原色ヒポクリット
私の名前は、慶野沙耶、高校生。
眉目秀麗な容姿を持ち、頭脳明晰、さらには、身体能力も他の追随を許さず、なおかつクラスの話題の的。漫画の世界から飛び出してきたかのように、当たり前に完璧なのがこの私。
私を簡単に紹介するのなら、今のが最も分かってもらえると思う。
でも、公衆の面前でそんなことを言ったりはしない。
だって、言ってしまったら他人のひんしゅくをかってしまうもの。私はそんな馬鹿なことは絶対にしない。政治家の言動のように、一挙手一投足を慎重に吟味している。そんな誰もが羨望のまなざしで見つめる私が、最近思っていること。それは――
人間は、なんて素晴らしい動物なのだろう、ということ。
思っていることと行動が、必ずしも一致していないところが素敵。目に映る人間は、その表層しか見えていないのが素敵。真顔で嘘をつけることが素敵。抱き閉めたいほどに偽善的な人間が素敵。
特に、私という人間が素敵。
そうそう、この世には、天は二物を与えず……なんて言葉がさも当たり前のようにあるけれど、そんなものは真っ赤な嘘。持たざる者が、私のような持つ者をひがんでいる証拠に他ならない。持つ者の粗を探しに探して、やっと見つけたそれをひがんで、まるで自分を安心させるようにこう言うの。
良かった、何でも出来るあの人でも、苦手なことってあったんだ、って。
人の悪いところを見つけて自分を安心させるその行為こそ、時間の無駄だってことに気がつきもしない。
本当に間抜けね。でも、ごめんなさい。私にそんな隙はないの。
だから、いつまでも無駄な努力にいそしんでいて。私はさっさと先に行くから。
「慶野さん、宿題のさ……ここの問題やった? 難しくない?」
浮雲の白をとりとめもなく眺めていた目を引き剥がし、前の席に座っている女子生徒に貼り付ける。
私は美しい微笑を作りながら答えた。
「うん。昨日慌てて解いたんだけど……」
とても簡単な問題だった。有名私立大学入試用の応用問題だけれど、三分とかからずに解けてしまった。それも課題を出される一週間前に。別に、先生を擁護するわけではないけれど、言われたことぐらいは最低限こなしなさいよ。
「やっぱり難しい問題だよね、それ」
私は友達の親身になった風を装った。当然の返答。難しいと相手に思わせることで、「そうだよね」と相手の返答を誘う。これは、私という絶世の存在をより身近に感じさせるための技術。私のような高みに登ってくるのは無理だから、私の方から一歩階段を下りてあげる。少しは光栄に思ってくれないと。
「そうだよね」
ほら言った。なんて単純なんだろう、人間は。だから素敵。
「でさでさ、教えてくれない? 私、できなかったんだ」
もちろん私は嫌と言いたかった。なぜかといえば、面倒だから。それと、他人の世話などしたくない。端的に言えば、馬鹿の面倒なんてとても見ていられない。私には何のメリットもないし。時間の無駄だし。
でも、私はそれを快く首肯した。
これによる効果は「慶野さん、優しいね」と相手の脳に記憶させることが出来る点。私は罪悪感を心の中に押し隠し、教え始める。
「ここはね――」
こんな問題も解けないなんて、何のために学校に通っているのかしら。
ま、仕方がないか。私と違って馬鹿だから。どうせ、周りのみんなが学校に行っているから私も行かなきゃなんて考えで、目的もなく生きているだけでしょ。何がしたいかも分からずに、刹那的な楽しさばかり追い求めて。
ねぇ、知ってる? 高校は義務教育じゃないのよ。
あなたみたいな人間を必死に働いて学校に行かせようとしている親は、悲しいわね。はたらけど、はたらけど猶わが生活樂にならざり、ぢつと手を見る……石川啄木の短歌にもあるけれど、暮らしが楽にならないのは、あなたがいるからよ。
あなたが当たり前のように持っているものは、全て両親の汗と涙でまかなわれているんだから。
心の中でさげすみながら、優越感、満足感が広がっていく。
「そう言えば佐藤さん、髪形変えた?」
私はすかさず技術を使った。この後の彼女の返答も、私の対応の技術も分かっている。分かっているからこそ、聞いた。
「え、分かる? ……どうかな?」
不細工を体現した感じ。目を背けたくなるくらい。似合わない。
「カワイイね。似合ってる」
対極をなす答えが、私の心と口から出た。女子生徒の顔が喜びに染まるのを瞳に映しながら、私も下卑を押し隠した笑みを作った。私は内心で彼女を見下しながら、こう思っていた。
「カワイイね」は、「皮良いね」よ。肥えた良い皮をお持ちになって。そんな多大な肉を持って歩くのは、さぞかし大変でしょう。
「……彼は、気づいてくれないんだ……」
私は彼女の言葉に驚きを隠せなかった。私としたことが、少々顔に本心をにじませてしまう。
信じられない!
