離婚編 13
冬の夕暮れは短く、すぐに町が闇に呑まれてしまう。
今夜は一段と寒くなりそうだ。
気配を強めている雪も、暗くなるころには降りそうな勢いだ。
俺たちは、他愛のない話をしていた。
もうすぐ帰ってくるであろう梨緒に、変な気を遣わせないためにも。
俺たちは、他愛のない話をしていた。
「啓悟さん!」
玄関の扉が開く音。そして、あわただしく廊下を走ってくる足音。
この声には聴き覚えがあった。梨緒ではない。
梨緒と、一緒にいるはずの、人の声。
啓悟はその声に驚いた顔をして、俺と顔を見合わせた。
リビングに、肩を揺らした少女が現れる。
「ど、どうしたの、実」
啓悟は目を丸くして、実さんにたずねた。
俺は実さんのその、普段見ない動揺した姿に、嫌な考えが頭によぎる。
梨緒と、一緒にいるはずの実さんが、一人でやってきた。
しかも、こんなに取り乱した状態で。
「梨緒、ここに来ませんでしたっ?」
息を切らしながら、俺たちを必死な眼差しで見る。
「いや、来ていない」
俺は冷静に、即座に答、実さんに駆け寄る。
その返答に、実さんは顔を青ざめた。
「何かあったんですね? 梨緒は、何か言ってました?」
啓悟は混乱していて状況がつかめていない顔をしているので、俺がずかずかと勝手に聞き出す。
今分かる事は、梨緒が実さんを置いてどこかに行った事。
その行った先は、どこだ?
「何も……お店でお茶をしていたら、梨緒に電話があって、それで席を外したんです。でも、待っても待っても帰ってこなくて……!」
「誰から電話が来たか、とか聞いてますか?」
「竹さんから、って、言って……」
「……」
勿論、俺は電話なんてしていない。つまりは。
梨緒が、嘘をついた。
……やっぱり、梨緒を連れ帰るべきだったんじゃないか。
嫌われても、疑うべきだった。
「……」
実さんは、その場にしゃがみこんでしまった。
それを支えようとするが、実さんは相当のショックを受けているみたいだ。
いつも平然としている実さんが、こんなになるだなんて。
啓悟は、そっと実さんの横に来て、背中を撫でた。
「……何か他に、知ってる事があるんだろ」
優しく、問いかけた。
俺はその啓悟の言葉に、面喰った。
他に、知っている事?
実さんの顔を見る。
俯きながら、何かに耐えているように、肩が震えている。
「……オレが許すから、話してくれ」
「……っ」
実さんは、制服のポケットから一枚の、メモ用紙を取り出した。
震える手をそっと包んで、啓悟はそのメモ用紙を受け取った。
メモを開く。
俺も横でそれを見る。
啓悟の表情は、険しい。
みーちゃん、騙してごめんなさい。私、お父さんと一緒に暮らしたいと思っています。今日、お父さんが迎えに来るから、お父さんと一緒に、ここを離れます。いつかお兄ちゃんもお母さんも理解する日がきて、四人で暮らせる日が来る事を、みーちゃんも願ってくれると嬉しいです。ごめんなさい、さようなら。
「……さようならって」
啓悟は、絶句していた。
実さんは、声を押し殺して泣いていた。
「梨緒の決意なんだから、わたしは梨緒を尊重して見送らなきゃって思ったんです。梨緒は、わたしのこと、いつも許してくれる人だったから……」
でも、と、言って、実さんはまた泣き始めて、言葉にはならなかった。
俺はすぐに立ち上がり、携帯電話を取り出す。
梨緒が出る可能性は低い。なら、ここは人手を確保したほうが良いだろう。
呼び出し音が鳴っている間に、俺は実さんに問う。
「梨緒がいなくなったのは、いつですか」
「……二十分前です」
そう応えると、電話がつながる。
『どうしたの、竹都』
普段かけないからだろう。冬子は驚いた声で電話に出た。
