04 石が転がるように
アリアロッサは、フェルトフォンとフローラの婚約が破談になっても、自分と復縁するつもりがないのだから、ひっそりと身を引いた方が良いと理解している。
事を荒立てればフェルトフォンばかりか、事情を知らない姉のフローラや、貴族の仲間入りを喜んでいる父親のハッサンを悲しませるからだ。
それにアリアロッサがフェルトフォンとの秘事を振り返れば、悪い思い出があるわけじゃない。
アリアロッサの三年間は、フェルトフォンの無惨な仕打ちで幕を下ろしたものの、屋敷で過ごした日々は、むしろ愛に溢れた幸せな日々だった。
「アリーの晴れ舞台を奪ってごめんよ。でもフェルト様が、ザイードの要人も参列するから、親善大使の僕が登壇した方が良いだろうと言い出してさ」
クロフィスは成人の儀式で、アリアロッサが読むはずだった式辞を代読したので、気分を害していると思った。
しかしアリアロッサが思い悩むのは、クロフィスが自分の代わりに登壇したことではない。
アリアロッサは、フェルトフォンの秘密を曝露できず口惜しかったが、何事もなく成人の儀式が終わり、落ち着きを取り戻せば、フラレた男に報復を企んだ自分が、いかに惨めで哀れな女だったか思い知った。
「クロフィスは、優しいね」
「僕が優しいのは、アリーを愛しているからだ」
だからアリアロッサが引返すならば、祝賀会が催される議事堂前の広場に向かう今、クロフィスの好意を受入れるべきである。
フェルトフォンとフローラが結婚すれば、父親のハッサンは念願の爵位を得るし、自分がクロフィスと結婚すれば、ライエルとザイードの交流が深まり、両国の治世も安定するだろう。
つまり誰も不幸にならない。
政略結婚に応じるのも、幼稚な悪ふざけの片棒を担ぐのも悔しいが、フェルトフォンの言うとおりなのだ。
「成人した僕は来週、親善大使の役目を終えてザイードに戻る。アリーさえ良ければ、僕と一緒に来てくれないか?」
「それは……少し考えさせてください。屋敷の部屋を引き払ったら、海の見える実家でゆっくりしたい」
「ああ、もちろんだとも! アリーが僕との将来を考えてくれるなら、いつまでも待つよ!」
クロフィスは声を弾ませて、浮かれずにいられなかった。
アリアロッサに、その気がないなら答えを待たせない。
つまりアリアロッサには、クロフィスとの結婚を少なからず検討する余地が生まれたことになる。
「僕の父は今夜、フェルト様の屋敷で行われる晩餐会に出席するから、アリーのことを紹介させてほしい」
「クロフィス、まだ申し出を受けていないわ」
アリアロッサは、勇み足のクロフィスに釘を差した。
アリアロッサの報復感情は薄れたものの、同時に、フェルトフォンに『使い古し』と呼ばれた自分のような汚れた女に、好意を寄せるクロフィスが気の毒に思えた。
クロフィスの好意に縋れないのは、アリアロッサの自責の念である。
「屋敷で幼少期を過ごした友人としてなら、父に紹介しても問題ないだろう?」
「私は、クロフィスが思うほど綺麗じゃないのよ」
「アリーが綺麗じゃない? アリーは、成人の儀式に集まった誰より、気品があり美しかったじゃないか。アリーの美しさは、ライエルの至宝だよ」
クロフィスが持て囃すと、秘密を抱えたまま好意を受入れてようとするアリアロッサは、ますます良心の呵責に苛まれた。
だからアリアロッサは最後に、もう一度だけフェルトフォンと話してから、クロフィスの申し出に答えようと思った。
アリアロッサがクロフィスの好意に応じるには、フェルトフォンへの想いに区切りをつける必要があった。
◇◆◇
夕暮れ時に始まった祝賀会の会場では、クロフィスのエスコートを断って、リヤナと二人にしてもらった。
クロフィスに張り付かれたままでは、フェルトフォンと話す機会がないし、誰に聞かせる話でもないからだ。
「フェルト様は、祝賀会に出席しないの?」
「フェルト様は、晩餐会の招待客をもてなすので、閉会の挨拶まで顔を出しません」
リヤナは祝賀会で振る舞われたワインを片手に、アリアロッサに言った。
成人の儀式に参列していた領民と新成人は、着飾ったまま議事堂前の広場に移動したが、フェルトフォンは、賓客を接待するために屋敷まで戻ったらしい。
フェルトフォンは、フローラとの婚約を祝賀会より前に、晩餐会に出席している賓客に知らせるつもりなのだろう。
フローラとの結婚を領民に公表するのは、屋敷に集めた来賓に報告した後になる。
「二人とも良かったら、僕たちと合流しませんか?」