こんな女に彼氏がいるなんて。よっぽど彼氏が酔狂なのか、盲目なのかのどちらかだろう。私は彼氏に同情心を抱くと共に、彼氏の醜美の基準と、その審美眼を疑った。
「どうかした?」
ええ、信じられない。あなたに好意を抱く人がいるなんて。
「どうして気がつかないのかなって、彼氏が――」
あなたが醜いって。
「あなたが髪形変えたって」
もちろん私は、この間中笑顔。おそらくこの美麗な笑顔を見て、私を美人だと認識しない人はいないだろう。それだけ私は自他共に認める美貌を持っている。数日前も他校の生徒から告白された。達といった方がいいかしら。告白なんて日常茶飯事。まるで蛆のように放っておけば自然と湧いてくるヤリたい盛りの男達。そんなに私をエッチがしたいの? 頭ががらんどうのくせに。
そのとき私は、流れ作業のようにいつもどおり、
――え……急にそんなこと……。
と、少しの逡巡と困惑を言葉に表した。これは、私のせめてもの私の憐れみ。本当は、「身の程を知りなさいよ」と即答したい。
だって、私には釣り合わないもの。
天秤にかけたら、私の偉大さに男が天へ飛んでいってしまうに違いないと断言できる。だから私は、数秒の沈黙を挟んでこう言った。胸中で侮蔑をもてあそびながら。
――……ごめんなさい。私、好きな人がいるの。
これは繰り返し使えて、きわめて便利な手段。こういえば男も引き下がるし、他の断り方とは違って、男に「なぜ」とか、言及されなくて済む。でも、困ることもある。
――それは誰?
こう聞かれること。実際私には好きな人がいる。とてもウイットに富んでいて、素敵な人。でも私がその人の名前を出すことはない。その人が迷惑するのが目に見えているから。私はそういう時、仕方なく顔を伏せる。私の流れるような黒髪で、表情を隠すために。そして、哀切と震えの混じった声音を作って、
――……ごめんなさい。
そう言って走り去る。そういえば男は追いかけてこない。走りながら、私は含み笑いをし、再確認する。人の心をもてあそぶ享楽と、それが出来る私の美しさを。その後、私は鏡を取り出してこう言う。
――あなたが、好きです。
鏡に映る才媛、つまり私に向かって。
「それでねー、これが彼なんだけど」
女子生徒が私に対してぶしつけに携帯電話に張られたプリクラを見せる。そこには、二つの頬をくっつけた男女が、満面の笑みで私を見つめていた。男は数日前、私が丁重に交際を断った男だった。
「お似合いね」
そう、いろいろな意味で。何事にも釣り合いがあるもの。彼氏には謝罪しなくてはならない。そして、こう言葉尻に付け加えるの。
現実を理解するのは、さぞかし辛かったでしょう、と。
「ありがとー」
彼女は顔にプリクラと同じくらいの満面の笑みを称える。私もとりあえず、彼女の何倍にも美しい笑顔を返した。
そのとき、私の耳に休み時間終了のチャイムが飛び込んでくる。全ては私のプロット通り。休み時間は女子生徒たちとのコミュニケーションを図る。彼女たちの意思には、とりあえず軽い相づちでもって肯定しておく。そのほうが都合がいい。
加え、その意思を否定せずに、ほんの少し後押ししてあげるとなお良い。「だよね」と彼女たちに言わせればいい。それだけで話の輪に自然に溶け込むことが出来る。そして、落ち込んでいる女子生徒がいれば、無視せず慰めてあげる。理由を聞き、同情し、ここでも女子生徒の言い分を後押しする。
ここで注意するのは、彼氏のことで消沈している場合。彼氏の悪口を言うのを極力避けて、彼氏の思いを尊重しつつ女子生徒の背を押してあげる。加え、他人の悪口はどんな場面でも言わないほうが良い。私のいないところで、人づてに悪口を言っていたことが伝われば、後々に不信感を抱かれる原因になる。
……その他にも、いろいろと細かい技術が必要なものの、それは企業秘密。
変わって、男子生徒はもっと扱いが楽。私が綺麗だってことだけで悪態をつくものはいないし、話しかけられても、女子生徒と比べて少しそっけなくすることで、女子生徒から嫉妬されなくて済む。もし、告白されたときは、前述のようにして回避。尻軽女と怨恨を受けるから、自分からはなるべく男子と話をしない――用事があるときは別だけど。
