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1.『俺の周りは危機感が足りない』

 俺の周りの連中には危機感ってものが欠けている。

 例えば、そうだな。さっき道ですれ違ったガキ共だ。

既に桜も散り終え、馬鹿騒ぎをやる花見の時期なんて過ぎたのに、ばあさんをカツアゲしようなんて抜かしていたから、警察と救急車を呼んでおいた。

よく知り合いに言われるのが、そこまでばあさんが怪我することが心配なら、お前が止めてやればいいだろ、だ。

俺は断るよ。まず経験の足りないガキ三人が何をしでかすか分からない。それに、あのばあさんの強さを知っていたら、ガキの怪我の方が心配だ。

ほら今、スマホの近隣ニュース欄にテロップがあがった。

なになに。七十台の老人正当防衛。未成年者三人が重軽傷、床屋の看板が壊れる。警察車両、老人と衝突。だ、そうだ。

な、君子危うきに近づかず、って奴だ。

なに、俺のことが気になる?今、独り言を呟いているのか?だって?

違う、違う。俺は俺の中にいるこの街にいた俺に対して心の声を発しているんだ。ボケ老人と一緒にしないでもらいたい。

大体、会話ってのは、俺がいて、お前がいるから成り立つんだ。一方的なドッチボールでも、一応は投げ手と受け手がいるから成り立ってはいるんだぞ。受け手がいないと誰に当たるか分からなくて、一番危ないからな。

ま、受け手であるお前は、この街のことをほとんど覚えていないだろう。それにお前が思考していた間は違和感なく過ごしてきたから、なにが狂っているのか、なんてことは分からない筈だ。だから、俺が一々説明してやるよ。安心しろ。

えっ、俺が誰だって?だから言ってだろ。この街の違和感を認知できるようになった、お前だよ。

どこで、そんな違いが出たのか、だって?そりゃ、俺が勤めている探偵事務所、もとい、なんでも屋のオーナーに出会ったからだ。

当時、まだ十八歳だったお前は相当ショックを受けてからな。思い出すのも辛いだろ? 俺もカルチャーショックに悩まされた口だからよく分かる。まあ、気軽にやっていこうぜ、兄弟。

そんなこんなの今、俺はどこにでもある街中にいる。

田舎でも都会でもない、その中間ぐらいに当たる発展度の街。些細な違いを除けば、小さなビルの隙間から山が顔を覗かせているようなどこにでもある線路沿いの普通の街だ。

内なる兄弟に話かけている内に、俺は勤務先の安っぽい事務所に到着する。

オーナー付きの探偵事務所といっても従業員は二人。うち一人はアルバイト。オーナーは一人で長期旅行中。実質の責任者は俺。名前は大成 功(おおなり いさむ)。こらぁ、そこ。だいせいこう、なんて読み方をするんじゃない。

ちょっと古い繫華街を歩けば目に入りそうな古びた鉄筋コンクリート製の手狭な三階建ての雑貨ビルの二階。エレベーターは去年から故障中、修理の見通しなし。事務所の移転の予定なし。どうせ、俺はエレベーターに乗れないから、問題なし。

物資の調達、依頼の受付から解決まで、バイトがいない間は基本全部俺一人でやっているから、今は買い出しあがり。ついでに野良猫も日を浴びて眠るほど、日曜日の心地よい春の昼下がりである。

「はあ、かったりぃ」

 など独り言を口にしながら事務所のドアにカギを差し込む。

 がちゃがちゃと鍵を回すと手に違和感がある。

うん? 開いている?

一応、閉店中の看板は出していたが、まさか開けっ放しだったとは。

「俺も危機感が足りてねえな」

 と、呟きを吐き出しながら扉を開けて、ろくに確認せずに中に入る。

 そして中を見てから、なにも言わず、外に出る。

 それから、外から中に聞こえるように、

「色気のねえスポーツブラと縞パンはみてないから、さっさと着替えろ、バイト!」

と俺は声の限り叫んだ。

目の端に映る踊り場のコンクリートで作られた柵の向こう側では、入って来た時にみかけた昼寝中の野良猫が毛を逆立て、飛び起き、日向から遠くにある日陰へと全力で駆けていく。ま、これで中にも聞こえただろ。

ドタバタと音を立てる室内。俺はすりガラスの付いた扉に背を向けて、買い出しの荷物を片手に、中で着替えていたアルバイトで雇っている光貝(みつかい)ツバサが外に出てくるのを、携帯端末でどうでもいい少し変わっていて面白いペットの餌の広告を見ながら鼻歌交じりに待つ。