今までのことを早口で伝えると、冬子はすぐに分かった、と返した。
『あたしも探すね。今学校にいるから、学校付近捜すよ』
「頼んだ」
『竹都も、死ぬ気で探してよ』
「分かってる」
俺は穏やかに微笑んで、電話を切る。
「啓悟は、梨緒にかけて」
「え、でも、オレじゃ絶対に出ない……」
「かけるだけでも、充分だ」
俺は言って、次に電話をかける。
ここは、二人で居そうだな。
思いながら、電話をとるのを待った。
「おう? あの冷たい保護者さまから電話か」
「いつ王子様に昇格するか、楽しみだけどね」
「王子様になる日が来てくれると、嬉しいね」
オレは皮肉に笑いながら、電話をとる。
しかし、可愛い彼女と……いや、恐怖の女王と一緒にいるところに電話をかけるなんて、なんという救世主か。
「おう、今彼女に絶賛重い愛を受け取っている松川だ」
「はあ? 殴られたいの?」
「ヒールで踏まれてるんだけど」
『遠野さんも一緒なのか、良かった』
電話の向こうの竹都は、安堵した声を出した。
いやいやいや、全然良くない。オレ死にそう。デートなのに何故か命の危機にさらされています。
竹都はオレの主張など聞かず、早口に今の状況を説明した。
オレは口をつぐんで、それを聞いていた。
その雰囲気を汲んだのか、遠野も頬杖をつきながら、鋭い目でオレの表情を観察していた。
しかし、ヒールはオレの足の上である。
こわい。
竹都からの頼みに了解了解、と軽く答える。
「遠野と一緒に探すよ。学校近くの商店街にいるから。じゃあな」
電話を切り、遠野のほうに視線を送る。
遠野は分かった、と肩をすくめる。
「梨緒ちゃん探しね。あの子、小さいから大変そうね」
「可愛いから、すぐ見つかるだろ」
「あら、彼女の前でそういうこと言う?」
にっこり笑うと、壮絶なビンタを貰いました。
笑顔が可愛いと思って刹那後の地獄です。
泣きたい。
と、今度は遠野の携帯が鳴る。
しかも、いつも聞く音楽とは違う。
……生徒会長、だ。
遠野はすぐに電話をとる。
その顔は、少し心配そうだ。
遠野は、生徒会長の話をするとき、いつもそうだ。
「どうしたの、ホームシックにでもなった?」
口には出さないけど。
遠野は生徒会長の返答を待っているようだ。
けれど、携帯からは何も聞こえてこない。
「……ちょっと、どうしたのよ」
遠野が尋ねて、それから、遠野は、口をつぐんだ。
オレは怪訝な顔をして、その様子をじっと見ていた。
しばらく黙っていた遠野は、みるみる泣きそうな顔になっていく。
オレはその姿に、ただ横で、動揺していた。
「そう。……そうなの」
遠野の声は相変わらず強いままだ。
オレは、静かに悟る。
そうか、生徒会長の弟さん、見つかったんだな。
――きっと、もう、生徒会長に笑いかけてくれる事も、ないのだろう。
「帰っておいでよ。アタシ、今ならアンタに胸貸してあげるわ」
遠野は夕闇を見ながら、にっこりと笑った。
まるでそこに、闇に呑まれそうな生徒会長がいるようだ。
遠野はじゃあ、と言って、電話を切った。
「さ、早く梨緒ちゃん探しましょ」
遠野はそうして、商店街を歩き始める。
オレは、ほんの数秒立ち止まったまま。
うん、ちょっと勇気をためてるんだ。
殴られるのを覚悟でオレは後ろから、遠野を抱きしめた。
遠野の肩が揺れる。
遠野は今、深い傷を負ったんだ。
親友と、同じように。
体が震えているのが分かる。
しかし遠野は、強がったり、拒絶したり、ましてや殴ったりもしてこなかった。
オレの大切な、強く弱い彼女は、大人しく、オレの温もりに肩を預けた。
通行人A(今彼女ヒールで彼氏の足踏んだぞ)
通行人B(今彼女壮絶なビンタ食らわせたぞ)
通行人A・B(彼氏、彼女を抱きしめたぞ……!?)
このカップルすごい。