最も簡単なのは先生。学期毎にあるテストで満点に近い点数を取ればいい。もちろん、満点でもいい。それだけで先生は、私にまじめな生徒というレッテルを貼ってくれる。
不自然なほどに全てを満点にしないで、時々わざとケアレスミスをしたりすると、愛敬が出たりする。
冒頭で言った、欠点を見つけたがるのが人の常だから。安心させてあげるのだ。私の描いた絵図の中で、安心してくれていたらいい。踊らされているのも知らずに。知らないって幸せなことね。
最後に、この全てに共通するものがある。
……笑顔。
笑顔は、心を巧みに隠蔽する仮面。これさえ称えていれば、私に不の感情を抱くものは皆無に等しい。
これら全ての技術を用途に分けて駆使するのは疲れるけれど、学校生活における人間関係を円滑にするには仕方のないこと。
人間は素敵。
教室のドアが開いて、先生が入室するのを横目に、私はほくそ笑んだ。もちろん、心の中で。
ドアの開く音に気がついた女子生徒は、狼狽する。
「あ、先生来ちゃった」
助かったわ。あなたと話さなくて済む。
「どうしよう……」
自業自得よ、いい気味。
「ね、お願い! ノート写させて」
絶対に嫌。ブスが感染しそう。
「いいよ。情けは人のためならず、って言うしね」
「さすが慶野さん、話わかるー」
嬉しそうに、両手を胸の前で合わせる。
この様子では、ことわざの意味も正確にとらえてないみたい。さすがにこの問題も解けないだけのことはある。
「それじゃ、借りるね」
せいぜい頑張ってね。馬鹿なりに。
私は彼女にノートを渡した。先生が、なにやら予習と授業態度のことで小言を言っている。私にはまったく関係ないことだ。
私はぼんやりと白い浮雲に視線を送りながら、考えていた。
偽善という美しい行為について。
人が白眼視する偽善は、他人に知られない限り偽善ではない。自分が一体、いつ、なんどき、偽善的行為をしたことで、他人に迷惑をかけたのか。
答えは、否。
私は逆に他人の役にたっている。ノートを貸し、課題の提出を遅らせるように先生に進言し、似合わないのに褒めて喜ばせたりと、他人に幸福を与えている。こんな私を知れば、きっと誰もが反対し、槍玉に挙げるだろう。
しかし、私はあえて言いたい。他人に対する偽善は行うべきだと。
たとえば、不細工な人間に、不細工、と言った人がいるとする。誰が不細工と言った人間をかばうだろう。真実を語ることが善であるならば、そう言うことも仕方ないはず。なのに人は、真実を語る人間を糾弾する。そしてあろうことか、被害者と目される人物に同情したりする。もし、ひどいよね、と言って被害者に同情したとするのなら、それは、何に対して同情したのだろう。
もっと詳細に言い換えてみる。
「不細工な○○さんに、不細工と真実を言うなんて、××さんはひどいよね」
おそらく同じか、もしくは近い内容になるはず。みんな分かっている。分かっているのに同情するなら、それは立派な偽善ではないのか。
「○○さんは、不細工じゃないよ」
偽善。
「気にしないで」
偽善。
一方で。
「性格はとってもいい」
真実。
「これから綺麗になろう」
過程的な真実。
でも、真実はやはり糾弾されてしまう。慰めになっていない、と。その言葉の真意。
不細工な人。不細工といった人。そこに必ずと言ってよいほど現れる人間。言われた人に、言った人の悪口ばかりいう人間。どうしてそればかりを言って、言われた人を慰めようとするのか。その行動の真意。
この二つの真意こそ、不細工といわれた人に対する侮辱であり、立派な偽善として大成されている。
つまり、慰めという一見優しい行為の発端は、不細工な人が不細工であると理解しているから、憐憫の情を寄せているにすぎない。
ひとつの結論に達し、私はさらに回想する。