一応、ツバサは女子高生というブランドである。だが、いかんせん凹凸が少なく、平均より身長も低く、栗色の髪も短く、一見なら中性的でどちらか判別できない時もある彼女。ついでに下着にすら色気が足りない。じっくり観察すればいいところはあるのだろうが、少ない紳士成分を投げ捨て下世話なキャラになる必要もないだろう。

大体、事務所には、なんでも屋の如くありとあらゆるものが揃っているのだ。衝立も備えてある。室内は探偵事務所としてはお世辞にも広いとはいえないが、入ってすぐの応接間で着替える必要なんてどこにもない。どうして裏で着替えないのか、俺には理解できないね。

 数分経った頃、扉が開く。動きやすい私服に着替えたツバサが俺の裾をちょいちょいと引っ張る。

「お、終わったか」

 いいながら携帯端末をしまい、俺は振り向く。

その瞬間、彼女は男の弱点である俺の股間正面を回避の暇もないほど勢いよく掴むと、ぎゅっと握る。もう、こう筆舌難いほど、ガッシと、だ。ここが漫画の世界なら、男性なら聞いただけで股間が痛くなりそうな擬態語で背景を埋め尽くし、俺が白目を飛び出させているだろう。

「下心はなしと。これで許す」

 ツバサはドスの利いた声で言うと、手を離し、汚いものを触ったかのように手を払いながら事務所の中に消えていく。

 俺はその背を追うことは叶わず、下半身を襲った強烈な衝撃で少しの間、身動きが取れなくなる。それでも、へっぴり腰と言われようが、股間を抱えて床を転げまわる失態だけには抵抗する。

 そんな嫌な汗が流れる中、階段から足音が響いてくる。

冷や汗を垂らしながら、俺は頭だけはキリキリと昇降口に向けた。

「漂白探偵事務所は、こちらで宜しいのでしょうか?」

 物腰が柔らかい初老の男性が声を掛けてくる。

「はい、漂白探偵事務所はこちらになります」

 俺は奇声を上げぬよう、裏声で相手の言葉を繰り返す。そして、内股のまま道を開けた。

 俺におかしなものをみる目を向けたが、すぐに男性は向き直る。

男性が事務所の敷居をまたいだのを確認すると、俺は数回ジャンプしてから、出来る限りすまし顔を作り、何事もなかったように中に入る。こういうときはあれだ、気まずい顔をしていたら負けなのである。

「もう先生。遅いですよ。お客さんがお待ちですよ」

 とツバサはいつもの少しテンションの高い声で、営業スマイルをこちらに向けてくる。

誰のせいだ、誰の。

「いやぁ、お待たせてして、すみません。少し私用があったもので。私、この事務所で探偵をやっている大成 功と言います」

 先に事務所のソファーに腰かけていた依頼人に、俺は腰を低くして声を掛ける。

 買い出しで買ってきた荷物をツバサに渡してから、依頼人に名刺を差し出す。

「はあ、これはどうも」

 名刺を受け取った依頼人は少し怪訝な目を俺に向けてくるものの、

「まあ、藁にでもすがる思いなので、腕が立つのならどんな方でもいいんですが」

 腰は低いが物怖じしない態度で依頼人は口にする。これは中々のやり手とみえる。

「ああ、私、土小手(どこで)といいます」

 土小手は自己紹介するとツバサから「どうも」と、お茶を受け取る。

 どうやら、数少ない依頼を逃さなくて済みそうだ。本当に誰かさんのせいで、まだ春だというのに汗が止まらなかったからな。

「それでご依頼の方は?」と俺は依頼人の正面のソファーに腰かける。

「猫を探して貰いたいんです」

 と依頼人は腰を低くして言う。

「猫ですか、写真などはお持ちですか?それと依頼料の見積もりですが……」

 と俺は慣れたテンプレートな返事をする。

よく間違われるのだが、探偵は推理して謎を解くのではなく、言葉通りに物探しや不倫の証拠探しなどを主な仕事でしている。流行りの探偵小説や漫画は仕事の枠を超えた主人公の趣味である事件の真相の推理を題材にしていることが多いのだけれども、それは探偵の仕事の領域ではない。やりたいのなら、警察にでもなるべきだ。間違いなく越権行為だからな。

 つまりだ。何を兄弟に言いたいのかと言えば、迷い猫を探すことは探偵の本職。大体の相場もやり方も決まっている。高い料金を吹っ掛けることは、なんとか飯が食えるぐらいの名声に傷を付けることになりかねない。

 勿論、例外も存在する。

「前金はこれでお願いします。成功報酬も勿論、これの十倍を用意させて貰います」

 土小手は懐から封筒から取り出すと、俺の前にポンっと置く。

 見ただけで分かる分厚さのある封筒の中身を俺は開いて確認する。

 諭吉が一、二、三…、十枚!

