05 隻腕の獄卒
私は愛されていたのか?
アリアロッサは、ただそれだけをフェルトフォンに確かめたかった。
フェルトフォンが財産目当てだったとしても、弄んだと答えても、アリアロッサは諦めがつくし、もしも『愛していた』と答えてもらえるならば、その言葉を永遠に秘めておくつもりだった。
アリアロッサは、フェルトフォンとの幸せな日々が偽りだったのか、真実だったのか、それだけが知りたかったのである。
「クロフィス、どうしてここに?」
アリアロッサがフェルトフォンを呼び出そうと、晩餐会場の扉に手を掛けたとき、肩を掴んだクロフィスが勢いよく振り向かせた。
「アリー、そのドアを開ける前に教えてくれないか。僕を冷たく突き放していた理由は、アリーがフェルトの婚約者だったからなのか?」
「え」
「アリーは、祝賀会でフェルトの婚約者だと言ったよな」
クロフィスに問われたアリアロッサは、祝賀会で踊った男の態度に苛立って、思わずフェルトフォンとの関係を口にしたことを思い出す。
「どうなんだ?」
クロフィスは半信半疑なのか、懇願するような目でアリアロッサを見ている。
だからアリアロッサが、はっきりと否定すれば、クロフィスだって深く追求しなかったかもしれない。
「クロフィスには、関係のない話です」
しかしフェルトフォンの真意を問い質すために屋敷に戻ったアリアロッサは、クロフィスの言葉を否定できなかった。
嘘をつけなかったのである。
「関係あるだろう? これは、僕たち二人の問題だ」
「なぜ?」
「僕は、アリーを妻にしたいんだぜ」
「では正式にお断りします……それならクロフィスには、関係のない話になるわ」
クロフィスの手を払い除けたアリアロッサは、うつむき加減に視線を逸らした。
「アリーは、父の申し出を受けたのだろう?」
「違うわ。フェルト様に今朝、ライエルとザイードの友好のために、ナルダロス将軍の申し出を受けてほしいと言われただけです。私の気持ちは、クロフィスに何度も伝えたはずだわ」
アリアロッサは、今までクロフィスとの交際を拒んでいれば、彼の好意に縋ろうとしたのは、気の迷いだったと、自分に言い聞かせた。
「なるほど。アリーは、フェルトのためなら、僕との政略結婚を受入れるんだね」
「違うわ。両国の友好のために−−」
「いいや。アリーが政略結婚を受け入れるような女だったら、フェルトは、もっと早くに、僕の恋心をザイードとの外交に利用したさ。フェルトは、いつだってアリーに近付く僕を睨みつけていたんだぜ。あの男は、自分の女に近付く若い男に嫉妬していたのだろうね」
アリアロッサは手を振り上げると、フェルトフォンを侮辱するクロフィスの頬を叩いた。
クロフィスの頬を打ち付けた音が、屋敷の廊下に響き渡ると、騒がしかった晩餐会場が静まり返る。
「アリー?」
屋敷の者が駆けつけてアリアロッサが我に返ると、頬を手で押さえたクロフィスが呆然としている。
「クロフィス様、お怪我はございませんか!?」
「大丈夫だ」
屋敷の者はクロフィスに駆け寄ると、アリアロッサを睨みつけた。
「アリー様、クロフィス様を叩きつけるなんて、旦那様に知られたら一大事です」
「アリーは、僕の無作法を咎めただけさ。そうだろう?」
「え……、ええ、クロフィスの言うとおりです」
「アリー様は、自分のしたことを理解していますか? クロフィス様は、ナルダロス将軍のご子息です」
屋敷の者は、アリアロッサに身分と立場を弁えるべきだと諌めた。
クロフィスが人質と言えども、ザイードの親善大使であり、何事かあれば、フェルトフォンに責任を取らされるのは、身柄を預かる屋敷の者だからだ。
「騒々しいぞ」
フェルトフォンが、ハッサンを伴って晩餐会場から出てきた。
フェルトフォンは今、フローラとの婚約を来賓に報告して降壇したところ、后候補の父親であるハッサンと、廊下の騒ぎを聞き付けたらしい。
「旦那様、アリー様とクロフィス様が揉めておりましたが、もう大丈夫でございます」
「騒ぎの原因は何だ?」
「それは、クロフィス様がアリー様に無作法を咎められたと申しておりますが、詳細は解りかねます」