私の中学校時代は、クラスの中で孤立しているという惨憺たる日々だった。嘘は泥棒の始まり……をかたくなに守った私は、ノートを貸してといわれれば、面倒だから嫌と言い、あるとき彼氏の写真を見せてくれた女子生徒に、
「□□さんには釣り合わないね」
と、本心を言った。
髪形がどうかと聞かれたときも、似合わない人には、
「似合わない」
と、はっきり言った。
嫌いな人には笑顔すら見せず、露骨に嫌な顔をした。不細工な人には、
「△△さんは、顔はあまり良くないけど、性格はとても良いよね」
と、きっぱり言った。
全て私の本心。そして、真実でもあった。なのに、私は忌み嫌われた。真実を言っているのに。
嘘は泥棒の始まり。それは真理だった。嘘は、真実を語る私からクラスメイトを、評判を奪っていったのだから。
苦難の日々を耐え抜き、中学校卒業にあたって、私は私を知る人のない土地の高校へ入学し――仮面をかぶった。完璧なペルソナ。
今の私がそう。顔良し、頭良し、性格良し、加えてクラスの注目の的。
これらの内二つは、偽善がくれた。性格とクラスの注目の的がそう。
もともと人を見下すことに嗜好を見出し、他人より優れていることを誇りにし、人を操ることに快楽を求めていた私だから、偽善はうってつけの技術だった。中学校時代に得ることの出来なかった評判を、偽善という技術を行使することで手中にした。
つまり、他人を見下し優越感に浸るのは心の中で、人を操る快感は、私を性格の良い人間だと思い込ませることで満たされている。仮面をかぶった私を、皆は完璧な人間と称賛する。
みんな私の手のひらの上で踊っている。
これほどの満足感を味わえたことはない。
私は心中で叫ぶ。
――人間はなんて素晴らしい動物なのだろう!
私は思考するのをそこで止め、先生の授業に耳を傾けた。
「じゃ、先週のテストを返すぞ。今回の最高点は――」
どうせ私。このクラスで、この学校で主席、生徒総代の私。
「九十八点、慶野」
クラス中から、どよめきと、やっぱり、という喝采が上がった。満足感に包まれる至高の瞬間。私の好きな一瞬。そして――
取れない人のほうが不思議。馬鹿はいつまでも馬鹿同士で群れていればいいわ。群れなければ何一つ決められない意思薄弱な生徒のみなさん。
そんなふうに照れ笑いの中で蔑視した。
その日の学校生活も完璧に演じ、私は心地よい疲労感を背負いながら家路に着いた。
偽善は本来の自分ではないから大変。自分の中に二つの人格が存在しているのと同義。でも、楽しいのも事実。だって、人を簡単にだませるもの。
私は携帯電話を手に取り、先日、他県の街中でナンパされた男に電話をかけた。
「セイジ? 私。ねえ、聞いてよ、今日さ――」
それは、もう一人の私。
学校での私とは別の、無邪気な私。
まるで、自分自身で小説を書いているように思えるこの行為は、日頃の「善人」である私を脱ぎ捨てることができる唯一の時間だった。セイジは私の素性を知らない。通っている学校も、年齢も。
「それで馬鹿みたいなの。そのときソイツなんて言ったと思う?」
学校生活で言えないことを、このときにだけ言う。もう一人の無邪気な私は、それを可能にした。セイジはもちろん、私を無邪気でかわいい性格だと思い込んでいる。そうやって相手をだますことは、私にとって至上の快楽。
「あはははっ! そうでしょー!」
学校では決して使うことのない高音域の笑い声。閉塞されていたものがあふれ出す開放感。この瞬間がたまらない。私は、セイジと三十分ぐらい会話をし、
「じゃあねー、そろそろ切るからー」
『ああ、またな。エリ』
無邪気な役を演じる私に、私はエリと命名していた。
次に私は、別の携帯電話を取り出す。今取り出した携帯電話は青く、セイジと会話していたものは黄色い。
私は常に最悪の可能性を視野に入れているので、ひとつの携帯電話にメモリを満載にしてはおかない。もしも携帯の中身を見られたときに、メモリが男だらけだったら、どう思われるか想像に難くないから。それに、携帯の色がはっきりしていれば、一目見たときに性格を簡単に変えることが出来るという利点もある。