 つまり今回がその例外。依頼人が依頼料を勝手に多く払う場合だ。自営業に対しての個人的な先行投資を止める理由はないのだ。

「やらせてもらいます」

 そう、俺は二つ返事で了承してしまった。

……

「で、二つ返事で契約書作りましたが、大丈夫だったんですか?」

 俺は意気揚々と街中に繰り出す。だが隣を歩くツバサは嫌そうな顔で確認してくる。

「確認したら、檻が少し大きかった気がしますが」

 確かにツバサの言うとおり虎でも入っていそうな檻のサイズではあった。この国の一般免許で乗ることのできるトラックで、ぎりぎり運べるサイズである。

「あんなにでかい檻にいれているから、外に出てしまったんだろうよ。普通の猫にサーバルキャットを入れる檻よりでかい檻なんて、隙間から出てくれ言ってるようなもんだぞ。

まあ、なんにせよ、あの檻と一緒に依頼人に返せば一件落着のぼろい仕事よ」

 と言い、俺はツバサに依頼人から受け取った猫の写真をみせる。

 少し日付の古い写真であった。猫の名前を寅太(とらた)というらしい。虎のような茶色い毛色、縞模様。どこにでもみかけそうな可愛らしい虎柄の猫である。普段から首輪をしており、また首の後ろに個体情報を示すマイクロチップが埋め込まれているらしい。

「それに調査は七日で十万円。相場の倍。車のレンタル料は向こう持ちよ。失敗しても丸儲け。成功したら百万だぞ。この猫探し、受けない理由はない」

「それもそうですね」

 ガハハと笑う俺に、ツバサも納得して声を出して笑う。

「あ、あたし、あのおばあさんに猫をみなかったか、聞いてきますね」

 と、俺が昼に見かけた腰の曲がったばあさんに、ツバサは確認するために駆け寄っっていく。

 そして、すぐに小走りで戻ってくる。

「この先の裏路地で、この猫に似た猫をみたそうですよ」

「そうか、でかしたぞ。ちゃんと見つかったら、あとでアイスおごってやる」

「あの高いアイスの詰め合わせがいいであります」

「いいぞ。ボックスのでかい奴でも許す」

 なんて冗談交じりに、この街特有のウキウキ気分で歩を進めたのは間違いであった。

 大体、猫なんて似たような柄なら、普通は見分けがつかないものである。勿論、家族として過ごしていたとかなら話は別であるが、今回はその線は薄い。それ故、通りすがりのばあさんが簡単に判別できるわけがない。だから、この時の俺はハズレであると思い込んでいたのだ。

 この後悔は、千いくらのアイスをおごるのが惜しかったわけではない。

 この街への危機感、そしてこの街の常識の足りないさ。それらへの配慮を数刻でも忘れていたことだ。

高かった日も少し傾いてきた頃。よくある人通りの少ない道。民家の塀で囲まれている、すこし鉄臭いというか、変わった匂いの道路。車が一台通れるか、通れないか程度の道幅しかない路地裏に入ったときだ。

「あれ、じゃないですかね」

 とツバサは遠目にみえた猫の背を指さす。

その猫は、虎柄で、身体は路地を塞ぐほど大きい。

一度、俺たちは目を擦って確認し直したほどだ。

その小さな猫といて追いかけていた生物は、巨大な食物連鎖の頂点に立つ巨大な肉食動物特有の牙には赤い液体を滴らせている。人を簡単に引き裂きそうな爪を持つ大きな手は、警官の形をしていたであろう破けた制服と肉の塊を押さえつけている。今にも千切れて落ちそうな大きな首輪に着いた鈴の代わりに付けられたネームプレートには寅太の刻印がよく見えた。

そう、それは、あまりにも大き過ぎる猫であった。

両手で軽々と持ち上げられる一般的な猫のサイズではない。両腕でなんとか持ち上げることのできる大型犬などと比べるまでもなく、それよりも遥かに大きい。寅太の名前に似つかわしい、動物園でみるような本物の虎のサイズである。いや、虎と言っても過言ではない。

