01 行儀見習い
アリアロッサは十三歳、海運貿易業を営む父親ハッサンに連れられて、この領地を治めるフェルトフォン公爵と初めて謁見する。
フェルトフォンは戦働きが国王に認められて、若くしてアリアロッサが暮らす領地ライエルの領主となったものの、もともとが武官であれば、政治手腕に優れたところがない統治者だった。
それでも隣国ザイードとの戦争で家屋を失った多くの領民は、戦争の英雄フェルトフォンが領主となった当初、武名高き軍神が着任したと喜んだ。
しかし統治者となったフェルトフォンは、隣国との戦争に備えるとして軍備にばかり予算を割いており、財政難となれば、その穴埋めとして、後先考えず税率を引き上げた。
だから戦後間もなく苦しい生活を送っていた領民は、財政難を租税で補おうとするフェルトフォンを『無能な暗君』だと揶揄するようになったのである。
「これは好機なんだ」
ハッサンは、フェルトフォンの屋敷に向かう馬車の中で、漫ろなりに車窓を眺めるアリアロッサに話しかける。
「領主様との謁見が、なぜ好機なのですか?」
フェルトフォンは、財政難に陥っているライエルの経済を立て直すために、財界の成功者であるハッサンを屋敷に招いて、意見を聞きたいとのことだった。
「お前がフェルトフォン公爵に見初められれば、私は『成上りの海賊』などと呼ばれなくなる」
海運貿易業で富豪となったハッサンが、フェルトフォンとの謁見にアリアロッサを同行させた理由は、これを機会に末娘を妃候補として売り込むつもりらしい。
「お父様は、私を領主様に嫁がせたいのですか?」
「そうだ。アリーが公爵夫人になれば、公爵夫人の父である私にも爵位が与えられる。これは、私が貴族の仲間入りする好機なんだ」
「解りました」
「お前は賢く、器量も良いから、領主様もきっと手元に置いてくださるだろう」
「でもフローラ姉様は、私より余程の器量良しだわ」
アリアロッサは、まだ幼く、三十路前のフェルトフォンに見初められるはずがないと思ったので、父親の言葉を聞き流した。
なぜなら父親が領主との政略結婚を本気で画策しているのであれば、成人しているアリアロッサの姉であるフローラの方が、自分より相応しいからだ。
「アリーは、今日から成人するまでの三年間、領主様の屋敷で行儀見習いとしてお世話になることになったぞ」
「お父様?」
「これからは、領主様に尽くして可愛がっていただくんだ」
「待って、お父様!」
父親の言葉は、本気ではない。
フェルトフォンとの謁見を終えたハッサンが、アリアロッサを屋敷に残したまま帰路につくまで、そう思っていた。
「私を連れてきたのは、そういうことだったのね。お父様は、酷いお方だわ」
ハッサンが成人している姉ではなく、幼い末娘を屋敷に同行させたのは、行儀見習いを口実にアリアロッサをフェルトフォンの側に置き去りにするためだった。
ハッサンは、ただ一度の謁見でフェルトフォンが姉のフローラを見初めるとは限らなければ、末娘のアリアロッサを屋敷に送り込んで、公爵夫人の椅子に座らせようと考えた。
「はじめましてアリアロッサ、俺のことは『フェルト』と呼んでくれ」
アリアロッサはスカートの裾を軽く持ち上げると、謁見の間から出てきたフェルトフォンに頭を下げた。
「ではフェルト様、私のことは『アリー』と呼び捨ててください」
「解ったよ。よろしく、アリー」
アリアロッサが頭を上げると、フェルトフォンが手を差し出すので手を添えた。
フェルトフォンは、領民から暗君と揶揄されているが、立ち振舞は紳士的であり、ただ粗暴な男ではないことが、アリアロッサに伝わってきた。
それに戦働きで騎士公爵に上り詰めたフェルトフォンの体躯は、筋骨隆々として逞しく、目鼻立ちがくっきりした顔も非の打ち所がない男前である。
アリアロッサが年頃であれば、一目で恋に落ちたかもしれないが、父親に捨てられて悲嘆に暮れている今、一先ず家に帰してほしいと懇願した。
「フェルト様、お願いですから私を家に戻してください」
「ごめんよ、お前を家に帰すことは出来ない」
「なぜですか?」
「俺は、お前を屋敷で教育する見返りに、父親に多額の寄付を約束させた。つまりアリーを家に送り返せば約束がご破算となり、財政難のライエルは政治行政が破綻してしまう」
「私の父は、フェルト様に身売りなさったのですか?」