屋敷の者が答えに窮すると、詰襟を指で抜いたクロフィスが、フェルトフォンの前に出る。
「僕が、アリーに貴方との関係を問い質したことが原因ですよ」
「俺とアリーの関係とは、おかしな事を聞いたものだな。それでアリーは、なんと答えたのだ?」
フェルトフォンは、アリアロッサを一瞥して顔色を伺った。
「アリーは、答えてくれなかったので、ぜひ貴方に教えてもらいたい」
「アリーは答えなかったのか。まあ質問の意図が解らなければ、俺だって答えようがない」
「答えられないなら、人払いするか?」
「俺は結構だが、衆人環視のなかで、妙な言い掛かりを聞かされるのは面白くない。席を変えよう」
晩餐会場に振り返ったフェルトフォンは、歓談を続けるように伝えると、中座する無礼を詫て、クロフィスとアリアロッサ、参列していた彼らの親族を謁見の間に集めた。
◇◆◇
謁見の間では、アリアロッサの父親と姉、クロフィスの父親であるナルダロスが向かい合って座り、フェルトフォンは、まるで両家を仲裁するように中央の椅子に腰掛けた。
またフェルトフォンの背後には、隻腕の騎士ハルバルートが控えている。
「クロフィス大使の言い分は、事と次第によって外交問題になる。だから準貴族のハルバルートを見届人として同席させるが、ナルダロス将軍は、それで宜しいかな?」
「ああ、わしは構わんぞ」
ナルダロスは、ハルバルートの同席を認めた。
ハルバルートは戦争で腕を失うまで、フェルトフォンと並ぶ戦働きで領民から持て囃されていたが、傷病兵となった今、人里離れた古戦場で世捨て人のような生活を送っていた。
厭世家のハルバルートが、今夜の晩餐会に呼ばれた理由は、準貴族として戦友のフェルトフォンの婚約の証人だったが、眼光鋭く隻腕の風貌が異彩を放つ、宴席に似つかわしくない男だった。
「クロフィス大使は、俺とアリーの関係を疑っているようだが、なぜそのような戯言を口にしている」
「ザイードの大使は、妹のアリーとフェルトの関係を疑っているのですか?」
「フローラ、そうなんだ。クロフィス大使は、俺とアリーが親密な関係だったと勘違いしているのだ」
フローラは『夢でも見ているのかしら』と、隣りに座っているアリアロッサが、何も知らない初な小娘だと見下している。
「しかし、その話が本当ならば、フェルトフォン公爵は、わしの息子に捨てた女を嫁がせるつもりだったことになる」
ナルダロスは話に割って入ると、フェルトフォンに真偽を問い質した。
「ナルダロス様、私の娘アリーは、領主様の屋敷で行儀見習いしていますが、そのような関係だったと聞いたことがありません。もしも末娘と領主様が、そのような関係だったとすれば、わざわざ姉のフローラに縁談話を勧めるはずがありません」
ハッサンは、目の前に座っているナルダロスに身振り手振りを交えて、そんな話は聞いたことがないと否定する。
「商家の者が、わしに意見するな」
「は、はい、申し訳ございませんでした」
ここに集まった彼らは、誰もアリアロッサを見ていなかった。
父親のハッサンは、爵位に目が眩んでいれば、姉のフローラは、妹の事情を探ろうとせず、自分の幸せばかりに気を留めている。
「貴方は、天地神明に誓ってアリーとの関係を否定するのですね」
「クロフィス大使、俺の言葉に嘘偽りなどない。ザイードの大使風情が、世迷い言で俺とフローラの婚約に水を差すなら、両国の平和も束の間に終わるぞ」
「なんだと?」
クロフィスも一方的な想いを押し付けているだけで、アリアロッサを窮地に追い込んでいる自覚がないし、ナルダロスが問題視しているのも世間体だけだ。
「クロフィス大使、そもそも誰から聞いた話なのだ?」
「誰でも良いだろう」
「今夜は、俺の婚約者を領民や賓客にお披露目する祝事なのだ。そんな祝いの日に、俺が行儀見習いの子供とデキていたなんて噂を流した奴がいるなら、断頭台に送ってやりたいと思うじゃないか」
「ザイードの大使である僕には、外交上の情報提供者を秘匿する権利がある。貴方は、外交特権条項を忘れたのか」