「ちょっと大きくないか?」

 ツバサと一緒に、その生き物を何度も写真の可愛らしい造形の猫と見比べる。

「体重が二十倍以上ありそうですね」

「あれは猫じゃないよな」

「そうっスね。他の場所を当たりますか」

 意見の一致した俺たちは、鉄臭い路地から何も見なかったように、音を立てないよう慎重かつできるだけ迅速に踵を返そうとする。

肉を食っていたんだ。常識的な肉食動物なら、しばらくは襲ってこない筈である。

勿論、この街に生きている動物に一般的な常識が通じるならである。

俺たちは虎に背を向け、ゆっくりと歩き出す。

まあ、先ほどまで声を上げてやり取りしていたのだ。今更、足音を立てる、立てないなど関係はない。急に静かになった俺たちに気づいて顔を上げた虎は、同じように足音を消して、ゆっくりと近づいてくる。

「慌てるなよ、慌てるなよ。まだ俺たちを狙っているとは限らないからな」

「そうっスね。他に狙っていそうな獲物みえます?」

 そこまで猫に睨まれたネズミのように小声で言葉を交わしたところで俺とツバサは顔を見合わせる。そして、互いに頷く。

 次の行動は簡単だ。先ほどまで和気あいあいと歩いていた道。そのルートを遡るように俺たちは全力疾走を開始する。

「三十六計逃げるに如かずってな!」

「逃げるのはいいですが、非正規であるあたしの殉職は探偵事務所としては名前に傷がつくんじゃないですか!」

「バイトは補充が利くが、俺の命は一つだけだぜ。なに、これからは一人でもうまくやっていくさ!」

「ここは未来ある若者の礎になるのも先人の務めじゃないですか!」

「俺も一応、まだ二十代だから若者の範囲なんだ。残念だったな!」

「女性を守るのは男性の役目でしょ!」

「最近はフェミニズムの流行に乗っ取って男女平等!例え、平等じゃなくてもレディファーストって言葉があるぐらいだからな。先に食われることを許すぞ!」

 そこまで言い合いをしながら、路地裏から二車線ほどの幅のある道に飛び出る。数分ほど前に猫の居場所を聞いたばあさんの姿が視界に映った。

「おい、ばあさんも逃げたほうがいいですよ」

 声はかけたが、状況を説明する間もなく、俺たちはばあさんの隣を走り抜ける。

「おやおや、元気だね」

 と返してきた能天気なばあさんに、虎が重量感のある足音ともに迫る。

 しかし虎は、間違いなく俺の視覚に映っているばあさんの身体をすり抜け、こちらを相も変わらず追ってくる。

「いま、あの虎。ばあさんを無視したというか、すり抜けなかったか?」

 あまりの驚きに後ろをみながら、俺はツバサに問いかける。そもそも、ばあさんにちょっとでも構う可能性がると考えたのが大間違いだったのかも知れない。

「だって、あのおばあさん、最初に会った時から足先なかったですから」

「地縛霊かなんかかよ!」

 と、俺が叫びながら返したところで、ツバサは「あっ」と小さく呟く。

 次の瞬間、俺の身体に衝撃が走る。周りの迷惑など顧みず車道を走っていたのに、俺だけが大きくて硬い何かにぶつかったのだ。

何にぶつかったかと言えば、本来は白線の内側にあるはずの電柱に俺はぶつかっっていた。そうだ、普通は法律上、歩道に設置されているはずの電柱が車道に飛び出して設置されているのだ。