「俺は、アリーを金で買ったわけではないんだから、人聞きの悪いことを言わないでくれ」
「ごめんなさい」
フェルトフォンは、畏まっているアリアロッサの手を引くと、庭を見下ろすベランダに連れ出した。
フェルトフォンは『ここなら誰にも聞かれない』と、庭に咲き誇る花々を眺めながら呟いた。
どうやらフェルトフォンは、人目を忍んでアリアロッサに、ハッサンの申し出を受け入れた真意を語るようだ。
「多額の寄付は、娘に持たせた持参金のつもりだろう。彼はアリーが成人したとき、騎士公爵の俺に娶ってほしいのだ。つまり彼は、娘と金を差し出して爵位が欲しいのだろう」
「フェルト様は、ご存知なのですね」
「それが解らぬほど、俺は愚鈍ではないぞ。だからアリーに会うまでは、彼の申し出を断るつもりだったが心変わりした」
「私を見て心変わり? フェルト様は、行儀見習いとして私の身柄を引き受けたのではないのですか」
フェルトフォンは、ハッサンの腹積りを見抜いた上で、アリアロッサを屋敷に留めたらしい。
フェルトフォンは『アリーには申し訳ないが』と、前置きした。
「俺が失政の穴埋めに、富豪の財産目当てで子供と婚約したと知れ渡れば、領民たちは、ますます統治能力のない戦バカだと噂するだろう。だから表向きは、アリーを行儀見習いとして預かることにした」
「そうですか……って、どういう意味ですか?」
アリアロッサは、フェルトフォンが表向きの理由と言うのならば、自分を引き取った真意が別にあると思った。
父親のハッサンから、さらなる寄付を引き出すための人質だろうか、それとも侍従として身の回りを世話させるつもりだろうか。
しかし赤面したフェルトフォンは鼻頭を指で掻くと、庭を見下ろしていた視線を空に向けて、何やら照れ臭そうな仕草である。
「つまり俺は、アリーを正式な婚約者として屋敷に迎えたい」
「ええーッ!?」
「アリーさえ良ければ、成人した暁には俺の妻になってくれ」
「ええーッ!?」
「俺は戦争に明け暮れてばかりで、こんな歳になるまで女を知らずに生きてきた。だから今日、アリーと出会ったときに感じた胸の高鳴りは、生まれて初めての経験なんだ。これは、きっと初恋ってやつだ」
「ええーッ!?」
フェルトフォンは筋骨隆々として逞しく容姿端麗の男前とはいえ三十路前、一方アリアロッサは誰もが認める器量良しではあるものの、まだ恋も知らない十三歳の子供である。
アリアロッサは、歳の差が一回り以上離れているフェルトフォンが、はにかみながら初恋だと言い切ったことに、ただただ驚くしかなかった。
「アリーは、俺の婚約者になってくれるか?」
「フェルト様は、ご立派な大人ですし、私なんかより成人した女性と交際された方が、よろしいのではありませんか」
「俺に言い寄ってくる女は、貴族の地位にしか興味のない連中ばかりだ。俺は、そんな権威に擦り寄ってくる連中が嫌いなんだよ。アリーのような純粋な女には、もう出会えないと思う」
アリアロッサはこのとき、軍神と畏怖されている騎士公爵に向けられた好意に戸惑いながらも、胸の奥を擽られたような気がした。
それが恋に落ちた瞬間だと言うのならば、アリアロッサにとってもフェルトフォンが初恋の相手になるのだろう。
「フェルト様のお気持ちは、解りました」
「解ってくれたか」
「はい」
アリアロッサの細い腰に手を回したフェルトフォンは、まるで手に入れた玩具を皆に見せつけるように、軽い身体を高く抱き上げて一回りした。
無邪気に喜ぶフェルトフォンを見て笑顔になったアリアロッサだったが、ベランダに足をついて向き合うと、目の前に立っている長身の彼を見上げて神妙な面持ちになる。
フェルトフォンに見初められたのは、素直に嬉しかったものの、親子ほど歳の離れたフェルトフォンとは、やはり屋敷の中だけであっても、恋人のように振る舞うのが難しいと思った。
アリアロッサの幼い心と身体には、まだ大人の男性を迎え入れる心構えがなかったのである。
だから−−
「でも私は、無作法な商家の娘です。成人の儀式を終えるまでは婚約者ではなく、ちゃんと行儀見習いとして礼儀作法を学ばせてください」
「なぜだい?」
「フェルト様も仰るとおり、私のような子供と婚約したと知れ渡れば、きっと財産目当ての婚約だと悪評が立つでしょう。だから結婚ができる成人になるまでは、公爵家に花嫁修業の行儀見習いとして預けられた子供ということに致しましょう」
