離婚編 10
長い沈黙が続いていた。
俺は、啓悟が落ち着くまで、その場で辛抱強く待った。
啓悟は、泣いているのだろうか。
何も動かない彼を、ただ待った。
「……オレ、最低だ」
やがて、啓悟が口を開き、そう責めた。
涙声で、責めた。
「……お前は、自分の言いたい事が言えてなかっただろう。ただ、混乱してたんだ」
落ち着いた声で、啓悟をなだめる。
それでも啓悟は腕に顔をうずめたまま。
しんと張り詰めた冬の空気は、部屋に滞ったまま。
頬が冷たい事に、なんとなく意識がいく。
「梨緒がやっと話してくれたってのに、オレはちゃんと聞いてやれなかった……」
「……しょうがないだろう」
「違う。しょうがないとか、そんな言葉で片付けられる事じゃ……今まで、梨緒はたくさんのことを秘密にしてきたんだ。オレや、母さんに心配かけないように」
……確かに、梨緒にはそんな節がある。
何も知らないようなふりをしていて、実はちゃんと分かっているんだ、彼女は。
思い返せば、今までそんなことがいくつあったか。
それを俺は、見抜けないでいた。
どれだけのことに気を遣わせていたか、数えきれないだろう。
そして彼女は今、無邪気な振りをしながら、一生懸命一人で、あの頃の家族を取り戻そうとしている。
頑張るから、と梨緒は言っていた。
でも、これは、頑張ればどうなるとは……到底思えない。
「梨緒までいなくなったら……どうしよう」
啓悟は、弱音を吐いた。
その言葉にひどく胸が痛んだ。
あのときよりももっと辛い現実だ。
啓悟は、どれほど泣いてしまうのだろう。
「そんなこと、させないようにするんだろ」
啓悟をまっすぐに見つめ、俺は言った。
けれど彼は、顔を上げない。
「梨緒の手を離さない。もう、手を離さなければ、大丈夫だろ」
「……」
「仲直りをしよう。あのときみたいに」
公園で並んで歩いた、あのときみたいに。
「……竹都は、何を思って、そう言っているんだ?」
「……え?」
唐突に、啓悟はそんなことを尋ねてきた。
この問題に、自分が向けられるなんて思ってもなかったから。何を言われたのか、一瞬分からなかった。
けれど、その時だけは、啓悟が俺を見ていた。
本当に、純粋な瞳で俺を見ていた。
「あのときから不思議に思っていたんだ。確かに家は近いし、いろいろ仲良くはしてきた。だけど、ちょっと前までは、竹都は離婚の事とか……まったく触れてこなかっただろ。でもどうして急に……」
啓悟からまっすぐに届けられるその言葉は、俺をひどく混乱させた。
そういえば、そうだ。
確かに俺は、前までこれについては逃げていた。
毎年、辛そうにしている梨緒を、横目で見ていただけだ。
どうして、急に?
だって、俺も梨緒がいなくなるのは嫌だから。
一人でどこかに行こうとする梨緒が、怖いからだ。
「……梨緒は、俺の、妹みたいなもので」
そうだ。
梨緒は俺の妹みたいなものだ。
はじめて会ったときから、そうだった。
啓悟と一緒に、ずっと見てきた小さな妹だ。
「いや、違うだろ」
俺の頭の中の回答を、啓悟は一瞬でかき消した。
はっとして、彼を見る。
啓悟は、純粋な気持ちで、それを言っているようだった。
とても率直な、啓悟の言葉が、俺の頭の中で反芻される。
「お前は、梨緒の兄じゃないだろう」
「だから、みたいなものでって……」
「梨緒は、お前の事お父さんみたいだって、言ってた」
「はあ!? いつ言ったんだよ」
驚いて、この場に合わない素っ頓狂な声を出した。
「ずっと小さい時。小学生だった」
「んなずっと昔じゃないか……」
「でも不思議とはっきり覚えてるんだよなあ」
「なんでそんな急に……」
啓悟は、さきほどの情けない顔とは一変して、本当に不思議そうな顔をしていた。
「オレも、その時は竹都のことお父さんみたいだって思ってたから」
「……唐突な告白だな」
そんな振る舞いをした覚えはないのだが。
心外だ、と俺は思った。
「でも、今は違うよな」
「よなって言われてもなあ」
「梨緒はそう言いながら、本当のあいつを追いかけてただろ。それにオレも、竹都は父親とかではないよなあと思い始めてた」
「……まあ」
何が言いたいのか、よく分からなかった。だから曖昧な応えを返す。
啓悟は、俺に何が言いたいのだろう。
「梨緒は、お前をどんなふうに見ていたんだろうな」
「さあ……本人に聞かなきゃ分からないだろ」
そう言ったら、啓悟は俺をじっと見つめて、盛大にため息を吐いた。
なんか、啓悟にそういう態度をとられると非常にむかつくのだが。
手が出そうになるのをぐっとこらえる。
「竹都ってほんとに疎いよなあ」
ははは、といつもの調子で嘲笑われた。
なんだこいついきなり……!
少しかちんときて、むっとした表情で、
「一体何が言いたいんだよ」
苛立ちを隠さずに、促す。
すると啓悟は、唐突におかしなことを言った。
「オレさ、竹都が梨緒の彼氏でも、良いと思ってる」
「……は?」
俺の聞き間違いかと思って、目を丸くして啓悟を見つめなおした。
すると啓悟は、どうやらひどく真面目に、軽く言ったらしかった。
「だから、オレ的には、竹都が梨緒の彼氏でも良いって、思ってるんだってば」
「いったいどこからそんな話になるんだよ」
しかも彼氏って……
俺と梨緒は、そんな関係にはならないと、思っている。
でも、どうして、こんなに、嬉しいのだろう。
少し照れている自分を気持ち悪く思う。
今はこれを啓悟への怒りに変換しよう。
「だから俺は梨緒をだな……」
「梨緒は確かにお前の後輩で、同じ生徒会でさ、幼馴染さ。でも、兄妹じゃないだろ。梨緒にはオレがいて、お前にはオレたちにはいない父親がいる。お前とオレは、兄弟でもない」
ひどく落ち着いた様子で、啓悟は俺にそう説得した。
でも何故か、その言葉が嬉しかった。
今まで、啓悟と並んで、梨緒を見ていようと思っていたんだ。
父親がいない、純粋で頑張り屋の彼女の手を、優しく繋いでいようと思っていた。
「竹都が逃げずに、ちゃんと梨緒を連れて帰ってきてくれて、すごく嬉しかった。オレじゃできないことが、竹都はできるんだ。梨緒の手を繋いでいてくれる人は……竹都なんだろうな、とか、思っただけ」
「え、じゃあお前……」
「遠野さんから聞いてたんだ。梨緒を保護したとか。でも、オレが迎えに行くと、きっと逃げるんだろうなって思ったから」
啓悟は、俺に託してくれたのだ。
それがひどく、嬉しかった。
「……梨緒はお前の事が好きだよ。すごく好きだって思ってる」
啓悟は残念ながら、と負け惜しみに付け加えた。
「それも、梨緒が言っていたのか?」
俺は、冗談交じりに尋ねた。
「いいや。でも、分かる」
啓悟はしっかり頷いた。
俺は、はは、と、笑った。
部屋の中の空気は、雪が溶けたように、優しくきらめいて見えた。
「……でも啓悟、よく梨緒を手放すような発言ができたな」
「だってオレは、梨緒の彼氏にはなれないから……」
「そんな憂いのこもった瞳で言われても、犯罪臭しかしないんだが」
最終章にしてやっと恋愛小説っぽくなってきた。