 当然、そこで俺の足が止まってしまう。

「あたしが逃げる時間をそこで稼いでくださいね!」

「うるせえ!わざわざ車で運んだ檻を持ってこい!」

 ははは、と全力で狂気的な笑い声をあげ、ツバサの姿が小さくなっていく。それを見送る間もなく、俺は生命の危険を感じたので振り返る。

 理由は簡単だ。既に虎は俺に向かって飛び掛かっていたのだ。

「ややや、うおおお!」

 よく分からない悲鳴をあげ、俺は転がりながら避ける。

 あわよくば電柱にぶつかるかと思った虎は電柱の前に綺麗に着地する。流石、ネコ科の動物は運動神経がいい。……褒めている場合ではないが。

 虎はこちらを見据えるように身体を向きなおす。

先ほどより早く、低く、小さく、精度のいいジャンプがくることが想像に難くない。

 故に、常識的な範疇なら死を覚悟せねばならないということだ。

 まあ、今はまだ、そんな覚悟はするつもりはない。

「さよなら、俺が買って一か月もった服たち」

 と俺は呟いて、身体に力を込め、

「ガンメタルアーマー!」と腹の底から叫ぶ。

 ここまでで兄弟には、この街の人間、生き物、成り立ち、行動には時折常識が通用しないことが分かってもらえたと思う。

 そして、俺もその一員であるのだ。

 俺の身体から皮膚を割り、衣服を破り、それは現れる。俺の全身、そして顔まで覆うように鈍い光を放つ黒い鎧を展開させる。

この不思議な力は身体を変質、変形させる一種の超能力だ。

本来なら、鈍く黒く光を反射する継ぎ目のないフルフェイスマスクの西洋風の甲冑が俺の全身を覆う能力だ。

しかし、動物は変身ヒーローでお馴染みの変身シーンなどお構いなしだ。鎧の完全展開など知ったことではないと、言わんばかりに虎は俺のわき腹に噛り付こうとする。

「そこ、まだ生身だから、あと一秒でいいから待ってくれよ」

 俺はいいながら、変身を終えた両腕で虎の口に手を入れて抵抗する。そして変身が完全に終了し、虎の顎から両手を引き抜く。

 引き抜いたはいいが、虎の口に完全にわき腹をホールドされてしまう。

そこまで必死になるほど、俺が美味そうに見えるとは思えないだけどな!

 けれど、そのまま虎はチタン程度の硬さはある俺の鎧にめきめきと音がなるほど牙を突き立てる。

「死ぬ、死んじまう。誰か、早く檻を持ってきてくれ。いや、その前に助けてくれ!てか、今の俺なんか絶対に堅そうだろ。女の子の方が柔らかいぞ。いや、硬いだろ。牙が折れねえのかよ。あっち行けよぉぉ!」

 と俺は文脈のない叫び声をあげながら、虎の首を必死で絞め上げる。しかし、体格差がありすぎて締めている感覚がないことに絶望しそうだ。

こうなってくると我慢比べである。俺の鎧が突き破られるのが先か、虎を絞め落とすのが先か、あるいは虎の牙が折れるのが先か。

「こっちです。マッスルさん、お願いします」

 しばらく我慢比べをしたところで、背後からツバサの声が耳に入ってくる。

「確かに聞こえた功ボーイが助けを呼ぶ声が!ここに参上、アンサー・ザ・マッスル!」

 続けて背後から聞こえたのは、野太い男の声。俺の知っている中で、一番頼りになる男の救いの声である。筋肉隆々のナイスミドル。自身の鍛え上げられた肉体で戦うグラップラー。自称アンサー・ザ・マッスルこと、金新久 信次郎かねあらひさしんじろうの声だ。

「マッスル。虎を早く檻へ!」

「おかしいですね。功ボーイの声が聞こえるのですが、姿が見えません。まあ、いいでしょう」

 と、俺の声も姿も認識している筈のマッスルは少し首を傾げる。だが、気にしても仕方ないというように頷くと、すぐに気を取り直す。

「マッスル イズ オール アンサー。筋肉は全てを解決するのです。虎ボーイ、ダンベルを持って檻に入る準備はばっちりのようですね。いま、お家に帰してあげましょう」

 そう言って片腕で担いできた巨大な檻に、片手で軽々虎を持ち上げると、俺ごと放り込み、鍵を閉めてしまう。

「ありがとうございます、マッスル。これで依頼人の元まで運べば依頼は達成ですよ」

 ツバサは目を金の形に変え、マッスルの手を掴んで感謝を送っている。

「お前、バイト!裏切るなぁぁあ!」

 そんな和やかに任務完了しようとしている彼らの横で、俺の叫び声が虚しく檻の内側から街中に響くのだった。

……

「いや、面目ない。まさか、功ボーイが変身しているとは。某、筋肉でしか人を判断できないので」

 事が終わったあと、事務所にまでついてきたマッスルに謝罪された。

「まあ、助かったのは事実なのでいいですよ。最悪、獲物…、いえ迷子猫、いや迷子虎?を殺しちゃったり、怪我させる可能性もありましたし。あ、これ、謝礼の一部です」

 と、事務所の談話用の席で俺は向かいのソファーに座るマッスルに何度も軽く頭を下げながら、依頼人から受け取っていた封筒をそのまま差し出す。

助けてもらった身なので、マッスルは俺が変身することと、変身後の姿を知っていることは責めないでおく。代わりに俺のおごりで買ったアイスを、隣に座って夢中で頬張っているツバサの額に親指でデコピンをしておく。