呼び出し音の先は、セキカワという男。
「も、もしもし…………あの……マイ……ですけど」
今度はマイなる人物に変身する。
「実は……私の彼が……」
マイには彼氏がいることにしている。マイは、彼氏と意思疎通が上手くいかず、彼氏が二股をかけていると思い込んでいる。内気で積極性に欠けるので、人に意思を伝えることが下手。そんな性格設定。
『うん。大体分かった』
私は電話越しに肩を震わせながら、心中で爆発しそうな笑いをこらえる。セキカワは一体何が「分かった」のだろう。マイなど架空の人物であるし、存在しないのであるから、当然分かることも不可能。だというのにセキカワは、架空の人物マイの相談に真剣になっている。
「……は、はい……分かります……それで……」
私は極力、か細く、声音に悲哀を宿しながらセキカワと話す。頭の中では、架空の彼氏に冷たくされているマイ想像をしながら、私は役を演じている。
『じゃあね、マイ、頑張って』
「はい……あ、ありがとうございます。私……頑張ります」
低音域のマイの声に、微々たる曙光を付け加え、私はセキカワとの通話をやめた。私は今のセキカワとのやり取りを脳裏でよみがえらせ、ベッドの上で腹を抱えて転がっていた。
面白い。なんて面白いのだろう。
『彼氏に面と向かってもう一度好きと言ってみたらどうかな』と、セキカワは私――いや、マイに言った。無論、マイは私であるし、私には彼氏なんて邪魔なだけの存在はいない。なのにセキカワときたら、親身になってアドバイスをしている。私は笑いからくる腹部の痛みに、必死に耐えなければならなかった。
刹那、私の部屋に着信音が鳴り響いた。セイジにかけた黄色の携帯電話ではない。セキカワにかけた青いものでもない。
――私は三つ目の携帯電話を持っている。
通学用バックに入った赤い携帯電話が、流れるような和音を響かせている。その電話に出るのは、エリでもマイでもない。学校生活における偽善者である私。親切を装う私。
私は咳払いをひとつして、声の調子を確認した後、電話に出た。
「はい」
電話の相手は、ノートを貸した女子生徒だった。
『ごめんなさい。慶野さん。私、慶野さんのノート持ってきちゃったみたいなの……』
わざとでしょう、どうせ。どうせあなた一人じゃ出来ないから。
「大丈夫。気にしないでね。明日持って来てくれればいいから」
『本当にごめんねー』
本当にそう思っているのかしら。感謝されてもどうせ寝て起きたら忘れるんだし、第一、恩を返してもらえるなんて思っていない。あなたみたいな駄目人間は、いつまでもそうやって誰かの力を頼っていればいい。いざ一人になったとき、自分が何にも出来ないことに気がついて、絶望すればいいわ。
「うん、それじゃ、おやすみ」
『おやすみー』
もうかけてこないで。
私は赤い携帯電話をベッドの上に放った。シーツの上で跳ね上がったそれの振動で、近くにあった黄と青、二つの携帯電話が揺れる。
黄色い携帯電話。
それは無邪気に大声を張り上げるエリを演じ、セイジを始め多くの男たちと話すための電話。
青い携帯電話。
それは彼氏の二股を疑って人間不信に悩んでいるマイを演じ、相談相手のセキカワと話す電話。
赤い携帯電話。
それは偽善的な私が、学校の友人たちとコミュニケーションをとるための電話。
その黄、青、赤の私は、どれも私が作った虚像。私の心を恍惚で満たし、日常生活における私の疲労を払拭してくれる三人の私。
私はますますそれに熱中していった。
「だってアイツがさー……そうそう……あははっ!」
エリ。
「でも……はい……や、やってみます……」
マイ。
「うん、明日先生に聞いてみるから、そうみんなに伝えてね」
偽善的な私。
「こんな問題で間違えるようじゃ、私の足元にも及ばないわね」
素の私。
「ありがとうございます……はい……そうなんです。彼が……」
マイ。
「課題の範囲? 分かるよ。少し待ってね、えっと……」
偽善的な私。
