」
「ハルバルートさんは、契約したから塵にならなかった。つまり瀕死の状態だったのに、死ななかったってことですか?」
「死ねなかっただ」
シャツを捲ったハルバルートの左腹部は、肉食獣に食い千切られたかのように無惨に抉れており、上半身を辛うじて支えている背骨が捻れているも見えた。
「ひぃッ!」
ハルバルートは腹をシャツで隠すと、青ざめた顔のアリアロッサに忠告する。
「お前には、この塔から出る方法が二つある。自死を選ぶか、俺を殺すか……って、聞こえてないか?」
血の気が引いたアリアロッサは、草むらに倒れ込んでおり、ハルバルートの条件を聞いていなかった。