 マッスルは受け取ったこの国の最高金額紙幣を数えると、こちらに返してくる。

「ふむ、では。こちらを前金として依頼させてもらいましょう」

「マッスルが依頼とは珍しいですね」

 俺は思わず確認してしまった。

 マッスルは自称バウンティハンターである。自称と例えるのは些か、特殊であるからだ。この世界でバウンティハンターにプロという制度は存在しないため、バウンティハンターは全て自称という形になる。しかし、増え過ぎた能力犯罪、あるいは先ほどのような異常現象は後を絶たず、また一般警察も能力者には対応できないことが多発した為に、腕の立つ能力者が賞金目的で能力者犯罪者を捕まえるケースが出てきたのである。

 そしてマッスルは、そのバウンティーハントで生計を立てることができるほどの実力者である。鋼で出来た鎧を出すぐらいしか才能のない俺に依頼などしなくても解決できることのほうが多い筈だ。だから、疑問が浮かんでしまったのだ。

「いえいえ、実は今朝、個人的に気になることが出来まして。ですが、涼子さんの依頼を途中で投げ出すわけにもいかないものですからね。彼女からの信頼を勝ち得ている功ボーイになら頼んでもいいと思ったものですから」

 と、マッスルは少し弱ったというように、こめかみを掻きながら答える。

彼のいう涼子というのは、漂白 涼子(ひょうはく りょうこ)。うちの奔放オーナーである。そして、厄介事しか持ち込まないこの街の貧乏神でもある。

「できれば断りたいのですが」

「涼子さんの真意や行動は某にもわかりかねますが、某の忙しいときは預けていいとのことでしたので、もうすでに連れてきていたのですがね」

「預ける?連れてきた?なにを?」

 俺が聞き返したところで、奥に設置された事務席から、てくてくと小さな少女が欠伸をしながら歩いてくる。手に持った来客用の少し大きめのひざ掛けを引きずりながら、マッスルの両膝の上にちょこんと腰かける。

「じいや、ここは詰まらぬ。飽きてしもうた」

 少女は可愛らしい透き通る声で欠伸混じりに言う。

子供の普段着にしては装飾の多い服。軽く伸びをする姿もどことなく品があり、箱入り娘のような印象を受ける少女だ。

「エリザさん、ここは彼らがお仕事する場所ですからね。面白いものは置いていないので、面白いことを自分で見つけなければなりませんよ」

 とマッスルは膝の上に座った少女を優しく諭す。

背中まで伸びた長い髪の少女、あるいは幼女と言っても過言ではない。身長と骨格から小学生低学年ほどの年齢であることが分かる。しかし、顔つきは涼子さんやマッスルとは似ても似つかない。人形のように整った顔立ちで、七年も顔を合わせていない美人な友人を想起させた。