「馬鹿は馬鹿で群れていればいいのに」
素の私。
「無理に決まってんじゃん! かなり遠いからさー、私の家」
エリ。
「……彼が……私……私のこと……っ」
マイ。
「まったく、くだらない授業。分かりやすいと思ってるのかしら」
素の私。
「だから言ってるじゃん。あきらめなよ。しつこいんだよ」
エリ。
「……あの…わ、私……また……その……」
マイ。
――そして、二ヶ月が過ぎた。
私はいつものように学校へ行き、いつものように自分の机に向かい、いつものように自習をして、いつものように演じていた。
「慶野さん。ノート見せてくれない? 私やってないんだ……」
ええ。困ったときはお互い様。
「嫌よ、面倒臭い」
私はいつものように笑顔をたたえながら女子生徒に言ったつもりだったが、彼女がこちらを驚いた表情で見ているので、聞き返した。
「どうしたの?」
彼女は慌てて、
「な、なんでもない、なんでもないよ」
狼狽したように前を向いてしまった。私はノートを取り出そうとした手を所在投げに見下ろしながら、彼女の表情を考えていた。どうして彼女は、ノートを借りないまま引き下がったのだろう。他人のノートを借りるという愚行に気がついたのだろうか。私は特に深く考えず思考を一時中断し、二度と再会させることはしなかった。
結局その日、その女子生徒と会話することはなかった。
放課後になり、家路に着く。両親はいつも残業で、家の中は私一人。私がテーブルに乗っている夕食を視界に収めたとき、赤い携帯電話が鳴った。配信されたばかりの新曲が、ダイニングキッチンに寂しく響き渡る。私が電話に出ると、クラスメイトの声。
『あ、沙耶?』
なれなれしく語りかけてきたのは、右隣の女子生徒。
『今日さー、日本史の香田ったらさー、私にこう言ったんだよ?』
私は仕方なく、彼女の話に耳を傾ける。
『体ばっかり成長させてないで、頭を成長させろ、頭を! ……って、もうサイアクー』
何言ってるんだろうね、香田先生は。私が明日注意してくるよ、はっきり。
「あはははっ、本当に? それってセクハラじゃない?」
『そ、そう……だね』
彼女の声が一気にしぼんだ。何か気に触ることでも言ってしまったのだろうか。分からない。私は見事に演じきったはずだ。なのに、この反応は。
『あ、じゃ、じゃあね! 沙耶!』
次の瞬間、乱暴な切断音と共に不通になる電話。私は首を傾げたが、まもなく私のくびれたスタイルのいい腹が空腹の叫びを上げたので、とりあえず食事をとるべくテーブルについた。
……今日は何かが変だった。
そんな不快感をまといながら。
次の日、私が教室に入室すると、そこは別世界のような雰囲気が漂っていた。
クラス全員の視線が私に殺到したかと思うと、すぐにまた談笑を再開した。視線が私に殺到したときの静寂は、喧騒を静める先生の一喝以上だった。私はやはり首を傾げ、自分の席へと歩き出す。途中、すれ違う生徒に、おはよう、と優然な口調とともに微笑むが、誰一人として私に挨拶を返してくれる者は存在しなかった。
それどころか、視界にさえ収めてくれない。私が不可視の存在、まるで幽霊になったかのようだった。加え、教室内に濃厚な霧が立ち込め、私の机の周りだけが晴れている。教室に私の居場所がすっかりなくなっていた。私は何が起こっているのか理解できずにいたが、思い切って肩を叩いて呼んでみた。
そして――拒絶された。
明らかに拒絶だと分かった。肩にかけた手を、まるでゴミを払うようにはねつけたのだ。
私は中学校時代にタイムスリップしたかと思った。
あの時と同じ空気。あの時と同じ居場所。あの時と同じ拒絶。
それらが中学校時代と寸分たがわず酷似している。疑問と混乱が、怒涛のように私に押し寄せる。才色兼備と歌われ続けた私が、自らの沽券にかかわるようなミスを犯すはずがない。
私は完璧なはず。
今まで苦労して積み上げてきた信頼や、羨望が、得体の知れない原因によって瓦解するなんて信じられない。
私は完璧なはずなのに。
なのに、どうして私を見てくれないの?