アリアロッサとリヤナに声をかけてきたのは、身なりがしっかりした新成人の男たちだった。
ほろ酔い気分のリヤナは、彼らの誘いに乗るつもりらしく、気乗りしないアリアロッサの顔を覗き込んだ。
成人の儀式を終えた祝賀会は、男女の出合いの場でもあり、女が二人で会場に佇んでいれば、壁の花には、そうした男たちが集まってくる。
「ええ、良いわよ」
アリアロッサが手を差し伸べると、色めき立つ男たちは、二人の腰を抱いて会場中央でダンスを踊る列に連れ込んだ。
アリアロッサのエスコートは本来、クロフィスの役目なのだが、見知らぬ男にエスコートされた彼女は今、フェルトフォンのことを考えていたので、そんな事を気にする暇がなかった。
「君は街で見掛けないし、高そうなドレスを着ているけれど、箱入りの御令嬢かな?」
アリアロッサをダンスに誘った男は、庭仕事で日焼けしたリヤナはともかく、色白で気品漂う彼女を氏族の娘だと思ったらしい。
公爵家で行儀見習いだったアリアロッサは、社交界デビューしていれば、ダンスがお手の物だったし、祭りで盛り上がる会場で浮かれた様子もない。
だからアリアロッサをエスコートした男は、彼女を名家の御令嬢だと勘違いして、気後れしているようだ。
「いいえ、海運業を生業とする商家の娘です」
「海運業? あんたは、もしかして海賊ハッサンの娘か。そうならそうと、早く言ってくれよ」
アリアロッサが商家の出自だと解った男は、愁眉を開くと笑顔になった。
「お上品なダンスでは、気分が盛り上がらないのだろう。俺に任せておけよ!」
男は強く手を引くと、アリアロッサをリードしながらステップを荒くした。
「ちょ、ちょっと乱暴にしないで」
「良いから良いから! もっと楽しもうぜ!」
アリアロッサは気付かされた。
この男は、アリアロッサが成金の娘だと解った途端、扱いが雑になったのだ。
リヤナは、それなりに楽しんでいるようだが、アリアロッサは、手荒くリードする男とのダンスが酷くつまらなくなる。
「フェルト様に呼ばれているから、そろそろ晩餐会に行くわね」
「どうして海賊の娘が、領主様の御屋敷に呼ばれるんだ? 庶民は、庶民同士で楽しまなきゃ!」
「その手を離しなさい」
「どうしてだ」
アリアロッサは『私は領主様の婚約者なのよ』と、つい虚栄心から口を滑らせた。
怯んだ男は、自分がエスコートしているアリアロッサが領主フェルトフォンの婚約者だと聞かされて、慌てて手を離すと頭を下げる。
「私は、フェルト様に話があるので屋敷に戻ります」
「アリー様?」
「リヤナは楽しんで」
アリアロッサが、男たちとダンスに興じているリヤナに声を掛けて立ち去ると、一部始終を見ていたクロフィスが眉根を寄せていた。
人払いされたクロフィスは、アリアロッサに悪い虫がつかないように、仮面で人相を隠して、近くから様子を窺っていたのである。
「アリーは今、なんと言ったんだ」
「クロフィス様?」
「おいッ、アリーは今、なんと言ったのか教えろ!」
リヤナを押し退けたクロフィスは、アリアロッサをエスコートしていた男の胸ぐらを掴むと、温和な彼に似つかわしくない声で叫んだ。
「海賊の娘は『領主様の婚約者』だと言いました……お、お許しください。俺は、あの女が領主様の婚約者だったなんて知らなかったんです」
「アリーがフェルトの婚約者だとは、俺だって知らなかったさ」
「ひ、ひぃっ、お許し下さい」
事情を飲み込めなかったリヤナだが、アリアロッサを追いかけようとしたクロフィスを引き止めた。
「リヤナ、そこを退け。僕は、アリーに真相を確かめなければならない」
「クロフィス様、きっと何かの間違いです。旦那様は今、フローラ様との婚約を晩餐会で報告しているはずです」
「いいや。ここ数日、フェルトの言動は怪しかった。アリーのエスコートを任せたり、式辞を代読させたり、それに、いきなり心変わりしたアリーの態度も疑わしい」
「クロフィス様、落ち着いてください」
「フェルトのやつ、よくも僕を−−、ザイードの男をコケにしてくれたな」
頭に血が上ったクロフィスは、帯刀した剣の柄に手を置くと、屋敷に戻るアリアロッサを追いかけた。
敵国だったザイードの親善大使クロフィスが、領主の名前を呼び捨てて、屋敷に向かったのである。
祝賀会に集まっていた領民は、水を打ったように静まった。
「今のは、クロフィス大使だよな」
「どうなっているんだ?」
これがアリアロッサの転落人生の始まりだった。