「某と涼子さんは、この子をあなたに預けたいのです」

 マッスルは少女の頭をポンポンと撫でる。

彼は妻子持ちではなかったはずであるが、子供をあやしなれているのが見て取れる。そういえば、涼子さんの歳の離れた伯父に当たるとか当たらないとか言っていた気がする。

「なんじゃ、あほ面で退屈そうな顔をしおうてからに…」

 俺の顔をみて少女はぼそりと呟くと、面白いものでも探すように次はアイスを頬張っているツバサを数秒まじまじと眺める。それからマッスルの方を少し言いたげな目で見る。

あれは子供よくやる欲しいものがあるときに意識を持っていかれる姿だと容易に想像はついた。

「妾はあれが欲しい」

 と、予想通り少女はツバサの持つアイスに人差し指を向ける。

目の前で美味しそうにものをガツガツ食べている人間がいれば、大人でも欲しくなるものだ。子供なら猶更であろう。

「こらこら、人のものを欲しがってはいけませんよ」

 とマッスルは諌める。良識ある大人の対応というのは、こういう落ち着いて道理で話すものだろう。

だが、年端も行かぬ子供相手には効果は薄そうだ。少なくとも俺の視線の先にいる小さな女の子は明らかに不機嫌そうに眉をしかめている。

「まあまあ、子供のいうことですし」

 と俺はいい、アイスを食べ続けながらも、隣で俺たちの会話内容に嫌そうな顔をするツバサに説得を試みる。

「あのな。ボックス一つまるまるあるなら、少しぐらい分けてやったらどうだ」

「嫌です。あたしの報酬スから。そんなにその子が可愛く思うなら、先生ロリコンでしょ、先生が買ってあげたらどうですか」

 ツバサは顔も上げずに即答する。ついでに俺はロリコンじゃねえよ。

「そんなに糖分取ったら、太るぞ。てか、その量で腹壊さんのか?」

「アイス位で太りませんよ。大半が水分ですから、お風呂に入ればすぐに抜けます。それに、あたしのお腹はアイスで今まで下したことないですから」

 と彼女はこちらに視線を向けることなく、得意げに返してくる。

今、お前が食べているものの食品区分はラクトアイスだから、脂肪もかなりあるぞとは、お首にも出さず、「大人気ねえな」と俺は頭を抱える。

そんな中、ムッと怒ったような表情を少女がみせる。そんな表情をされても対応に困るんだ。

彼女はマッスルの膝の上からスッと降り、ツバサの前にてくてくと歩いていく。

「自分の欲しいもの、特に嗜好品の類は自分で稼いだ報酬で手に入れるものです。だから、あげませんよ。シッシッシ」

 ツバサはスプーンで少女を払うような仕草をする。言っていることは道理だが、年端もいかない子供に向ける台詞、態度ではない。

 少女はジッとツバサの顔を見つめ、

「寄こせ。妾が欲しいと言っておるのだ」と声を発する。

 その一瞬、和やかとはいかないまでも緊張感のなかった室内の空気がピンッと張り詰める。まるで自分より強く大きな存在に威圧されたときに急に目が覚めてしまう感覚に似ている。

 そして、声を聞いたツバサは急に手を止める。それから、先ほどの彼女からは考えられない行動をとる。そう、アイスとスプーンを少女に差し出したのだ。

 少女は得意げに両手を伸ばすとアイスを受け取った。

「エリザさん」

 様子をみていたマッスルは重々しい声と共に椅子から立ち上げる。大人が子供を叱るときの声だ。

「だって、じいや…」

 ゆったりとした重みのある戒める声に、マッスルの顔をみる少女は目じりに微かに涙を浮かべる。

「だって、ではありません。いいですか、エリザさん。貴方の力は無闇に使っていいものではないのです」

「うるさい!爺やなんて嫌いじゃ!」

 少女は癇癪を起し、声を荒げる。そして、その手にあまるアイスの箱を落としたことなど気にも留めず、部屋の奥にある事務席の下に隠れてしまう。

「お見苦しいところみせてしまい、申し訳ありません」

 とマッスルは困ったように後頭部を掻きながら頭を下げてくる。

「いえ、子供のすることですから」

 それにつられて俺も頭を下げ返す。そして、やり取りの終わった後も呆けているツバサの額に、また親指でデコピンする。

「痛あ…、ああ、あたしのアイス!でも、開け口が上に向いていて助かりました。スプーンが地面に落ちただけッス。いや、なんでアイスが地面に落ちてるんですかね?」

 ツバサは状況を口に出したところで、頭に疑問符を浮かべている。

「いや、自分で渡しただろ」

と俺は思わず、呆れ声でそう言った。

「ないない。ありえないですよ。冗談きついですよ。どんな騙され方したんですか。あたしに限って、それはないですよ」

 と、ツバサは全力で否定する。次いでアイスを机に置き、スプーンを取り換えに走る。

彼女がブレないのは自分を持っているからだろう。それは、いいことだが、もう少し優しさや、配慮を持って貰いたいもんだ。

けれど、問題はそこではない。

「某が説明させてもらってもよろしいでしょうか?」

 とマッスルは事務所のソファーに腰かけ直し、話を仕切り直す。

俺としては大体の見当がついているが、答え合わせはやっておくべきだ。

「彼女は漂白 エリザ。特別な力を持つ、涼子さんの娘です」

 養子ですが、とマッスルは付け加える。

「特別な力というのは、さっきのツバサに命令した力ですね。見た感じなら相手に無意識下で従わせる能力ですかね」

 と俺は先ほどのみた状況から推察する。

なんて危険な力を持つ少女を人に預けているんだ、あの人は。と心の中で呟くが、作り笑いは精一杯明るくしておく。

「そうです。他人を従わせる能力、それがエリザさんの力です。子供が持つには、少しばかり大きな力なので、能力、自制ともに制御する訓練をさせているのですが。いや、はや、子供というのは難しいものです」

 そう言って彼は、また後頭部に手をやる。

 マッスルの言葉は子供には無理難題だろう。自制心は、いずれは誰もが身につけるべきものとしても、だ。その段階に至るには、エリザはまだ経験、年齢が足りないは目に見えて明らかである。