フェルトフォンは、アリアロッサがクロフィスを焚き付けたと考えたが、無言を貫いている彼女ではないらしい。
となると、クロフィスの勘繰りか、それとも屋敷内に情事を覗き見ていた出歯亀がいたのか、まさか侍従のリヤナではないと思えば、騒ぎを起こした主には、フェルトフォンも首を傾げる。
「ナルダロス将軍、こんなバカバカしい噂話が開戦の口実なっても、お互いに笑い者だぞ」
「しかしフェルトフォン公爵は関係を否定しているが、お嬢さんは否定しておらん。これは、沈黙こそが答えではないのか?」
ナルダロスに疑いを向けられたアリアロッサは『嘘をつきました』と、ぽつりと呟いた。
「私は今夜、祝賀会で声を掛けてきた男に素性を聞かれて、領主様の婚約者だと見栄を張ってしまいました。つまり噂の主は、嘘をついた私です」
アリアロッサは気丈を振舞ったものの、一筋の涙が頬をつってテーブルに溢れる。
フェルトフォンは、そこに居合わせたクロフィスがアリアロッサを問い詰めたので、このような騒ぎになったのだと理解した。
「なるほど、アリーが噂を流した犯人だったのか」
「フェルト様……、申し訳ございません」
しかしクロフィスの追求にも、この場においても、黙して語らなかったアリアロッサの心中を推し量れば、よもや自分との関係を曝露して、騒ぎを大きくする気がないらしい。
ただそうなると、ザイードのクロフィスにアリアロッサを嫁がせるのは、将来に不安を残すことになる。
アリアロッサを不敬罪で処刑してしまえば、どんなにか楽なのだが、フェルトフォンは、ハッサンからの資金提供を当て込んでいるので、そんな簡単に処理できない。
「領主様は、お前の姉フローラとの婚約を祝賀会で公表するんだぞ? その会場で、別の女が婚約者だと名乗れば、領主様が、街の連中にどんな目で見られるのか……。お前は、なんてことをしてくれたんだ!」
ハッサンは、アリアロッサの後ろ首を掴んで、テーブルに押し付けた。
「い、痛いっ」
「領主様は三年間、お前を行儀見習いとして屋敷に置いてくださったのに、恩を仇で返すような真似ができたな。お前みたいな恩知らずな娘は、当家との縁を切らせてもらう」
アリアロッサが顔を上げるので、ハッサンは、テーブルに頭を強く、何度も押さえ付ける。
「お父様、そんな−−」
ガンッ!
「うるさい! お前なんか、俺の娘じゃない!」
ガンッ!
「クロフィス……」
ガンッ!
「実の父親に見捨てられても、まだフェルトを庇うのか? それが、アリーの本心なのかよ」
ガンッ!
「……」
クロフィスは、力無く床に崩れ落ちるアリアロッサを見て、それまでの情熱を失ったようだ。
クロフィスの好意を拒み続けたアリアロッサは、彼の名前を呼んだものの、みっともない姿を晒してまで、自分を捨てた男に義理立てしたせいだ。
「お前ら、もう気が済んだか?」
ハルバルートは、床に倒れたアリアロッサを片腕で抱き起こすと、肩を上下させて憤るハッサンに言った。
「ええ……こんな恥知らず、親でも子供でもありません。領主様の如何様にもしてください」
ハッサンは、末娘のアリアロッサを足蹴にしてでも爵位がほしいらしい。
クロフィスだって真偽はともかく、アリアロッサの気がないと痛感すれば、無理やりに結婚したいとは言わなかった。
「この女の身柄は、俺が預からせてもらう」
「ハルバルート?」
ハルバルートは、フェルトフォンに告げると、アリアロッサの腕を乱暴に引張った。
「フェルトの言うとおり今夜が祝事であるならば、つまらん騒動で台無しになるのは、誰だって望まないのだろう? それにザイードの諸兄も、見窄らしい女を連れて帰る気が失せているようだ」
集まった彼らは、ハルバルートの言葉に顔を見合わせる。
「ハルバルート、アリーをどうするつもりだ? そんな娘でも、俺の義妹になるんだぞ」
フェルトフォンが、ハルバルートの肩に手を置いて呼び止めた。
「お前らが捨てた女だから、煮て食おうと焼いて食おうと、俺の勝手にさせてもらう。フェルト、この女は−−」
ハルバルートは『塔に幽閉する』と、フェルトフォンに耳うちしてから、項垂れるアリアロッサを連れて意味深長に笑った。