私を見て。
みんな、私を見て。
羨望の眼差しで、憧憬に染めた双眸で、私を見て――
結局、私の願いは届かなかった。
その日、私は高校入学以来はじめて、偽善を使うことなく帰途に着いた。私は友人とつながる赤い携帯電話をベッドに投げ捨て、半ばすがるようにして、黄色い携帯電話に飛びついた。
もう誰でも良かった。
私という存在を確認したかった。たとえそれが、私が作り出した人物でも構わない。
私は耳をすまし、電話がつながるのをただひたすらに待っていた。コール音が耳孔を震わせる。
『はい』
「わたし…だけど…」
そして私は死に物狂いでエリを演じた。たしかエリは、無邪気で天真爛漫、金切り声で話すはず。十分くらい話をしたと思う。突然、電話の相手が軽い調子で、恐るべき言葉を電波に乗せた。
『なんか、エリじゃないみたいだ』
「え……っ?」
私は次の言葉が出てこなかった。「エリではない」と言われた。それの意味するところは、私がエリを演じきれていないということ。私は動揺を振り払うように叫喚した。
「そんなことない!」
私は相手の返答を待たずに会話を絶った。内心で激しく動揺し、動悸が速度を上げた。
私は青い携帯電話に一縷の望みを託した。
マイの性格を冷静に考える。人間不信に陥っていたが、最近はセキカワのおかげで克服しつつある。そして、彼氏との仲も良好……。
私は携帯電話を強く握り締めながら反芻した。
セキカワは一人暮らしの貧乏学生で、いまどき珍しく携帯電話を持っていない。だから、彼のアパートにある固定電話にかける。
連続する呼び出し音。
お願い、出て。セキカワ、お願い。
十回目の呼び出しで、ようやくセキカワにつながった。私は安堵の息を漏らす。
『もしもし、セキカワですけど』
セキカワの野太い声帯に、私は涙が出そうになった。
「私……です」
その絶望は、かつて味わったことのないほど、私を暗闇に叩き落した。
『誰?』
その声は、私が誰であるか分からずに戸惑い、怪しむ声だった。私はそれ以上何も言えず、セキカワとのつながりを絶った。私は小刻みに震えだす。ベッドの上で両足を抱え込んで、顔をそこに埋めながら、恐怖に打ち震えていた。
誰も私の存在を知らない。
演じ切れていたはずのエリ、マイ、学校での私。その三者が、誰の心の中にも存在しない。
何が間違っているのだろう。
声の調子、感情の起伏、言葉の陰影、濃淡。
その微妙なニュアンスが出来ていないのか。そんなはずはない。私は完璧だから。私は完璧……。
――エリじゃないみたいだ。
――誰?
私よ。
全て私。
違うなんてことはない。
演じていたとはいえ、それはれっきとした私自身。
ふと気づく。
私が演じている私を否定された私は……演じていない私は、どんな私?
私はどんな性格?
どんな人間?
――本当の私は、誰?
エリのこと?
マイのこと?
それとも学校での私?