 まして、本当に他人を従わせる能力なら、大人でもその能力に相応しい者などいやしないだろう。それが例え、王などの立場にある者であったとしてもだ。

「と、まあ抱えている問題は山々なのですが、某にはやることが出来てしまって、信頼できる方に預かってもらえればと」

「そちらの問題の方を誰かにやって貰えばいいんじゃないんですか?」

 俺の言葉にマッスルは珍しく、困った顔をみせる。

「いえ、あの猫ボーイをみて、やはりといいますか、少し確信に迫るところがありまして。ですが、如何せん確証が持てません故。そこに人を駆り出すのは、やはり良しとはいかないでしょう」

「だから、その子を預かれと」

 と俺は得心がいかず聞き返す。

確かに、あの猫は不可解な成長もとい進化とも呼ぶべき状況は勘ぐってしまうものはある。依頼主は特に変わったことはしていなかったらしい。それでも事細かに調べたら埃の一つぐらいは出てくる可能性はある。そして大前提として依頼人の言葉を全て信じれらるかというのもあるだろう。

まあ、しかしだ。俺は黄金色の菓子折りまでついたので、実質、被害は出ていないから、わざわざ地雷を踏み抜く気はない。

「ええ、功ボーイ、あなたになら可能だと考えています」

 マッスルは俺の顔を信頼の目で見据えてくる。

 しかし彼の期待には悪いが、俺には荷が重い。それにツバサが耐性を持ってないのは明らかだ。そして例え、俺に耐性があったとしても二人分の尻拭いは、ごめんだ。

「それと、もう一つ」とマッスルが口にする。

「これはあまり言いたくなかったのですが、彼女は狙われています。そして狙っているのは、あなたの因縁の相手の可能性もありますよ。なにせ、あのゲーム、いや事柄問いべきでしょうか、それに関わる人物が動いてますからね」

 その言葉で俺の中の天秤が傾きを変える。

「あたしは嫌っスよ。先生のお世話するのも大変なのに、給料据え置きで子供の相手までできませんよ」

 と水を差すようにツバサは不平を漏らす。そして、俺の隣に腰かけると新しいスプーンでアイスをつつき始める。

「誰もお前に世話なんかされてないわい」

 と俺は、隣に腰かけてアイスをまた頬張りだしたツバサの旋毛に指を突き立てる。

「痛い、痛い。先生みたいに禿げたくないから、やめてください」

「禿げてないわい!」

「禿げろ!広がった旋毛を先生にされたように押してあげますから」

「禿げない!それは旋毛じゃなくて、ただの禿げだろ」

「先生、頭に十円玉が付いてますよ」とツバサは指さしてくる。

「それ、十円禿げだろ!取れねぇよ」

「やっぱり禿げてるんじゃないですか!」

「ねえよ。あるとしたら、今のお前の発言か、行動での気苦労のせいだ!」

 そんな俺たちのやり取りをみて、マッスルは顎をさする。

「つまり、ツバサガールは別に報酬があれば、引き受けていいということですかな」

 つまり、てなんだ。マッスルはこいつのどこから察したんだ。俺の顔の筋肉が訝しげな表情になる。

「勿論ですよ。ベビーシッターってのは、お金が発生するものですから」

 とツバサがアイスを机に置いて、ごますりを始める。

相手がよく知ったマッスルじゃなければ殴ってでも止めているが、ツバサでも、その辺は弁えてふざけているだろう。

弁えているよな?少し心配だ。

「殊勝な心掛けです。自分の信念に沿っての行動こそ、最良の行動ですからな。では、ツバサガールには一日に付き、一諭吉出資しましょう」

「やります、やります」

 とツバサは立ち上がり、勢いよく右手を上げて立候補する。

 この守銭奴め。俺がお前の日雇い料を欲しいぐらいだ。

「功ボーイはどうしますか?」

「やりますよ。報酬は弾んでもらいますからね」

 確認するマッスルに、俺は投げやりに言葉を返す。

天秤が傾いたときには答えは決まっている。あとはツバサをどう動かすか、の問題だけだったのだ。

「では、数日の間ですが、よろしく頼みますね」

 と、マッスルがまた頭を一段と深く下げてくる。

 安請け合いはしていない。だが、俺の想定を超えた七日間が始まろうとしていたことは、今の俺には想像もつかないものであったことを、兄弟には先に伝えておくことにするよ。

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