フェルトフォンに預けられた行儀見習いのアリアロッサが、成人を迎える三年後に婚約を公表したところで、それは自然の成り行きであろう。
しかしフェルトフォンのアリアロッサへの想いが純粋であるにせよ、出会った当日に十三歳の子供を見初めたとあれば、小児性愛公爵との誹りや、財産目当ての政略結婚だと軍神の武名を汚すことになる。
アリアロッサは、そうした立場にフェルトフォンを追い込みたくなかった。
「そういう事ならば、皆の前では、アリーが成人の儀式を終えるまで行儀見習いとして扱おう。しかしアリーは、俺の婚約者に違いないのだな?」
「私に恋したと言うフェルト様の言葉が真実なら−−」
「俺の言葉は真実だ」
「では、そのように」
だからアリアロッサは、成人の儀式を終えるまで、名実共に行儀見習いの身分で、屋敷に住まわせてくれるようにお願いした。
◇◆◇
フェルトフォンは、アリアロッサの願いを快く聞き入れたものの、彼女が成人するまでの三年間、専属の侍従を雇ってやったり、社交界にデビューさせたり、屋敷において贅沢三昧の暮らしをさせていた。
フェルトフォンの溺愛ぶりで、アリアロッサの扱いは行儀見習いと程遠く、彼女が領主の求愛を受入れて、逢瀬を重ねるようになったのも、出会った日から半年も経たなかったのである。
「フェルト様、あまり頻繁に通われたら、屋敷の者に関係を疑われてしまいますわ」
アリアロッサは、はだけたナイトウェアの襟元を整えると、ベッドに腰掛けて服に袖を通すフェルトフォンに言った。
「夜の作法を教えるのも、花嫁修業の一環だと言い訳するさ」
「私みたいな子供の身体を大人のように弄ぶなんて、フェルト様はやらしいです」
「アリーこそ座学や乗馬も飲み込みが早かったけど、夜の作法を覚えるのが一番早かったじゃないか」
「それは、フェルト様の教え方が上手いからです」
「そうか」
「女を知らずに生きてきたと言ったのは、怪しいと思います」
「ふふふ、アリーの具合が良いのは、きっと身体の相性が良いせいだろう」
服に着替えたフェルトフォンは、アリアロッサを抱き寄せて口吻すると、彼女の部屋と直接通じている侍従の部屋を経由して廊下に出た。
そんな逢瀬を重ねていれば、いつか屋敷の者に気付かれそうなものだが、フェルトフォンがアリアロッサを溺愛するのも、二人きりでいるのも、屋敷の者は皆、主人がパトロンの娘に気を使っているだけだろうと、親子ほど歳の離れた二人が、将来を誓い合った仲だとは疑わなかったのである。
◇◆◇
成人を迎えたアリアロッサは十六歳、フェルトフォンとの婚約を公表する成人の儀式を明日に控えていた。
公爵家で行儀見習いとして過ごしたアリアロッサは、礼儀作法や立ち振舞も貴族の子女に劣るところがなく、もとから整っていた容姿にも磨きがかかり、美しく気品を兼ね備えた少女に成長している。
「アリー様、いよいよ明日が成人の儀式ですね。せっかくの晴の日なのに、儀式が終わったら、アリー様とお別れだと思うと寂しいです」
しんみりしている侍従のリヤナは、姿見と向き合うアリアロッサの長い髪をブラシで梳きながら話しかけた。
リヤナは住込みで働く戦災孤児で、フェルトフォンがアリアロッサの世話係として教会から引き取った少女である。
アリアロッサとフェルトフォンが内々婚約していることは、屋敷の者にも秘密にしており、二人の関係は表向き行儀見習いにきた富豪の娘と領主だった。
だからリヤナは、成人の儀式を終えたアリアロッサが行儀見習いの過程を終了して、実家に戻ると勘違いしているようだ。
「リヤナとは、ずっと一緒にいられるから、そんな顔しないでちょうだい」
アリアロッサが言うと、リヤナは髪を梳く手を止めた。
「アリー様が、あたしを旦那様から身請けしてくださるのですか?」
「いいえ。私は成人しても今までどおり、この屋敷で暮らすことになると思うわ。だから、わざわざリヤナをフェルト様から身請けする必要がないのよ」
「え、どうしてですか? アリー様はお綺麗で家柄も良いし、屋敷での花嫁修業を終えたら、素敵な殿方との縁談がまとまっていると思っていました」
アリアロッサは、鏡越しにリヤナを見て微笑む。
同い年のアリアロッサとリヤナは、主従関係を超えて気が置けない間柄だったものの、フェルトフォンとの関係を話したことがなかった。