あと、もう一人いたような気がする。
「……私は、誰?」
頭をくしゃくしゃにかきむしると、指に頭皮からにじんだ血が付着している。膝の上に長い髪の毛が、何本も何本も落ちてくる。
「……私は……わたしは……ワタシハ……」
加速度的に動悸が速度を増す。どくん。ドクン。どくん。ドクン。黙していると、頭の中にその音が反響する。戦慄が背中を駆け上がった。私という人間、性格の喪失。ひとつに定まらない私。性格を使い分けていたはずが、いつの間にかそれぞれが溶け合い、鮮明だった、黄、青、赤が、私の見知らぬ色に変化していた。
私の色が見つからない。
「あ……ア……」
そして、赤い携帯電話が鳴り響く。
音が狂乱する。脳を反響する。
私の震えが極限に達する。発汗が止むことなく私の肌をなぞっていく。携帯電話に手を伸ばすが、触れるまでには至らない。怖い。
次に、青い携帯電話が鳴り響く。
音が狂乱する。脳を反響する。
私は部屋の隅まで逃げる。もう逃げ場はない。足がすくんで動けない。苦しい。
最後に、黄色い携帯電話が鳴り響く。
音が狂乱する。脳を反響する。
出来損ないの協奏曲が、部屋中を狂ったように回っている。嫌。止まらない不協和音。カプリッチオ。
私が混濁していく。何色なのかも分からない。知らない。理解できない。
消えてしまう。私が。消える。キエル。消えてしまう。嫌。私は赤色。
違う。黄色。青色かもしれない。もうひとつ。もうひとつあるはず。ナニイロ。教えて。誰か。ワタシハナニイロ。
徐々に目の前の色が消えていく。
嫌。消えないで。キエナイデ。
三方向から漂う瘴気が私の脳を侵し始める。音という瘴気。耳から侵され、全身に広がっていく。
痛い。私は耳をふさぐ。イタイ。消えていく。ワタシガキエテイク。首を激しく左右に振る。イヤ。嫌。タスケテ。
瘴気から三人の人間が現れる。誰。ダレ。三人が無表情で接近してくる。嫌。戦々恐々とした思いが、私の未来を予見する。コナイデ。
三人が私を取り囲む。無機質な瞳で私を見下ろす。死んでいる人間のそれ。三人が六本の手を伸ばす。
私に近寄らないで。
コナイデ。触らないで。私は壁伝いに逃れる。半死人が私を急追する。
駄目。タスケテ。嫌。コナイデ。背中越しにベランダが見える。
私はスライドガラスを開ける。
一歩一歩近づいてくる。
イヤ。来ないで。
私は逃げた。
開ける。
視界。
無。
そこには何もない。
気づいたときには空中に身を投げていた。
三人は、三人とも私だった。私でない私。私は、私が落下していくのを見て、霧散した。
衝撃の後、ビデオカメラを地面に転がした画像が、しばらく私の視界を埋めていた。
…………気がつくと、私はベッドの上にいた。
自宅ではないことから、おそらく病院であろう。
とりあえず自己紹介。
私の名前は、慶野沙耶、高校生。
眉目秀麗な容姿を持ち、頭脳明晰、さらには、身体能力も他の追随を許さない。漫画の世界から飛び出してきたかのように、当たり前に完璧なのがこの私。
……けれど、クラスからは疎まれている。
私を簡単に照会するなら、今のが最も分かってもらえると思う。
――気の毒に、意識は戻らないんですって。なのに誰も見舞いにいらっしゃらないらしいわ。
――まぁ、あんなに綺麗な娘さんなのに……何があったのかしら。
でも寂しくはない。本当よ。
不思議なくらいに、寂しくなんかないの。
なぜなら、私には三人の友達がいるから。
紹介するわね。
彼女の名前は――
【おわり】
興味を持ってくださった方、読んでくださった方、ありがとうございます。『小説家になろう』一筋、NAOと申します。皆さん、ともに『小説家になろう』を盛り上げていきましょう!! そして、その一翼を担えるよう頑張ります!! 今、この小説を読んでくださいますと、もれなく作者の栄養になります。