だからリヤナは、主人の言葉どおりアリアロッサが嫁入り前の行儀見習いに出されており、成人すれば嫁ぎ先が決まっていると考えていた。
「私はリヤナを身請けしなくても、これからも一緒に暮らせるのよ。ねえ、どうしてだと思う?」
フェルトフォンとの秘密の関係は、大聖堂で執り行われる成人の儀式までだった。
だからアリアロッサは、親友とも呼べるリヤナに誰よりも早く打ち明けて、喜びを分かち合いたいと思った。
「あ、そうか!」
「解った?」
「はい、解りました」
リヤナが何かに思い当たり手を打つので、アリアロッサは笑顔で振り向いた。
「フローラ様と旦那様が結婚するのだから、旦那様の義理の妹になるアリー様は、結婚するまでは、こちらの屋敷で暮らすのですね」
「フローラ姉様とフェルト様が結婚? 私がフェルト様の義理の妹になる?」
「はい……。あ、フローラ様と旦那様の婚約は、明日の発表まで口止めされていたのに、あたしったらお喋りさんなんだから」
「え」
「アリー様、今の話は忘れてくださいね」
自分の頭をげんこつで小突いたリヤナは、呆然とするアリアロッサの手を引いてベッドに誘導すると、枕元に置かれた燭台の火を吹き消した。
暗くなった部屋で天蓋を見上げたアリアロッサは、部屋を出ていくリヤナから聞かされた衝撃的な言葉が、頭の中をぐるぐると駆け巡って寝付けなかった。
フェルト様が、私じゃなくてフローラ姉様との婚約を公表する?
やっぱり財産目当てだったから、結婚相手は姉妹どちらでも良かったの?
それとも逢瀬を重ねた私に飽きて、いかず後家の手管に心移りされたの?
私の何処がいけなかったの?
◇◆◇
眠れぬまま朝を迎えたアリアロッサは、フェルトフォンがフローラとの婚約が事実ならば、子供だった自分に求愛して、未成熟な身体を弄んでいた事実を白日の下に晒して、破談に追いやろうと思った。
それに国の法律では、婚姻を誓いあった男女でなければ、未成年に淫行をさせる行為が重罪として処罰されるのだから、フェルトフォンが自分を裏切るならば、領地を召し上げられて更迭されるかもしれない。
そんな黒い感情に支配されたアリアロッサだったが、もしかするとリヤナは、フェルトフォンの婚約相手を誤解しているのかもしれないと考えた。
「フェルト様が、フローラ姉様と婚約するなんて、リヤナの思い違いかもしれないわ。まずは、フェルト様にお会いして真相を確かめなければいけない」
ナイトウェアから服に着替えたアリアロッサは、フェルトフォンの部屋を訪ねて、事の真相を問い質そうとして廊下に出ると、そこには詰襟の正装姿で待ち構えていたクロフィスが立っていた。
「アリー、こんな早朝から何処に行くつもりだい?」
「クロフィスには関係ないわ」
「僕は、フェルト様から成人の儀式が終わるまで、アリーのエスコートを頼まれているんだ。だから無関係じゃない」
「なぜクロフィスが、私のエスコートなの?」
「僕も、今日の儀式に参加するからじゃないのかな」
「では儀式が始まるまでは、私に近付かないでちょうだい」
クロフィスは、隣国ザイードのナルダロス将軍の息子であり、ライエルとザイードで取り交わされた終戦協定の条件として、アリアロッサと同じ頃に屋敷に預けられた親善大使である。
「口吻を交わした仲なのに、ずいぶんと冷たいじゃないか?」
クロフィスが袖を掴んで呼び止めると、アリアロッサは目尻を上げて睨みつけた。
「あなたの告白は、はっきり断ったはずよ」
「でもザイードでは、男が初めて口吻を交わした女と交際する風習があるんだぜ。アリーと交わしたのは、僕の初めての口吻だった」
「ザイードの男は、強引に唇を奪って女を物にするなんて野蛮だわ」
「アリー、面子を重んじるザイード人に恥をかかせないでよ」
アリアロッサは以前、人質として他国に売られたクロフィスと自分の境遇を重ねており、屋敷ですれ違えば仲良く談笑していた。
そんな二人が関係が険悪になったのは、クロフィスがアリアロッサに交際を迫って、フラレたのが原因だった。
「とにかく、もう付き纏いを止めて」
「アリー、ちょっと待てよ」
クロフィスの穢らわしい手を振り切ったアリアロッサは、袖を払ってフェルトフォンの部屋に急いで向かった。
悪役令嬢ものを書くのは初めてなので、
完結まで見守ってくださると嬉しいです。
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